猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

番外編:“若き天才詩人”宵島俊吉(=勝承夫)

2009-09-04 00:07:00 | インポート
この夏の高校野球西東京大会では都立勢の日野高校と小平高校がベスト4に進出する健闘を見せた。最近は都立でもスポーツ推薦制度をとりれているところもあり、以前ほどの格差はなくなったようだが、それでも強豪私立の壁はまだまだ厚いようだ。

奇しくもともに日大の付属校に準決勝で敗れたこの二校だが、実は両校の間には校歌に或る共通点がある。

都立日野高等学校校歌
(勝承夫作詞 井上武士作曲)
みどり さわやかに 空広やかに
窓には清き 武蔵野の風
若き英知の みなぎるところ
夢多き センペルセコイヤ
純情の われらあり
日野高校に のびゆく力

都立小平高等学校校歌
(勝承夫作詞 平井康三郎作曲)
清き武蔵野 けやきは高く
そろうこずえに 光る風 光る雲
英気はあふれ 力は満ちて
若人われら いまここに
小平高校 愛する母校

一般に校歌などは五七調で無難にまとめられた歌詞が多いように感じられるが、前者の一行目と後者の二行目は意図的に五七調のリズムを崩してアクセントをつけているように思われる。歌詞はともに勝承夫の手によるものだ。

勝承夫は昭和14年に『北支建設の歌』を作詞したのがきっかけで日本ビクターと専属契約を結び、この契約は昭和47年まで続いた。戦後、昭和21年には文部省音楽教科書編集委員となり、翌昭和22年にはサトウハチロー、服部良一らと「新風社」を設立し新しい歌曲の創作運動を興す。そして、この頃から社歌や校歌、或いは唱歌や童謡の作詞を盛んにおこない、書き上げた詞は実に千余りにも及ぶそうだ。
その間には昭和31年に東洋大学監事に就任、昭和35年と昭和50年の二度に亘って東洋大理事長を務め、また校友会でも要職に就くなど東洋大の経営及び校友会活動に終生携わった。

人生の大半を作詞活動に捧げた勝承夫が“詩”を書き始めたのは旧制愛知五中に在学していた13、4歳の頃。大正8年中学卒業後に一家で上京したこともあって、哲学館出身の正富汪洋が主宰する『新進詩人』に参加し、中央詩壇へのデビューを果たす。
翌年の大正9年、東洋大学文化学科入学。在学中の大正11年3月には処女詩集『惑星』が出版された。

勝承夫と同級だった岡本潤は当時の様子を次のように回想している。
同級には文学青年がたくさんいたようだが、ぼくはほとんど深いつきあいはなかった。なかでひとり勝承夫だけが、むこうからぼくに近づいてきた。勝はそのころ宵島俊吉というペンネームで抒情的な詩をかき、新進詩人として早くから知られていた。かれはぼくにも詩を読んだり書いたりすることをしきりにすすめた。ぼくは文学を専門にやる気はなかったが、勝にすすめられたのが機縁でいろんな詩集を読んだ。・・・中略・・・二学期になってからだったか、文化学科で『文化新聞』というタブロイド型の四ページの新聞をだしたが、その編集をしていた勝にすすめられて、ぼくははじめて詩を一編かいてだした。どんな詩だったかまるでおぼえてないが、勝が「ボードレールばりだな」と言ったことだけおぼえている。
(岡本潤『詩人の運命』)

また、井伏鱒二が東洋大学出身の作家木山捷平について書いた文章の中には下記のような個所がある。
その頃、田舎にゐた木山君は、東京の若い詩人宵島俊吉にあこがれて、宵島の通学してゐる東洋大学へ入るため上京した。宵島は本名を勝承夫と云い、若い天才詩人と云はれて大変な評判であった。今で云へば、三島由紀夫と太宰治を一緒にしたやうな人気があった。ところが反骨精神の旺盛な宵島は、学校の経営方針に反撥した。ついでに学校の幹部と衝突し、境野学長を殴ったので退学させられたり刑罰を受けたりした。詩はいっさい書かなくなった。木山君はあこがれの人が去ると同時に退学してしまったが、どういふものか自分を語る後年の文章には宵島のことは何も書いてない。若い天才詩人といふ名称などの空しさが、よほど肝に銘じたのではなかったかと思ふ。
井伏鱒二『木山捷平の詩と日記』

”境野学長を殴った”のは所謂“大正十二年の紛擾事件”の事で、勝承夫だけでなく16名の学生が逮捕され世間を騒がせた事件の事だが、“退学させられた”というのは誤りで、大正13年3月に東洋大学を卒業。聚芳閣と云う出版社に入社する。実はこの聚芳閣に同じ日に入社したのが井伏鱒二なのである。
この出版所の編輯顧問は十一谷義三郎、主任は川添利基、編輯部には勝承夫、浅見淵、中地勇、狩野鐘太郎といふやうな人がゐた。勝承夫は私と同じ日に入社したが、彼は山田順子女史の小説「流るるままに」が出版されると間もなく退社した。社長の足立欽一氏ともあらうものが女流作家の色香にまよふとは残念だと云って、大いに立腹して辞職したのである。しかし足立社長は、青年といふものはそのくらゐな気概がなくてはいけないと云った。
勝承夫が退社して二箇月後に私も退社した。
(井伏鱒二『雞肋集』)

“詩はいっさい書かなくなった”というのも事実ではなく、大正14年3月には詩集『深夜の犬』を宵島俊吉ではなく本名の勝承夫の名でまとめている。ただし、この詩集は出版社の都合により中止となり、仮装丁本一冊だけが残されただけに終わった。

聚芳閣を退社後、報知新聞に入社し社会部記者となる。昭和13年まで在職したがその間の昭和8年に詩集『白い馬』を発表。その後書には
大正十二年宵島俊吉のペンネームによって出版した第二詩集『朝の微風』以後十年目の秋にこの詩集を編んだ、その間の十年の歩みは決して短いとは思はぬが自分の詩業の遅々として進まぬことを思へば眞に寂しい。私は昭和二年初春以来報知新聞社に入り極めて多忙な社會部生活を今日まで續けた。元来作品の多くない私はこのため一層寡作になってしまったが、しかも孜々として自己の感性に從事し、詩を守って來た事だけは誰の前にもはばかりなく云へる。自分にとって詩ほど切實なものはない。・・・中略・・・
これは自分の仕事の一應の清算であると共に、詩壇への久しぶりの挨拶でもある。私はこれを編みつつ色々な感慨を持たざるを得なかった。
(勝承夫『白い馬』但し引用は『勝承夫詩集』による)

と書き記している。

そして報知新聞社退社の翌年ビクターの専属となり、次第に“作詞”の方に軸足を移して行くのである。

詩壇から楽曲の世界へ、詩作から作詞へ、そして“若き天才詩人”宵島俊吉から勝承夫へ。
その間にどのような思いがあったのか、浅学の筆者には知る由も無い。
ただ、最後に掲げる次の詩を読むと、井伏鱒二が退学させられ刑罰を受け“詩はいっさい書かなくなった”と云うのは、事実とは異なるが案外まとを射ているのではないかと思うのである。

朝の途上で

「學生時代」―その言葉の
何と私たちの心ををどらすことか
思へば楽しかった學生時代よ
天體よりももっと大袈裟で
もっともっと快活だった青春よ

「學生時代はたのしいものだ
君たちは多幸だ祝福するぞ」
背廣姿の先輩たちが
私たちに投げかける言葉は
誰も同じようにその言葉であった
ああ けれども今の私には
もはやその言葉を投げかける人はない
私は紺サージのみすぼらしい背廣姿で
今日も勤めにと出かけてゆく

「學生時代―
それはあまりにたのしい
しかしあまりに早く行きすぎる」
私は勤めにと出かけてゆく途上で
多くの學生たちと行きちがふ毎に
いつも心に繰り返す言葉はそれだ
そして更に私の心は彼らに云ふ
「學生諸君 諸君はきっと
學生時代に悔いを殘したまふな」と

(勝承夫『眞昼の顔』所収。ただし引用は『勝承夫詩集』による)



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