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旅の途中です

別ブログの旅行に関するものを独立させました。全国旅で周りたいんです。まだタイトル決めていません。

遠州森町探訪

2019-05-14 23:19:04 | 旅行
長年訪れてみたかった町。

それは、木枯らし紋次郎の話の中に 何度も出てくる。

舞台にはなっていないが、遠州森町へ行くとか 遠州森町で見かけたとか。

なぜか 股旅が似合う。それは森の石松のせいだろうか。








古い寺や神社が多い。
それもそのはず、近くには遠江一宮があるくらいだから、古くから栄えていた土地。

縄文時代から人が住んでいた。

でも、1番良かったのは歴史資料館。

古い道具が沢山展示してあった。

江戸時代、旅がブームになった頃。
江戸から伊勢参りに行く途中に、秋葉寺や鳳来寺にも寄る旅人もいた。

また、遠州灘から信州への道もあった。

宿場があったであろう街道は、まだなんとなく面影が残っていた。ここはきっと旅籠だったんだろうなと思われる建物。

今や誰も宿泊しないであろう街に たまに ○○旅館と名前だけでも残っていると、なんだかゾクゾクする。たいそうな賑わいだったに違いない。

太田川という美しい川が流れている。

そこで、子供だけで川に入ってもぐったり泳いだりしているではないか。

まだ五月なのに。

流れが穏やかなのか。

今の時代 危ないからと禁止ばかりだけど、昔は こんなこと当たり前だったはず。

まるでタイムスリップしたような光景だった。

木枯らし紋次郎 御油の追分

2018-04-04 13:31:14 | 旅行

雷神が二度吼えたより

東海道を御油から、北にそれる。とたんに東海道の賑わいが嘘のように感じられる、人家も人影の何十分の一かに減ってしまう。もともと東海道という街道筋が、賑やかすぎるのであった。



現代も追分はのこっている。常夜灯と道標。
秋葉三尺坊 と 砥鹿神社へはこちら。

砥鹿神社はいざ知らず、秋葉山などは ここから はるかに遠く 山を登り谷を越えを何度も繰り返さなければならない。

雷神が二度吼えたで 紋次郎たちは ここから 秋葉山みちに入り、鳳来寺のあたりから物語は始まるのだか、それでもここからはかなりの距離。

華やかな宿場が多い東海道からそれて、姫街道にはいると、途端に寂しいものとなるとあるが、現代では 国道一号線の車の往来 名鉄電車 マクドナルドやら ドンキホーテやら 旧東海道のほうがどれほどか落ち着いている。やれやれ。

名鉄電車の国府駅からは 豊川に向けて名鉄電車で行く。目的地は妙厳寺 通称豊川稲荷

国府から豊川稲荷にかけては 古代は栄えていたところである。豊川と広い平野。三河国の国府も国分寺も国分尼寺もこの辺りにある。
電車から見える眺めは広い平野。北に大きな山脈が見える。



豊川稲荷の門前は昭和の匂いが漂う懐かしい場所。 この風情もあとどれくらい残るだろうか? だんだん作り物的になってきているような気もする。
帰りに入った喫茶店では80を超えているであろう女性2人が店を切り盛りしていた。作ってもらったフルーツみつ豆が美味しかった。なにより この女性達に作ってもらったことが 大変な贅沢に感じた。



妙厳寺は普通の寺とは少し違う。

本尊と鎮守と2つある。 その鎮守がダキニテンという 元はインドの女神で日本では稲穂神と融合したとか、難解。
そして、そのダキニテンは白狐に乗るらしい。確か秋葉山三尺坊も白狐に乗ってた。キツネは神様の使いということで それで豊川稲荷はキツネ?なのか。
キツネと神々との関係はまだまだ勉強不足。
そして、明治の世になり多くの寺は神社と寺を切り離すよう命ぜられたが、この豊川稲荷はうまく切り抜けたようで、今でも鳥居も寺も両方ある。

何はともあれ、不思議な色々なものが混在するところが豊川稲荷である。 江戸時代における稲荷信仰は下っ端の役人から老中まで出世した田沼意次が稲荷を信仰してたとか、町奉行から この三河のちの大名になった大岡忠相が豊川稲荷を信仰してたとかで それに庶民があやかろうとブームになったとか 何かに書いてあった。

故に商売繁盛とか出世とかそういうご利益を欲しい庶民の願望が現代の豊川稲荷を作ったのかもしれない。

木枯らし紋次郎から逸れてしまった。
雷神が2度吼えた には 豊川稲荷の記述すらない。紋次郎には繁盛とか出世とかそういう俗念は関係ない事なのだ。欲にまみれた人がお参りするところなのだ。



とりあえず門前でいなり寿司の土産を買ってみた。
お味は うーん、やっぱり濃いめの味付け。保存料が入ってないから このくらい味が濃くないとね。
でも自分の作ったおいなりさんのほうが美味しい。

東海道歩き 藤川宿 赤坂宿 御油宿

2018-04-04 12:55:26 | 旅行


今年の桜は早かった。また五分咲きの3月に東海道 藤川宿 赤坂宿 御油宿と歩いた。

東海道をちゃんと歩くのはほとんど初めて。イメージは国道一号線沿いで 歩いてもつまらないと思っていたが、このコースは面白かった。


一番宿場らしい面影が残っていたのは藤川宿


多分宿場と宿場の間はこんな田んぼ景色。

赤坂宿では 楽しみにしていた大橋屋が改修復元工事で 何も見れなかった。江戸時代から建っている建物が見たかったのに本当に残念。 だから のんびりしていてはいけない早く見に行かないとどんどん景色が変わってしまう。

御油宿は 名物の松並木は圧巻。江戸時代から残っている松と多数。




東海道にかかる御油橋 京方面を望む

この街道はほとんどが国道一号線から外れた集落の生活道路になっているので、道の狭さ、ぐにゃぐにゃ曲がったりでこぼこしたりする街道の様子がよくわかる。

そして 神社 寺 など本当に古く 昔の風情そのまま残っていて感動。

なるほど、このコースを歩いただけでも、なかなか華やかな道だった。とくに 御油宿や赤坂宿あたりは 宿場は飯盛り女も多く、歓楽街的な要素もあったか? 宿場の女が必死に客引きをする浮世絵をみても なかなか その光景が想像できない。

今は静かに桜か咲き、花見客も観光客もまばらなのが、また落ち着いた風情である。


中山道歩き 宮ノ越宿

2017-08-22 23:04:30 | 旅行


木曽路も随分と制覇して 木曽福島から藪原まで歩いていないのですが、暑いし、大半は国道を歩くことになりそうで、今回は宮ノ越宿だけをゆっくり見て回ることに。

宮ノ越宿は 前は日義村という地名でした。日義村は木曽義仲の故郷です。





義仲館でゆっくり勉強して色々回ってみることに。

まずは近くにある徳音寺
こちらは 巴御前の墓があります。



そして、やっぱりすこし歩きたいね、と藪原方面に中山道を歩くことにしました。





そばが植えてあったり、とてものどかな景色をです。


木曽義仲館あと、また ここから出陣したようです。


巴淵 かつて巴御前も泳いだとか、巴御前だけでなく木曽義仲もここで泳いだんじゃないかな。

そして、今度は宮ノ越宿に戻ります。
宿場にはあまり面影はのこってないけど、現代に、ここで暮らしている人達の息遣いを感じられる街です。

そして近年、本陣 旅籠など復元してくださったようで、これがまた素晴らしかったです。

本陣





部屋がたくさんあり、復元されてない建物もあり、行列の時など多くの武士や役人が 宿場に泊まったということが伝わってきます。

6000万ほどかけて修復したそう。素晴らしいです。

そして、こちらは旧田中邸 こちらも復元してくれています。







これぞ、私が求めていた紋次郎の泊まった旅籠。
第1シリーズで出てくる畳のない旅籠です。二階も簡素で 部屋割りもなく、旅人はここで雑魚寝だったのではないでしょうか。
こんな宿が街道の宿場にたくさんあったんだろうなぁ。食事とかどうしてたんだろう。




中山道歩き 深谷宿

2017-05-15 15:22:46 | 旅行
三日月村を後にして、特に行くあてもなく中山道へ行ってみようと思った。

今回はガイドブックを持ってなかったので、ネットで検索してみて 深谷宿にいってみた。

深谷宿のレンガ作り風の駅を見てみたかった。



なんとまぁ立派な駅。近代日本資本主義の父といわれる渋沢栄一が深谷で最初の機械式レンガ製造工場を作ったということで、深谷はレンガの街らしい。

ガイドブックを持っていなかったが、駅の観光案内所のようなところに行けば深谷宿のマップがある。



最近はどこの宿場でも町興しのために資料を備えているので 助かる。

しかし、5月と言うのに熱い上に 南から強い風が吹いていて日傘の飛ばされるほど。
こういう南風って愛知にはない。

取り敢えず 仲町というところから 京方面に散策。






あまりに熱い上に、お腹もすいてエネルギー切れしてきた。よさそげな茶屋があったので迷わず休憩。

和風のラーメンや 海苔巻き お団子などがどれもこれも美味しそう。

好物のおいなりさんとあんみつを食す。

こちらのおいなりさんは 味付け大きさともかなり得点が高い。丁寧に作ってある。
あんみつも こんなに美味しいのは食べた事がないというくらいおいしかった。

少し休んで エネルギーチャージして元気回復。







深谷宿には造り酒屋が多い。豊富な水が湧いていたことの証拠。

旧中山道宿場界隈は 昭和の商店街がまだ残っているところももう店を閉じたところや、道路もさらに拡幅しようとしているようで、再開発しようとしているのだろうか。

再開発して綺麗になるのはいいけど、観光地化すると、作られた感がでてしまうのが自分的には残念。

履物屋とか石炭屋とか金物屋とか 江戸時代も昭和まで暮らしに密着してた面影もあと何年かで消えてしまう。



西の入り口の常夜灯。
1840年に建てられたもの。1840年といえば、浮世絵の中山道69次が作られた頃じゃありませんか。しかも富士講の人々が建てたとか。富士講といえば、富士山までお参りに行くという当時の旅行のようなもの。深谷宿に住んでいる人々が建てたのでしょうか。どの道を通って富士山までいったのでしょうか。江戸時代中山道が中山道としてあった頃を見てたであろう常夜灯には震えました。とても立派な常夜灯でした。

そのお向かいには

呑龍院

お宮と常夜灯が当時をイメージできる。

しかし、私の中山道歩きも、完歩は難しいだろうと悟りました。
武州は日本橋から戸田の渡しまでは歩いたけど、平野が延々と続く埼玉は歩けそうにない。

私の中山道歩きは宿場を訪れるというよりも、景色や空気感を感じながら歩きたいし。埼玉の宿場から宿場は意外と距離も長い。

やっぱり埼京線からながめたり、主要な宿場を立ち寄ったりで行こうと思った。

しかし、まだまだ先は長い。塩尻峠や和田峠、碓氷峠など今年もまだ行けそうにない。