猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

ウィキペディアの“哲学館事件”の項に関する疑問=続・戦前の東洋大学&戦前の六大学野球の入場料収入など

2013-05-12 22:24:00 | インポート
先回、ウィキペディアなどに書かれていた“三田の理財~白山の哲学云々”についてあれこれ書きましたが、ウィキペディアにはかねてからもう一つ疑問に思っていることがありました。
それは、“哲学館事件”に関する記事の終りの方に書かれている下記の部分であります。

この後、哲学館は東洋大学となり、1928年(昭和3年)に大学令(1919年(大正8年)施行)による大学となるが、申請をしたにもかかわらず他の大学に比べて認可が遅れた(早稲田大学や國學院大學などは1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと当時の新聞は論説を書いている。また、公文書の開示結果、1920年(大正9年)に既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。
ウィキペディア『哲学館事件』の項より)


この記述に関しては“白山の哲学”以上に怪しいのでありまして、私の手元のある『東洋大学百年史』によれば、文部省に「大学設立認可申請」書が提出されたのは昭和三年一月二十日付であります。
確かに昇格へ向けた募金運動などは大正八年から始めれましたが、大正十二年に一旦中断してしまいます。理由はお金が集まらなかった事と大正十二年の紛擾事件の影響に依ります。

但し、だからと言って東洋大学が“遅れた存在”だったと云うわけではありません。
大正七年に出された大学令では、図書館の整備や選任教員の確保といった設立要件の外に、一学部の大学で五十万円、更に一学部増すごとに十万円の供託金を文部省に預けなくてはなりませんでした。

当時の五十万円がどの位のものかと言うと、大正十五年に竣工した神宮球場の総工費が五十三万円です。
今と違って高等教育への進学者数が少なかった時代ですので、当時の私学にとっては大変な金額であります。

下の表は專門学校から旧制大学へ昇格した学校を昇格年順に一覧にしたものです。大正八年の学生数と授業料収入は『文部省年報』から拾い出しました。

大正8年 大正8年 昇格 昇格 時 の 学 部
創立年 創立時の校名 学生数 授業料収入
A5 蘭学の家塾 慶応義塾大学 4709 \289,660 T 9 2 法 ・ 経 ・ 文 ・ 医
M15 東京専門学校 早稲田大学 7086 \444,056 T 9 2 法 ・ 政経 ・ 商 ・ 文 ・ 理工
M14 明治法律学校 明治大学 3543 \231,556 T 9 4 法 ・ 商
M14 東京法学校 法政大学 1093 \48,500 T 9 4 法 ・ 経
M18 英吉利法律学校 中央大学 2266 \102,410 T 9 4 法 ・ 経 ・ 商
M22 日本法律学校 日本大学 2535 \107,453 T 9 4 法文 ・ 商
M15 皇典講究所 國學院大学 252 \13,400 T 9 4
M8 同志社英学校 同志社大学 664 \37,466 T 9 4 法 ・ 文
M14 成医会講習所 東京慈恵会医科大学 596 \54,000 T 10 10
M9 大教校(本願寺派) 龍谷大学 472 \10,137 T 11 5
M15 真宗大学寮 大谷大学 268 ? T 11 5
M13 専修学校 専修大学 1607 \59,292 T 11 5 法 ・ 経
M7 英語学校 立教大学 254 \11,740 T 11 5 商 ・ 文
M33 京都法政学校 立命館大学 600 \16,335 T 11 6
M19 関西法律学校 関西大学 1367 \39,117 T 11 6 法 ・ 商
M33 台湾協会学校 東洋協会大学 399 \17,934 T 11 6
日蓮宗宗教院 立正大学 112 ? T 13 5
M8 曹洞宗專門本校 駒澤大学 347 ? T 14 3
M24 育英黌農業科 東京農業大学 672 \37,473 T 14 5
M37 日本医学校 日本医科大学 409 \49,580 T 15 2
M19 古義真言大学林 高野山大学 86 ? T 15 4
M18 天台宗大学 大正大学 402 ? T 15 4
M20 哲学館 東洋大学 346 \14,970 S 3 4
M44 上智学院 上智大学 122 \5,617 S 3 5 商 ・ 文
M22 関西学院神学校 関西学院大学 666 \26,200 S 7 3 法文 ・ 商経



東洋大及び文学部のみの単科大学は青字にしてみましたが、これを見れば五十万円の供託金を捻出するのがいかに大変だったかお分かりになるかと思います。
その為に、東洋大に限らず各校とも卒業生からの寄付を募って供託金を捻出していますが、初期に昇格を果たしたのはやはり創立年が古く、経済界や官界にOBを送っている実学系の学校です。また、東洋以外の文学系単科大学では龍谷大=浄土真宗本願寺派、大谷大=浄土真宗大谷派、立正大=日蓮宗、駒澤大=曹洞宗、高野山大=真言宗、大正大=天台宗・真言宗智山派・淨土宗の三派合同といった仏教各派の宗門の大学ですし、国学院は旧皇典講究所で宮内省とのつながりから、皇室からの御下賜金五万円と篤志家からの寄付、東洋協会大(現拓殖大)は台湾の製糖業界に人材を多く送って居た為そちらからの寄付による資金が多かったようです。

東洋大学でも大正八年から昇格に向けた準備を開始し、施設拡充のための資金125万円、専任教授の給与など事務雑費75万円、供託金50万円の計250万円を基金として集めるべく全国の校友らに呼び掛けます。

しかし、大正12年8月時点での募金状況は寄付申込金額121,750円、内実際に払い込まれたのは28,261円でありました(『東洋大学五十年史』より)


当時、東洋大の外に青山学院などで教壇に立っていた出隆は自伝の中で次のように述べています。

…それまで名前は大学でも法的には專門学校なみに取り扱われ取り締まられていた私立の早稲田大学や慶応大学なども、帝大と同格の大学に「昇格」することが可能となった。そこで、私立大学の「大学」への昇格競争が始まり、大正九年から十年、十一年に、早稲田大学、慶応大学、法政大学、明治大学などが、設置条件をみたして、相次いで新大学令による昇格をした。条件がきびしいので、貧乏正直な私立大学や私立專門学校は、昇格の波に乗るのが困難だった。たとえば、そのころ青山学院でも昇格が問題になったが、ちょうど院長の高木壬太郎氏は亡くなられ、院長代理だった石坂氏は慎重居士だったもんだから、昇格にふみきれなかったらしい。学院のある老教授の話では、昇格の条件の一つとして供託金(保証金)を五十万円ほど納入せねばならないが、これが問題になっていたらしい。老教授の意見では、それだけの金なら、学院の裏手に外人宿舎の占めている一万坪を売り払えば、時価五十円で売れるから、それで十分まに合うんだが、高木先生とちがって石坂さんは慎重居士だからそれができんのだ。なにぶん、設立当時(明治二十年ごろか)坪二十銭というのを十六銭にねぎって、結局、坪十八銭だかで三万坪買ったんだから、その三分の一を坪五十円で売れば、損はない、外人宿舎などどうにでもなるんだが、ということだった。とにかく青山学院は昇格をいそがなかったが、東洋大学などは昇格したがっていた。しかしここでも、昇格に必要な金=―コンクリート造りの図書館か講堂の建築、予科教室の増設などに必要な資金や、供託金の五十万円など―の工面がつかないで、そのために結局、学校騒動までおこして、大正年間に昇格しえなかった。しかし、その昇格熱のおかげで、と言うのも変だが、とにかく僕は、東大の助教授になる(大正十三年の秋)まで三年ばかり、東洋大学では然るべき専任教授を確保しておかねばならないからという理由で、足留め料的な意味での専任給を毎月百円ずつ余分にもらっていた。
(出隆著作集『自伝』より)


なかなかお金が集まらないでいた所へ、大正十二年の紛擾事件が起こり昇格運動は一時中断を余儀なくされてしまいます。そのうえ、大正十二年には関東大震災で被害を受けた為、昇格運動を再開するのは大正十五年になってからでした。
校友からの募金に加え、教授会から年額10,000円を五年間、更に学生も学生大会を開き一人年額16円50銭を矢張り5年間寄付をする決議するなどして、昭和三年一月二十日に昇格申請書提出、同年三月三十日付で認可となりました。

ですので、ウィキペディアの“哲学館事件”の項にある、“また、公文書の開示結果、1920年(大正9年)に既に認可できる要件は整っていたが…云々…”の記事はいささか疑問なのであります。




ところで、先ほど大学昇格に伴う供託金がどれほどの金額であったかを比較するために神宮球場の総工費を持出しましたが、その神宮球場は当時の六大学野球に何をもたらしたのか…?それは、莫大な額の入場料収入であります。

下の一覧は『早大野球部五十年史』に掲載されていた昭和四年六大学リーグ戦の入場料収入分配金です。


対慶應 \17,040 \16,658 \33,698
対立教 \6,304 \6,999 \13,303
対明治 \2,114 \10,180 \12,294
対法政 \5,497 \5,026 \10,523
対東大 \1,735 \3,477 \5,212
\32,690 \42,341 \75,031


春の対明治戦の金額が少ないのは、このシーズン明治はリーグ戦を欠場しアメリカ遠征に行っていたため春は“留守軍=二軍”戦だったためであります。
リーグ戦の外に一高などとの定期戦の収入も合わせると、昭和四年度の早大野球部の収入は“101,524円09銭”となっています。

同じ昭和四年度の東洋大学の授業料収入を『文部省年報』で見てみますと


学生数授業料収入
大学7729,825円
予科214
專門部1,930121,177円
2,221151,002円

この年度の東洋大学の学費は入学金5円、大学100円、予科と專門部は85円です。早大の野球部だけで東洋大の学生約1,000人分の学費に相当する入場料収入を挙げていたことになります。
分配金は人気の早慶が他の四校よりも多かったようですが、それでもリーグ全体では春・秋合計で30万から40万円くらいの収入があったようです。

わたくし、以前から考えていたのですが、六大学野球がその後の“新規参入”を認めなかったのはお金がらみだったんじゃないかと思うのです。
以前、六大学に加盟申請していた国学院、祝“80年ぶり?”の快挙!の記事などでも触れたように、昭和四年に日大と国学院は六大学加盟を前提とした“試験試合”を行いました。
結局これは実現しなかったわけですが、試合結果などは当時の新聞にも掲載されているのですが、その後の経過などは出てきませんでした。

あくまで私の推測なのですが、八大学、十大学と増えていってしまうと下位の学校は人気の早慶とのカードを失うことにもなりかねない…言ってみれば巨人戦を減らしたくないがために交流戦に反対したセ・リーグのオーナーたちのような考えだったんじゃないでしょうか。

“哲学館事件”の話から変な方に話が飛んでしまったので、今回のこの話はこの位にしていずれ改めてまとめてみたいと思いますが、最後にもう一つ昭和14年3月の朝日新聞に連載されていた『大学体育の実情』と言う記事から各大学の野球部費などを拾い出したものを一覧にしたものを載せておきましょう。


昭和13年度の大学野球部費など
学生数 野球部員数 野球部費 運動部予算 六大学野球分配金
法政 3500 40 \40,000 \60,000 \40,000
早大 15000 60 \30,448 \87,609 \47,493(他にラグビー\5,424)
慶應 7565 53 \18,277 \110,000 \60,000(ラグビー・水泳・陸上含)
東大 7182 25 \5,650 \25,179 \35,500(ラグビー入場料収入含)
明治 6000
立大 1600 \16,408
中大 5000
専大 2000 22 \10,000 \25,000
日大 18000 \10,000 \50,000
農大 1500 \1,401 \13,269
商大 2332 \350 \2,790

文理大 1500 \15,000
拓大 1300 \700 \12,793
工大 600 \383 \7,122



ちょっと尻切れトンボの記事になってしまいましたが、いずれ続編をと言うことで…。



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