現在、鳳来寺には本尊である峯の薬師はない。
於大は 峯の薬師 に祈願した。
ということは戦国時代は像があったはず。まさか なかったとか?それはないだろう。
しかし、ネットをいろいろ探すうちに見つけた!
それなんと甲府にあったのだ。
甲斐善光寺の由緒よると
1571年 信玄公が鳳来寺を登山して 薬師を奉遷した。とある。
1571年とは、信玄が東三河に侵攻し、長篠城など降伏した年であり、この時点で鳳来寺のあたりは信玄の支配下になった。
にわかには信じ難かった。鳳来寺側の資料には其のような記述は全くない。
この薬師は平安後期の作とされる。
頼朝時代に鳳来寺に安置されたものではないだろうか? 於大はこの薬師に祈願したのかもしれない。
なぜ?信玄が甲府へ持って行ってしまったのだろう。信玄が病気を患っていた。故に利修仙人が文武天皇を治したように、病気平癒のご利益がある峯の薬師を鳳来寺を手にした信玄が持って行ってしまったということは腑に落ちる。
戦国時代にもうすでに利修仙人の伝説はかなり有名な話だったに違いない。
私の推測ではあるが、オリジナルの利修仙人が作った峯の薬師は早い段階で焼失し、その後、頼朝の力で 新しい峯の薬師が置かれた。 その薬師を於大も参詣した。 しかし、その後、信玄が甲府へ持って行ってしまった。信玄が甲府へ持って行ってしまったことは もしかしたら、家康も家光も知らなかったのではないだろうか?
では 家光、家綱が東照宮を作ったとき、ご本尊の峯の薬師はどうしたんだろう?江戸時代 多くの人が峯の薬師を目指して参詣してたはずなのに。
境内を散策しているとき、大きな石の台座があった。

石の灯籠には 峯薬師とある。
ここに何があったんだろう?
たまたま近くにスタッフが掃除をしていたので、
峯の薬師は今何処にあるんですか?
と聞いてみた。
すると、
薬師如来と鐘は戦争のときに、供出してしまって無くなったのです。
と教えてくれた。
しかし、家に帰って、その事を調べてもなかなかネット出てこない。
そもそも 銅?金属?
しつこく調べているうちに、江戸時代の三洲鳳来寺絵図に辿り着いた。
そこには この場所に大仏があることが描かれている。
ついに見つけた。ここにやっぱり峯の薬師があったんだ。しかも、大仏としてあったのだ。


ついでに この石灯籠を寄進した 尾州キヨス本町の柴山藤蔵 も調べてみた。
柴山藤蔵は 江戸末期、清須で質屋 油屋 酒造業などを手がける大店だったようで、このような灯籠の寄進は全国にあるようだ。信心深いのか、はたまた宣伝効果か? たしかにこの存在感を見れば、旅人が清須に立ち寄ったらこの店を訪れようとおもうのではないか。
この灯籠を見ているうちに 多くの参詣者が同じように考えたと、肌で感じることができた。
多くの院がある神秘的な石段、大きな峯の薬師 そして階段を登り切れば展望がひらけ、雲がはるか下に見えることもあるだろう。江戸時代にたいそう賑わった。
しかし、明治の世になり、徳川幕府の庇護はなくなり、火事にも会い、どんどん寺は廃れていく。
天保や文化などと書かれていた墓石も壊れているものもある。
そして、太平洋戦争で、鳳来寺の峯の薬師も無くなってしまったのである。

明治か大正か昭和初期の宿坊だろうか。
鳳来寺はもはや寺としては機能してない。僧侶も居ないし、奥の院などは 倒壊したまま放置されている。修復もままならないようである。
平成の世では、登山客と秋の紅葉で賑わいを見せている。
さて、木枯し紋次郎に戻ろう。
紋次郎達4人は峠前の茶屋で一休みすることになる。その茶屋の描写は
峠路がややなだらかになったあたりのがけっぷちに、一目で掛茶屋とわかる建物が見えた。
亭主は門谷の住まいへ引き揚げていなくちゃあならねえ。

そのがけっぷちとあるところはこのあたりか、眼下に見えるのは門谷。はるかに遠いではないか。
しかし、ここは景色が素晴らしい、真下を見ると90度の崖だ。遠く三河湾も見える、その先は伊勢神宮、その先は奈良。
身を乗り出すとまるで鳥になったような錯覚。
利修仙人は鳳凰を操ったと言う。ここには本当に鳳凰がいたのかもしれない。
そして、この先 秋葉道は鬱蒼とした山のなかを入り、大野宿へと続く。
於大は 峯の薬師 に祈願した。
ということは戦国時代は像があったはず。まさか なかったとか?それはないだろう。
しかし、ネットをいろいろ探すうちに見つけた!
それなんと甲府にあったのだ。
甲斐善光寺の由緒よると
1571年 信玄公が鳳来寺を登山して 薬師を奉遷した。とある。
1571年とは、信玄が東三河に侵攻し、長篠城など降伏した年であり、この時点で鳳来寺のあたりは信玄の支配下になった。
にわかには信じ難かった。鳳来寺側の資料には其のような記述は全くない。
この薬師は平安後期の作とされる。
頼朝時代に鳳来寺に安置されたものではないだろうか? 於大はこの薬師に祈願したのかもしれない。
なぜ?信玄が甲府へ持って行ってしまったのだろう。信玄が病気を患っていた。故に利修仙人が文武天皇を治したように、病気平癒のご利益がある峯の薬師を鳳来寺を手にした信玄が持って行ってしまったということは腑に落ちる。
戦国時代にもうすでに利修仙人の伝説はかなり有名な話だったに違いない。
私の推測ではあるが、オリジナルの利修仙人が作った峯の薬師は早い段階で焼失し、その後、頼朝の力で 新しい峯の薬師が置かれた。 その薬師を於大も参詣した。 しかし、その後、信玄が甲府へ持って行ってしまった。信玄が甲府へ持って行ってしまったことは もしかしたら、家康も家光も知らなかったのではないだろうか?
では 家光、家綱が東照宮を作ったとき、ご本尊の峯の薬師はどうしたんだろう?江戸時代 多くの人が峯の薬師を目指して参詣してたはずなのに。
境内を散策しているとき、大きな石の台座があった。

石の灯籠には 峯薬師とある。
ここに何があったんだろう?
たまたま近くにスタッフが掃除をしていたので、
峯の薬師は今何処にあるんですか?
と聞いてみた。
すると、
薬師如来と鐘は戦争のときに、供出してしまって無くなったのです。
と教えてくれた。
しかし、家に帰って、その事を調べてもなかなかネット出てこない。
そもそも 銅?金属?
しつこく調べているうちに、江戸時代の三洲鳳来寺絵図に辿り着いた。
そこには この場所に大仏があることが描かれている。
ついに見つけた。ここにやっぱり峯の薬師があったんだ。しかも、大仏としてあったのだ。


ついでに この石灯籠を寄進した 尾州キヨス本町の柴山藤蔵 も調べてみた。
柴山藤蔵は 江戸末期、清須で質屋 油屋 酒造業などを手がける大店だったようで、このような灯籠の寄進は全国にあるようだ。信心深いのか、はたまた宣伝効果か? たしかにこの存在感を見れば、旅人が清須に立ち寄ったらこの店を訪れようとおもうのではないか。
この灯籠を見ているうちに 多くの参詣者が同じように考えたと、肌で感じることができた。
多くの院がある神秘的な石段、大きな峯の薬師 そして階段を登り切れば展望がひらけ、雲がはるか下に見えることもあるだろう。江戸時代にたいそう賑わった。
しかし、明治の世になり、徳川幕府の庇護はなくなり、火事にも会い、どんどん寺は廃れていく。
天保や文化などと書かれていた墓石も壊れているものもある。
そして、太平洋戦争で、鳳来寺の峯の薬師も無くなってしまったのである。

明治か大正か昭和初期の宿坊だろうか。
鳳来寺はもはや寺としては機能してない。僧侶も居ないし、奥の院などは 倒壊したまま放置されている。修復もままならないようである。
平成の世では、登山客と秋の紅葉で賑わいを見せている。
さて、木枯し紋次郎に戻ろう。
紋次郎達4人は峠前の茶屋で一休みすることになる。その茶屋の描写は
峠路がややなだらかになったあたりのがけっぷちに、一目で掛茶屋とわかる建物が見えた。
亭主は門谷の住まいへ引き揚げていなくちゃあならねえ。

そのがけっぷちとあるところはこのあたりか、眼下に見えるのは門谷。はるかに遠いではないか。
しかし、ここは景色が素晴らしい、真下を見ると90度の崖だ。遠く三河湾も見える、その先は伊勢神宮、その先は奈良。
身を乗り出すとまるで鳥になったような錯覚。
利修仙人は鳳凰を操ったと言う。ここには本当に鳳凰がいたのかもしれない。
そして、この先 秋葉道は鬱蒼とした山のなかを入り、大野宿へと続く。