上州新田郡三日月村
紋次郎の生国である。しかし、テレビシリーズを見ても原作を読んでも、どうしてもイメージができない。
私は上州のことをほとんど知らないからである。
生まれて初めて群馬に行ったのは去年の中山道歩きで少し訪れただけである。12月上旬の上州は寒かったがよく晴れて、赤城山や榛名山 妙義山を初めてみて 壮大さに心打たれたものである。
しかし、知ったのは高崎の辺りだけで、物語の舞台となる東毛は想像できなかった。
愛知から群馬はなかなか遠い。
今回は東京から日帰りで訪れる時間があったので、また上州を訪れてみようとおもった。
やっぱり、三日月村に行かなくちゃ。
東京からといえども2時間半。JRと東武鉄道で行く。

特急から見る埼玉群馬の景色は驚くほどの平野ばかりである。小高い丘も緑の森も見えない。 ゆったり流れる大きな川は利根川である。
関東平野恐るべし。
久喜から館林、足利、太田を通りすぎる。途中田んぼかとおもったが よく見ると緑の麦畑が印象的。
藪塚駅に降り立ち、テーマパークである三日月村まで歩く。
実際は本を持たずに行ったので訪れた時はわからなかったことが 後で家に帰って原作を読んでみて、三日月村というものを納得することができた。
三日月村というのは架空の村であるが、原作の描写と今昔マップを照らし合わせると、おそらく江戸時代は藪塚村というところであろう。

真北に赤城山がそびえる。
物語の中で紋次郎は銅街道を北から南に下ってくる。銅街道は三日月村から半里ほど西の街道であるが、紋次郎は雷にうたれ、娘に助けられて三日月村に入った。
娘の祖父は石切人足である。なるほど 東側の小高い山には石切場があったようである。そして娘と祖父は温泉に3日に一度入ると書いてある。
藪塚温泉であろう。ここは冷泉で沸かして使う湯小屋が紋次郎の時代にもあると書いてある。
紋次郎は貧しい農家に生まれた。
とあるが、私には江戸後期の貧しい農家がどんなものかはなかなか想像できない。
この藪塚のあたりは平野も多いし 収穫はありそうである。
しかし、どうやら 水がないらしく、麦や芋が主食となっていたのだろうか。 養蚕も盛んで桑畑の描写も原作にでてくる。実は私は小学生低学年の頃蚕を飼って孵化させるのが趣味で 蚕の成長や桑の葉の匂いなど良く知っている。其の話はおいといて。
農民の中には 頭のいい奴もいて それらは収穫量をふやしたり、商品作物を作ったり富を蓄えていく人もいる一方で 上手く立ち回れず生活費など借金をしたり、田畑を売ってしまう人も出てきただろう。
一家離散した紋次郎の家族は 後者のようだ。
さて、テーマパークの三日月村である。

テーマパークはこんな森の中にあるけど、実際の三日月村は 砂塵を防ぐような森はない。


紋次郎の生家をイメージした家。
家の中は土間と囲炉裏ともう一部屋あるだけ。
あと テーマパークはほかに宿場を再現したものや原作者の館 かかわりーな がある。
普段街道を歩いている私としては、やっぱりテーマパークには 街道特有の空気感が感じられなかった。気が動いていない止まった空間。
でも、建物の傾き加減やボロさなどは なかなか本当の街道にはないリアルさがあった。





案外 時間を潰せず、また歩いて藪塚駅までいった。
家にかえって写真を見返して もっと藪塚温泉のあたりの写真も撮っておけば良かったなと思った。
でも、じっさいにこの地をたずねてみて、赤城山との距離感や南西に広がる平野。冬は空っ風が吹くであろうことや、夏はかなり暑そうだということ、水がなく米が採れない土地であることが実感できた旅だった。
しかしながら、笹沢氏の描写は凄い。その土地に住んでいないのに、まるで、その時代のその土地を見たかのような描写だ。
街道歩きを趣味としている私にとっては まるで紀行文のようでもある。
上州新田郡三日月村 で笹沢氏は 紋次郎の人生観を次のようにのべている。
場所はみな、ひとつみたいなものであった。疲れた手足を伸ばす。眠る。明るくなるのを待つ。
今日が過ぎれば、明日が来る。
昼間は歩くための道があればそれでよかった。いまどこをあるいているかのか、あの場所にふと感慨を覚える、ということは一切念頭に置かないのである。どこへ通じていようと、どこへ近づこうと、そこに道があれば歩くだけなのだ。
それでも、紋次郎は旅をして、どこまでも広い平野や砂塵の嵐の故郷と比べても、山脈のしっとりとした空気や海の湿った潮風を感じて、それなりに感動したんじゃないかなと思う。
さて、このあと やっぱり本当の街道に行きたくなり、私も高速駕籠に乗って中山道に向かうことにした。
途中 羽生から熊谷までのった秩父鉄道は 右も左もどこまでも続く平野に 電車の中でひとりキョロキョロ。
紋次郎の生国である。しかし、テレビシリーズを見ても原作を読んでも、どうしてもイメージができない。
私は上州のことをほとんど知らないからである。
生まれて初めて群馬に行ったのは去年の中山道歩きで少し訪れただけである。12月上旬の上州は寒かったがよく晴れて、赤城山や榛名山 妙義山を初めてみて 壮大さに心打たれたものである。
しかし、知ったのは高崎の辺りだけで、物語の舞台となる東毛は想像できなかった。
愛知から群馬はなかなか遠い。
今回は東京から日帰りで訪れる時間があったので、また上州を訪れてみようとおもった。
やっぱり、三日月村に行かなくちゃ。
東京からといえども2時間半。JRと東武鉄道で行く。

特急から見る埼玉群馬の景色は驚くほどの平野ばかりである。小高い丘も緑の森も見えない。 ゆったり流れる大きな川は利根川である。
関東平野恐るべし。
久喜から館林、足利、太田を通りすぎる。途中田んぼかとおもったが よく見ると緑の麦畑が印象的。
藪塚駅に降り立ち、テーマパークである三日月村まで歩く。
実際は本を持たずに行ったので訪れた時はわからなかったことが 後で家に帰って原作を読んでみて、三日月村というものを納得することができた。
三日月村というのは架空の村であるが、原作の描写と今昔マップを照らし合わせると、おそらく江戸時代は藪塚村というところであろう。

真北に赤城山がそびえる。
物語の中で紋次郎は銅街道を北から南に下ってくる。銅街道は三日月村から半里ほど西の街道であるが、紋次郎は雷にうたれ、娘に助けられて三日月村に入った。
娘の祖父は石切人足である。なるほど 東側の小高い山には石切場があったようである。そして娘と祖父は温泉に3日に一度入ると書いてある。
藪塚温泉であろう。ここは冷泉で沸かして使う湯小屋が紋次郎の時代にもあると書いてある。
紋次郎は貧しい農家に生まれた。
とあるが、私には江戸後期の貧しい農家がどんなものかはなかなか想像できない。
この藪塚のあたりは平野も多いし 収穫はありそうである。
しかし、どうやら 水がないらしく、麦や芋が主食となっていたのだろうか。 養蚕も盛んで桑畑の描写も原作にでてくる。実は私は小学生低学年の頃蚕を飼って孵化させるのが趣味で 蚕の成長や桑の葉の匂いなど良く知っている。其の話はおいといて。
農民の中には 頭のいい奴もいて それらは収穫量をふやしたり、商品作物を作ったり富を蓄えていく人もいる一方で 上手く立ち回れず生活費など借金をしたり、田畑を売ってしまう人も出てきただろう。
一家離散した紋次郎の家族は 後者のようだ。
さて、テーマパークの三日月村である。

テーマパークはこんな森の中にあるけど、実際の三日月村は 砂塵を防ぐような森はない。


紋次郎の生家をイメージした家。
家の中は土間と囲炉裏ともう一部屋あるだけ。
あと テーマパークはほかに宿場を再現したものや原作者の館 かかわりーな がある。
普段街道を歩いている私としては、やっぱりテーマパークには 街道特有の空気感が感じられなかった。気が動いていない止まった空間。
でも、建物の傾き加減やボロさなどは なかなか本当の街道にはないリアルさがあった。





案外 時間を潰せず、また歩いて藪塚駅までいった。
家にかえって写真を見返して もっと藪塚温泉のあたりの写真も撮っておけば良かったなと思った。
でも、じっさいにこの地をたずねてみて、赤城山との距離感や南西に広がる平野。冬は空っ風が吹くであろうことや、夏はかなり暑そうだということ、水がなく米が採れない土地であることが実感できた旅だった。
しかしながら、笹沢氏の描写は凄い。その土地に住んでいないのに、まるで、その時代のその土地を見たかのような描写だ。
街道歩きを趣味としている私にとっては まるで紀行文のようでもある。
上州新田郡三日月村 で笹沢氏は 紋次郎の人生観を次のようにのべている。
場所はみな、ひとつみたいなものであった。疲れた手足を伸ばす。眠る。明るくなるのを待つ。
今日が過ぎれば、明日が来る。
昼間は歩くための道があればそれでよかった。いまどこをあるいているかのか、あの場所にふと感慨を覚える、ということは一切念頭に置かないのである。どこへ通じていようと、どこへ近づこうと、そこに道があれば歩くだけなのだ。
それでも、紋次郎は旅をして、どこまでも広い平野や砂塵の嵐の故郷と比べても、山脈のしっとりとした空気や海の湿った潮風を感じて、それなりに感動したんじゃないかなと思う。
さて、このあと やっぱり本当の街道に行きたくなり、私も高速駕籠に乗って中山道に向かうことにした。
途中 羽生から熊谷までのった秩父鉄道は 右も左もどこまでも続く平野に 電車の中でひとりキョロキョロ。