『東洋大学百年史ー通史編Ⅰ』にある戦前の野球部の項には
とあるのですが、大正・駒沢との三大学リーグについては、当時の新聞記事にも記載がなく実態は分かりませんでした。
ところが、最近戦前の『野球界』という雑誌を別の件で調べているとき、昭和5年2月号に「駒澤大学予科チーム」という記事があるのを見つけました。筆者は“駒澤ファン”となっており、読者の投稿記事のようです。
この三大学リーグ戦に関する記事は今のところ見当たらず、東洋対大正の結果は分かりませんが、上記記事の両校の対駒沢戦結果を見較べれば、東洋と大正の間にも実力差が有りそうです。
現在の駒澤大学野球部は創部を昭和二十二年としており、戦前の野球部の歴史は継承していないようですが、『駒澤大学新聞』には
など、野球部に関する記事が散見され、学友会の予算も組まれていたようです。
また、東洋大学は以前UPした
東洋大学野球部の歴史-戦前・追加分:昭和四年の関西遠征
にも書いた、関西遠征を行うなど、この頃から徐々に野球部も活発に(実力はさておいて)活動し始めたようです。
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「昭和六年かねて協議中であった文理・拓殖・東洋の三大学野球連盟が結成された…(中略)…なお、例年おこなわれていた大正・駒沢・東洋の三大学リーグ野球戦は大正大学の脱退によって、次年度からリーグ戦を廃して駒沢大学と東洋大学の定期戦とすることとなった」
とあるのですが、大正・駒沢との三大学リーグについては、当時の新聞記事にも記載がなく実態は分かりませんでした。
ところが、最近戦前の『野球界』という雑誌を別の件で調べているとき、昭和5年2月号に「駒澤大学予科チーム」という記事があるのを見つけました。筆者は“駒澤ファン”となっており、読者の投稿記事のようです。
駒沢大学予科チーム
過去を顧みれば我が野球部は実に苦境にあったのであるが、此処に憂校の士現れて、其の基礎が確立したのである。
今年こそは実現せんものと、部員が結束して起てるは昭和四年春まだ浅き四月武蔵野を吹きまくる風は骨を刺す程冷たく、乾きも果てぬ春の路に新入生の帽章鮮やかなるの時であった。眠りを誘う春の日が万遍なく下界を照らす時、黙々として阿部幸球場の土を踏むならば多感な男子の胸は、若い夢と紅い血で高鳴るのであろう。見よ、ゆらゆらと立つのは陽炎のみに非ずして、幾歳の間、幾百千の若い男子の流した汗の蒸気であり、涙の気であり、血の香いでもあろう。
砂に残したスパイクの後はやがて風雨で消ゆるとも、男子健闘自然の意気はグラウンドの底に滲み込んで、今阿部幸球場一塗の土を精密に分析をするなら、出て来るものは科学的の「物」のみではなくして、必ずや生命の断片意志の痕跡とでも云うものを見出す事ではあるまいか。さあれ運命の神は今春我が野球部に軽い微笑を見せた切りで最後の栄冠を与えなかった。
× × ×
春季成績
三大学リーグ戦(東洋、大正、駒沢)
本学対東洋一回戦 十六対四 勝
対東洋二回戦 十八対四 (七回コールドゲーム勝)
対大正一回戦 十二対六 負
対大正二回戦 十二対十 負
対帝大農学部実科戦 十対九勝
対高等師範 四対一 負
第二学期
草茫々たる野球場に於ける選手の一人一人は、緊張そのものの様に動いていた。薄い野球帽を通して照りつける日は眩暈さえ感じられた。このすごい努力はどうする事も出来なかった。指をついた者もある。スパイクされた者もある。が殆ど夢中になった選手には、それが返って興奮剤とさえなったのだ。そして大正大学との三回戦の時は梅干し入りの握飯で彼地へ遠征しなければならなかったのだ。
小敵なりとも侮るなかれ、「最初それに対する心持如何によって全体が決定するものなのだ。」「ベストを尽くす。」
それが己業のモットーだ。
眞白に引かれたライン上にナインの緊張した姿が踊っていた。遂に我々の頭上に燦然とカップが輝いていた。
× × ×
秋季成績
三大学リーグ戦
対大正一回戦 五対三 負
対大正二回戦 六対〇 勝
対大正三回戦 十七対〇 (七回コールドゲーム勝)
対東洋一回戦 十九対九 勝
対東洋二回戦 十対四 勝
対国学院大学 十八対二 負
対帝大農学部実科 八対一 勝
メンバー次の如し。
シート 打順
投 荒木 4
投 澤口 4
捕 祇園 5
一 大橋 9
一 中本 9
二 大澤 9
二 西澤 7
二 谷 7
三 宇佐見 1
遊 苫米地 6
左 久我 3
中 山崎 2
右 影浦 8
右 菊谷 8
部長杉岡教授、光山学監、末永教授の御後援を得る事は、感謝に堪えない次第である。
監督服部氏コーチ樋地氏の御尽力に対しては万感の意を表する。卒業生大澤、大橋、西澤三君。
我が駒澤大学野球部予科チームの来年の活躍振りを期待せられん事を。
(『野球界』昭和五年二月号=原文は旧かな旧漢字)
この三大学リーグ戦に関する記事は今のところ見当たらず、東洋対大正の結果は分かりませんが、上記記事の両校の対駒沢戦結果を見較べれば、東洋と大正の間にも実力差が有りそうです。
現在の駒澤大学野球部は創部を昭和二十二年としており、戦前の野球部の歴史は継承していないようですが、『駒澤大学新聞』には
「今春創立した帝都四大学野球リーグはその産声とともに都合により東洋大学の欠場を生じ一抹の淋しさが認められたが…」
(昭和十年十月)
など、野球部に関する記事が散見され、学友会の予算も組まれていたようです。
また、東洋大学は以前UPした
東洋大学野球部の歴史-戦前・追加分:昭和四年の関西遠征
にも書いた、関西遠征を行うなど、この頃から徐々に野球部も活発に(実力はさておいて)活動し始めたようです。
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