猫面冠者Ⅱ

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番外編:ヒトラーと握手していた“神宮の学長”=磯村英一さん

2008-10-04 10:15:00 | インポート
「昭和十年七月上旬、一人の東京市の職員が、急拠東京を発って第九回オリンピック大会が開かれようとしていたドイツの首都ベルリンへとシベリヤの旅を急いでいた。当時は飛行機の利用など不可能であり、欧州に行くにはモスコー経由のシベリア鉄道の急行でも一週間はかかる長途の旅行であった。しかもその職員は一本の黄金造りの太刀と、紋付羽織ハカマに足袋、下駄という大時代的な「貢物」を携行していた。・・・中略・・・実はこの貢物は、次のオリンピック大会を東京へ招致すべく、ベルリン大会の主催国の元首であったアドルフ・ヒットラーへの贈物。もしそれを携行しなければ出張の意義の大半は失われるのであった。」
(『東京百年史第五巻』より)

この“一人の東京市の職員”とは後の東洋大学長磯村英一さんである。当時三十三歳、まだ一介の主事でしかなかった磯村さんがベルリンに派遣されたのは、東京外語専門学校(現東京外語大)でドイツ語を学び片言の会話ならできたからだ。上記の「貢物」の内黄金の太刀はソ満国境の満州里駅でソ連の税関に武器として没収されてしまったが、たまたま磯村さんの同窓が満州領事館に勤務しており、その伝手で太刀はベルリンの日本大使館まで転送され事なきを得たそうだ。
磯村さんは東京市長の名代として「貢物」に「第十一回のオリンピックは東京へ」というメッセージを添えてヒトラーに手渡し握手を交わした。
その時痛感したのは、握手したヒトラー自身の“手の冷たさ”である。正直言って、これが生きている人間かと思われたほどであり、私の生涯で“冷血”といえばすぐ彼を思い出す。
(『昭和五十年の秘史』)


磯村さんはヒトラーと握手しているところを写真に撮られたが、元々写真嫌いだったヒトラーはこの一枚しか撮影させず、同席していた市議会議員等から“気が利かない”などと非難されたそうだ。その中の一人は後日、市議選のパンフレットに磯村さんと自分の顔を挿げ替えた写真を掲載したパンフレットを作成し、選挙違反に問われるおまけまでついた。昭和十二年四月二日の朝日新聞には「奇怪・首繋ぎ写真-悪質市議選違反」の記事が写真付きで掲載されている。

「貢物」が功を奏してかオリンピック招致は成功し、磯村さんは帰国後オリンピック担当課長に任命され開催準備を担当するが、時局の悪化に伴い中止となった。

その後、渋谷区長(当時の区長は任命制)として終戦を迎えた磯村さんは、英語が堪能なことからGHQとの交渉役として渉外部長を仰せつかる。今度はマッカーサーとの握手である。ヒトラーと違いマッカーサーの手は暖かかったそうだ。
GHQのPD(調達請求)には、マッカーサーの息子アーサーの為の白鳥を買え、とか銀座のデパートのトイレを大理石にしろというマッカーサー夫人の要求もあったが、占領政策と関係ない、と拒否したらあっさり“OK”したとの事だ。

GHQは進駐して間もない昭和二十年九月十八日に神宮球場を接収しているが、当時の思い出を磯村さんは晩年の著書の中で次のように回想している。

野球場にいって応援団の中に入り、校歌や応援歌を合唱すると、すべての苦労が忘れられる。この習慣は九十二歳になった今日でも続く。特に、神宮球場での「東都大学」では東洋大学―私の人生では一番苦労した―が有力チームであり、その応援には、今日でも必ず行く。しかも学生応援団の側には、私の“指定席”さえある。
東洋大学の学長を辞めてから、すでに十数年、それでも私の神宮通いは今でも続く。学長だったし、顧問でもあるから入場証はある。しかも、入口の守衛とは顔見知り。「先生、勝ってますよ。」といわれると駆け足で入る。学生たちは称して「神宮の学長」という。
なぜこんなことを書くかというと、終戦直後、代々木に進駐した米軍部隊は、その“レクリエーション”―英語ではこの言葉に多様な意味があるらしい―の場として、神宮球場を「占領政策に必要」という文書を利用して、米軍の“専用”として接収し、学生の利用は出来なくなった。
私はこれに対して、司令部での会見の際、何度か”不当”であるとして、返還を求めた。結局五年間の専用の後「日米の共用」ということで合意した。しかし、使用の権利は進駐軍側にあり、敗戦というものの“悲哀を感じた”。(『戦後五十年の秘話』より)

上掲の著書の中で磯村さんは「再使用開始の最初には“日米の代表チーム”の試合から始まる。」と書いているのだが、調べてみたところ、昭和二十年十一月四日に六大学OB選抜対米軍第1303工兵隊第二チームとの試合が行われているので、おそらくこの試合ではないかと思われる。(ただし、それに先立つ十月二十八日に六大学OB紅白試合が行われているので“再使用開始”の日ではない。)
この試合は15-0で六大学OB選抜が圧勝している。磯村さんは試合結果の事を
「九牛の一毛」のようなものに過ぎないが、敗戦日本がアメリカに勝ったことは否定できない事実である。

と強調して記している。

“―私の人生で一番苦労した―”とあるのは磯村さんが学長に就任したのが昭和四十四年の学園紛争の只中であったからだ。特に東洋大の紛争は全共闘運動が終息した後も、朝霞移転や学園祭の問題で五十年代半ばまで紛争が続いたのである。
「哀れなる者よ、汝の名は“学長”」。これは決してざれ言ではない。私は講義中に何回となく学生に囲まれ、校庭に引き出され、大衆団交の場に据えられた。その長時間の記録は、約十時間。・・・中略・・・さらに大学は、このような“危機”と見られる状態のなかでも、必ずしも一体となりえない。理事会は、学生が紛争を起こすのは、教授―学長の責任だという。乱闘のあと、器物や教室の破壊があると、学長はその責任をどう考えるかという“糾弾”である。
(『私の昭和史』)


“一番苦労した”東洋大学を、それでも磯村さんは退任後も応援し続けたのである。

優勝が決まった瞬間、私は連れて行かれて、球場の真ん中で選手たちから胴上げされた。
そればかりではない。大学構内での祝勝会、ここでも何回か胴上げされた。フト見ると顔見知りの学生がいる。よく見ると、大学紛争のなかでの大衆団交で、しばしば私を窮地に陥れた学生だった。
私は嬉しかった。これが“大学生活”だと思った。“よかったね”といって手を握ったその瞬間の喜びは、今でも私をその場面に躍動させる。
(『私の昭和史』)


磯村さんが亡くなったのは平成九年四月五日。享年九十四歳。“神宮の学長”を失った東洋大はこの年春・秋とも最下位となり、翌春のリーグ戦開幕を二部で迎えてしまう。

今では優勝が決まる試合でさえ空席の目立つ東洋大応援席に、第二の“神宮の学長”が現れる日を期待してやまない。

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