正月恒例の箱根駅伝では最後まで健闘したもののトップの早稲田大に及ばず総合優勝を逃した東洋大だが、往路では今や全国にその顔が知られるようになった柏原竜二選手が、スタートの一区から終始先行し続けた早稲田大をお約束の山登りで捉え“三連覇”を達成。前年度のチャンピオン校としての面目を保った。
力感あふれる太ももが生み出す推進力で、先行するライバル校の後を追って急勾配の上り坂をぐいぐいと登っていく柏原選手には、年間で約2000万人の観光客が訪れる箱根路の風景を楽しむ余裕などあろう筈もないが、東洋大にゆかりのある人物で今から80年以上も前に処女作『日本アルプスと秩父巡禮』を発表し、以後生涯にわたって山旅に関する数々の著作を著わして“山と渓谷”の魅力を訴え続けたのが、英文学者の田部重治(たなべじゅうじ)である。
田部重治は明治十七年、富山県で父南日喜平と母みんとの間に男五人、女七人の十二人兄弟の七番目に生まれた三男だ。長兄の恒太郎とは十三歳離れ、次兄隆次も九歳年上だったが、二人の兄も後に英文学の道を志し、更に恒太郎の子である甥の凱夫は重治の後を追って戦後の一時期東洋大学英文科の教壇にも立った。
子供の頃の田部は病弱で小学校入学前に二度も医者に見放されたほどで、高等小学校二年の時には生家よりも奥に入った山村にある母親の実家で転地療養をした時期もあったそうだ。家の前からは海が見え、背後には立山を望めるこの大野崎村というところで学校を休学して半年ほど過ごしたことも、後に山旅に魅かれていくきっかけになったのかもしれない。
転地療養の効果もあって健康もやや回復し、明治三十年に旧制富山中学に進学するが、医師からは無理な運動を止められていたため、五年間の在学中運動会には一度も出場しなかった。それでも「…私は野球の試合にも、柔道や撃剣の試合にも、出席せずにはいられないほど見物するのが好きだった」(『わが山旅五十年』)そうだ。
一方でこの頃から文学に魅かれ出し、当初は短歌や新体詩を作って『新声』などの中央の文学雑誌に投稿するなど、行く行くは国文学の道を目指していたようだが、『明星』や『帝国文学』といった雑誌を読むうちに、次第に英文学に魅かれるようになっていった。(これらの雑誌は二人の兄が残しておいたもののようだ)
明治三十五年に金沢にある旧制第四高等学校へ進むが、この頃母みんが肺結核をわずらい翌年には亡くなってしまう。病弱だった重治の先行きを気にかけていた母は、南日家と親戚関係にあった田部家との養子縁組をすすめていたが、許婚となった田部家の次女も明治三十八年に肺結核で亡くなり、また前後して母の亡き後、家族の面倒を見てくれた叔母までを肺結核で亡くし、更には田部自身も肺尖カタルに罹るなどの不幸に見舞われている。(その後、明治四十三年に亡くなった許婚の妹きよと結婚し田部家に入籍している。)
明治三十八年に東京帝国大学英文科に入学。当時の教員には夏目漱石や上田敏らがおり、クラスメイトにも後に文学者として活躍する中勘助や野上豊一郎らがいた。
中学のころから作品を雑誌に投稿していた田部は、『新星』の編集者高須梅渓から『ハガキ文学』という投稿雑誌を紹介される。この雑誌の編集者がその後の田部の人生を決定づける役割を果たす小暮理太郎であった。
小暮は明治六年の生まれで田部重治よりも十一歳年上だが、十七歳で旧制麻布尋常中(現日比谷高)に入学。後に郁文館中に転校して二十一歳で卒業すると、仙台の旧制第二高等学校へ進み、ここでも“長居”をして東京帝国大学の哲学科に入学した時には二十七歳になっていた。帝大には六年在籍して田部が入学した明治三十八年に中退している。
田部の方は明治四十一年に大学を卒業すると、直ぐには就職せずにいったん富山に帰郷したが、その際中央線を利用して途中昇仙峡や野尻湖、赤倉温泉などに立ち寄り妙高などにも登って富山に帰った。相変わらず健康への不安を抱えてはいたが、この旅行がきっかけでいよいよ山への憧れを深めていったようだ。その年の十月に兄の紹介で明治大学夜間部の英語専修科の教師の職を得ると、十一月に初めて小暮と二人で高尾山に登った。
翌年からは郁文館中や中大の夜間部などでも教職を兼務し、明治四十五年四月に東洋大学教授となる。更に海軍経理学校の講師や法政大学の英文科主任教授なども兼ねながら、合間を見ては小暮らと数々の山旅も重ねていった。
大正八年にそれまでの約十年間にのあいだの山旅の紀行や随想をまとめた『日本アルプスと秩父巡禮』を刊行。昭和四年にはその後の十年の山旅の記事も加えた『山と渓谷』が出版されると、これが評判を呼んでベストセラーとなり、以後長きにわたって山岳紀行文の第一人者として数々の山岳紀行文を世に出し続けた。戦前に刊行され現在も続いている山岳雑誌『山と渓谷』のタイトルも、田部の著書を読んだ創業者川崎吉蔵が田部に頼んで譲ってもらったものである。
一方で“本職”である英文学者としての仕事もおろそかにすることなく続け、戦時中の一時期こそ大学の職を辞して信濃追分に疎開したが、戦後の昭和二十一年四月には東洋大学に復職し、追分から通いながら新制大学として再出発した東洋大学に新たに設けられた英米文学科の基礎固めに尽力した。
昭和十三年発行の岩波文庫版『ワーズワース詩集』は現在もなお田部の手による翻訳のものが版を重ね続けている。
田部の著わした紀行文の中で東洋大学の名が見られるのは、三名の学生が同行した塩山から将監峠(しょうげんとうげ)を越えて三峰神社へ歩いた時のものなど数編しか見当たらないが、東洋大学の古い校友会報の中には昭和六年に卒業した野球部員の方がこんなエピソードを寄せていた。
(この方は倫理学東洋文学科卒なので英語に関する科目は予科の時の一科目だけだったと思われる。なのでその授業も他の先生であった可能性が大であることをこの方の名誉のためにあえて記しておく)
“白い球”が飾られていた理由はわからないが、もしかしたら山の盟友小暮理太郎から贈られたものであったのかもしれない。というのは小暮は仙台の第二高等学校時代は野球選手だったからだ。
元筑波大野球部監督である功刀靖雄氏の著書『明治野球史』の付録1・野球試合記録年表には明治三十一年四月十三日 一高11-8二高、明治三十二年四月十日二高21-15一高とあり、メンバー表の中には五番・捕手と四番・二塁手に“小暮理太郎”名前が記録されている。
山旅の途中、山小屋やテントの中などでさまざまなことを語り合っただろうから、田部の口から自分が野球部長であることが話題にしたこともあったかもしれない。だとしたら、かつて自分が打ち破った一高グラウンドから程近い白山の地で、当時は弱小もいいところだった東洋大野球部の部長を、病弱で野球は見学ばかりしていた田部が務めているのは、小暮にしてみればさぞかし愉快なことであったに違いない。
このところ中高年者を中心に登山がブームとなっているが、昭和四十七年に八十八歳で亡くなった田部重治の著書は現在ではほとんどが絶版となり、図書館や古書店などでしかみる事が出来ないようだ。(1993年発行の岩波文庫版『山と渓谷』も最近になって目録から無くなってしまった)
箱根駅伝のおかげで東洋大学と言えば柏原選手の“山登り”を思い浮かべる方もさぞ多いかと思うが、生涯山を愛し続けた一英文学者が存在したことも記憶の片隅に留めておいてほしいものである。
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力感あふれる太ももが生み出す推進力で、先行するライバル校の後を追って急勾配の上り坂をぐいぐいと登っていく柏原選手には、年間で約2000万人の観光客が訪れる箱根路の風景を楽しむ余裕などあろう筈もないが、東洋大にゆかりのある人物で今から80年以上も前に処女作『日本アルプスと秩父巡禮』を発表し、以後生涯にわたって山旅に関する数々の著作を著わして“山と渓谷”の魅力を訴え続けたのが、英文学者の田部重治(たなべじゅうじ)である。
田部重治は明治十七年、富山県で父南日喜平と母みんとの間に男五人、女七人の十二人兄弟の七番目に生まれた三男だ。長兄の恒太郎とは十三歳離れ、次兄隆次も九歳年上だったが、二人の兄も後に英文学の道を志し、更に恒太郎の子である甥の凱夫は重治の後を追って戦後の一時期東洋大学英文科の教壇にも立った。
子供の頃の田部は病弱で小学校入学前に二度も医者に見放されたほどで、高等小学校二年の時には生家よりも奥に入った山村にある母親の実家で転地療養をした時期もあったそうだ。家の前からは海が見え、背後には立山を望めるこの大野崎村というところで学校を休学して半年ほど過ごしたことも、後に山旅に魅かれていくきっかけになったのかもしれない。
転地療養の効果もあって健康もやや回復し、明治三十年に旧制富山中学に進学するが、医師からは無理な運動を止められていたため、五年間の在学中運動会には一度も出場しなかった。それでも「…私は野球の試合にも、柔道や撃剣の試合にも、出席せずにはいられないほど見物するのが好きだった」(『わが山旅五十年』)そうだ。
一方でこの頃から文学に魅かれ出し、当初は短歌や新体詩を作って『新声』などの中央の文学雑誌に投稿するなど、行く行くは国文学の道を目指していたようだが、『明星』や『帝国文学』といった雑誌を読むうちに、次第に英文学に魅かれるようになっていった。(これらの雑誌は二人の兄が残しておいたもののようだ)
明治三十五年に金沢にある旧制第四高等学校へ進むが、この頃母みんが肺結核をわずらい翌年には亡くなってしまう。病弱だった重治の先行きを気にかけていた母は、南日家と親戚関係にあった田部家との養子縁組をすすめていたが、許婚となった田部家の次女も明治三十八年に肺結核で亡くなり、また前後して母の亡き後、家族の面倒を見てくれた叔母までを肺結核で亡くし、更には田部自身も肺尖カタルに罹るなどの不幸に見舞われている。(その後、明治四十三年に亡くなった許婚の妹きよと結婚し田部家に入籍している。)
金沢の高等学校時代の三年間の歴史はこうした悲しみの連続のそれであった。私はそのころを想いやるごとに、北国の吹雪ふきまく冬の陰惨な自然と、絶えず郷里から受けた悲しい報告と、その間の心労と自分の健康の衰えによる失望とを想い起して、今も悲しい気持ちにならずにはいられない。(『わが山旅五十年』)
明治三十八年に東京帝国大学英文科に入学。当時の教員には夏目漱石や上田敏らがおり、クラスメイトにも後に文学者として活躍する中勘助や野上豊一郎らがいた。
中学のころから作品を雑誌に投稿していた田部は、『新星』の編集者高須梅渓から『ハガキ文学』という投稿雑誌を紹介される。この雑誌の編集者がその後の田部の人生を決定づける役割を果たす小暮理太郎であった。
小暮理太郎君は初めのうちは私にとって得体の知れぬ存在だった。私は初めのころ彼を絵画の解説者としか思っていなかった。というわけは彼が『ハガキ文学』の巻頭に書いていたものは、いつも欧州の名画の解説にすぎなかったからだ。しかしそれ以上得体の知れなかったことは、彼は私よりも十年以上も歳上であったにもかかわらず未だ大学の学生としての籍があり、わずか卒業論文さえ提出すれば卒業できる状態にありながら、悠々と学生であったことである。…中略…小暮君が登山家であることを知るに至ったのは、彼を知るようになってから一年以上も後の事であった。どういう動機だったかははっきり覚えていない。(『わが山旅五十年』)
小暮は明治六年の生まれで田部重治よりも十一歳年上だが、十七歳で旧制麻布尋常中(現日比谷高)に入学。後に郁文館中に転校して二十一歳で卒業すると、仙台の旧制第二高等学校へ進み、ここでも“長居”をして東京帝国大学の哲学科に入学した時には二十七歳になっていた。帝大には六年在籍して田部が入学した明治三十八年に中退している。
田部の方は明治四十一年に大学を卒業すると、直ぐには就職せずにいったん富山に帰郷したが、その際中央線を利用して途中昇仙峡や野尻湖、赤倉温泉などに立ち寄り妙高などにも登って富山に帰った。相変わらず健康への不安を抱えてはいたが、この旅行がきっかけでいよいよ山への憧れを深めていったようだ。その年の十月に兄の紹介で明治大学夜間部の英語専修科の教師の職を得ると、十一月に初めて小暮と二人で高尾山に登った。
翌年からは郁文館中や中大の夜間部などでも教職を兼務し、明治四十五年四月に東洋大学教授となる。更に海軍経理学校の講師や法政大学の英文科主任教授なども兼ねながら、合間を見ては小暮らと数々の山旅も重ねていった。
大正八年にそれまでの約十年間にのあいだの山旅の紀行や随想をまとめた『日本アルプスと秩父巡禮』を刊行。昭和四年にはその後の十年の山旅の記事も加えた『山と渓谷』が出版されると、これが評判を呼んでベストセラーとなり、以後長きにわたって山岳紀行文の第一人者として数々の山岳紀行文を世に出し続けた。戦前に刊行され現在も続いている山岳雑誌『山と渓谷』のタイトルも、田部の著書を読んだ創業者川崎吉蔵が田部に頼んで譲ってもらったものである。
一方で“本職”である英文学者としての仕事もおろそかにすることなく続け、戦時中の一時期こそ大学の職を辞して信濃追分に疎開したが、戦後の昭和二十一年四月には東洋大学に復職し、追分から通いながら新制大学として再出発した東洋大学に新たに設けられた英米文学科の基礎固めに尽力した。
昭和十三年発行の岩波文庫版『ワーズワース詩集』は現在もなお田部の手による翻訳のものが版を重ね続けている。
田部の著わした紀行文の中で東洋大学の名が見られるのは、三名の学生が同行した塩山から将監峠(しょうげんとうげ)を越えて三峰神社へ歩いた時のものなど数編しか見当たらないが、東洋大学の古い校友会報の中には昭和六年に卒業した野球部員の方がこんなエピソードを寄せていた。
「…自由気ままな野球部であったが、学友会の承認を得て、予算ももらっているれっきとしたクラブであった。だから部長だけはいた。しかし、それもほんの名前だけで、球場に顔を出されたこともなければ、学校でお出会い(ママ)したこともなかった。ところが、何かの時、二、三人の球友と連れだって、世田谷(たしか、世田谷と覚えているが定かではない)の先生宅を訪ねたことがあった。先生は英文学者の田部重治先生で、その時どんなことを話し合ったかは覚えていないが、お住まいは郊外特有の質素なトタン葺のお家で、六畳ほどの洋風の書斎で小一時間ほどお話を伺って帰った。野球部の部長になられたのも全く無縁ではなかったのか、書斎の棚に飾りバットにのせられた白い球のあったことだけははっきりと覚えている。先生にお会いしたのは後にも先にもその時一回きりで、親しくそのお人柄に触れる機会もなかった。が、教鞭をとるようになって、教材の中で『笛吹川をさかのぼる記』に接して、あの痩せ方の小柄な先生が、当時有名な登山家であり、文学者でもあったということを知ったわけで、まことに勉強不行き届きの学生であったことを後悔している。(『校友会報116号』)
(この方は倫理学東洋文学科卒なので英語に関する科目は予科の時の一科目だけだったと思われる。なのでその授業も他の先生であった可能性が大であることをこの方の名誉のためにあえて記しておく)
“白い球”が飾られていた理由はわからないが、もしかしたら山の盟友小暮理太郎から贈られたものであったのかもしれない。というのは小暮は仙台の第二高等学校時代は野球選手だったからだ。
彼は二高の学生のころ非常な運動家で、野球の選手として一高と闘わんがため上京して一高を破り、ヘビー・バッタ^として有名であったということである。(『わが山旅五十年』)
元筑波大野球部監督である功刀靖雄氏の著書『明治野球史』の付録1・野球試合記録年表には明治三十一年四月十三日 一高11-8二高、明治三十二年四月十日二高21-15一高とあり、メンバー表の中には五番・捕手と四番・二塁手に“小暮理太郎”名前が記録されている。
山旅の途中、山小屋やテントの中などでさまざまなことを語り合っただろうから、田部の口から自分が野球部長であることが話題にしたこともあったかもしれない。だとしたら、かつて自分が打ち破った一高グラウンドから程近い白山の地で、当時は弱小もいいところだった東洋大野球部の部長を、病弱で野球は見学ばかりしていた田部が務めているのは、小暮にしてみればさぞかし愉快なことであったに違いない。
このところ中高年者を中心に登山がブームとなっているが、昭和四十七年に八十八歳で亡くなった田部重治の著書は現在ではほとんどが絶版となり、図書館や古書店などでしかみる事が出来ないようだ。(1993年発行の岩波文庫版『山と渓谷』も最近になって目録から無くなってしまった)
箱根駅伝のおかげで東洋大学と言えば柏原選手の“山登り”を思い浮かべる方もさぞ多いかと思うが、生涯山を愛し続けた一英文学者が存在したことも記憶の片隅に留めておいてほしいものである。
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