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旅の途中です

別ブログの旅行に関するものを独立させました。全国旅で周りたいんです。まだタイトル決めていません。

街道シリーズ 秋葉山道 峯の薬師はどこに?其の三

2017-05-23 16:44:19 | 歴史
現在、鳳来寺には本尊である峯の薬師はない。

於大は 峯の薬師 に祈願した。
ということは戦国時代は像があったはず。まさか なかったとか?それはないだろう。

しかし、ネットをいろいろ探すうちに見つけた!
それなんと甲府にあったのだ。

甲斐善光寺の由緒よると
1571年 信玄公が鳳来寺を登山して 薬師を奉遷した。とある。
1571年とは、信玄が東三河に侵攻し、長篠城など降伏した年であり、この時点で鳳来寺のあたりは信玄の支配下になった。

にわかには信じ難かった。鳳来寺側の資料には其のような記述は全くない。

この薬師は平安後期の作とされる。

頼朝時代に鳳来寺に安置されたものではないだろうか? 於大はこの薬師に祈願したのかもしれない。
なぜ?信玄が甲府へ持って行ってしまったのだろう。信玄が病気を患っていた。故に利修仙人が文武天皇を治したように、病気平癒のご利益がある峯の薬師を鳳来寺を手にした信玄が持って行ってしまったということは腑に落ちる。

戦国時代にもうすでに利修仙人の伝説はかなり有名な話だったに違いない。

私の推測ではあるが、オリジナルの利修仙人が作った峯の薬師は早い段階で焼失し、その後、頼朝の力で 新しい峯の薬師が置かれた。 その薬師を於大も参詣した。 しかし、その後、信玄が甲府へ持って行ってしまった。信玄が甲府へ持って行ってしまったことは もしかしたら、家康も家光も知らなかったのではないだろうか?

では 家光、家綱が東照宮を作ったとき、ご本尊の峯の薬師はどうしたんだろう?江戸時代 多くの人が峯の薬師を目指して参詣してたはずなのに。

境内を散策しているとき、大きな石の台座があった。


石の灯籠には 峯薬師とある。
ここに何があったんだろう?

たまたま近くにスタッフが掃除をしていたので、
峯の薬師は今何処にあるんですか?
と聞いてみた。

すると、
薬師如来と鐘は戦争のときに、供出してしまって無くなったのです。
と教えてくれた。

しかし、家に帰って、その事を調べてもなかなかネット出てこない。

そもそも 銅?金属?

しつこく調べているうちに、江戸時代の三洲鳳来寺絵図に辿り着いた。

そこには この場所に大仏があることが描かれている。

ついに見つけた。ここにやっぱり峯の薬師があったんだ。しかも、大仏としてあったのだ。




ついでに この石灯籠を寄進した 尾州キヨス本町の柴山藤蔵 も調べてみた。

柴山藤蔵は 江戸末期、清須で質屋 油屋 酒造業などを手がける大店だったようで、このような灯籠の寄進は全国にあるようだ。信心深いのか、はたまた宣伝効果か? たしかにこの存在感を見れば、旅人が清須に立ち寄ったらこの店を訪れようとおもうのではないか。

この灯籠を見ているうちに 多くの参詣者が同じように考えたと、肌で感じることができた。

多くの院がある神秘的な石段、大きな峯の薬師 そして階段を登り切れば展望がひらけ、雲がはるか下に見えることもあるだろう。江戸時代にたいそう賑わった。
しかし、明治の世になり、徳川幕府の庇護はなくなり、火事にも会い、どんどん寺は廃れていく。
天保や文化などと書かれていた墓石も壊れているものもある。

そして、太平洋戦争で、鳳来寺の峯の薬師も無くなってしまったのである。


明治か大正か昭和初期の宿坊だろうか。
鳳来寺はもはや寺としては機能してない。僧侶も居ないし、奥の院などは 倒壊したまま放置されている。修復もままならないようである。

平成の世では、登山客と秋の紅葉で賑わいを見せている。

さて、木枯し紋次郎に戻ろう。

紋次郎達4人は峠前の茶屋で一休みすることになる。その茶屋の描写は

峠路がややなだらかになったあたりのがけっぷちに、一目で掛茶屋とわかる建物が見えた。
亭主は門谷の住まいへ引き揚げていなくちゃあならねえ。




そのがけっぷちとあるところはこのあたりか、眼下に見えるのは門谷。はるかに遠いではないか。

しかし、ここは景色が素晴らしい、真下を見ると90度の崖だ。遠く三河湾も見える、その先は伊勢神宮、その先は奈良。

身を乗り出すとまるで鳥になったような錯覚。
利修仙人は鳳凰を操ったと言う。ここには本当に鳳凰がいたのかもしれない。

そして、この先 秋葉道は鬱蒼とした山のなかを入り、大野宿へと続く。

街道シリーズ 秋葉山道 峯の薬師はどこに?其の二

2017-05-23 11:24:24 | 歴史


なんと開祖は超能力を持った仙人で300年ほど生きたとか。その方ご鳳凰に乗って 奈良の文武天皇のところまで行き、病気回復の祈祷をして 天皇は回復し、その功労をねぎらい寺を建てることになったそうな。

本当にそのような能力者がいたのだろうか?修行を積めば幽体離脱くらいはできたかもしれない。

そして、仙人は7本の杉の霊樹を得て、そのうち一本から薬師如来並びに十二神将の像を彫刻した。

この薬師如来が 峯の薬師如来の元である。

しかし、奈良時代の寺というのは庇護してもらえなくなると廃れていく。鳳来寺もまさにそのように廃れていってしまった。

仮にこの仙人が作ったとされる仏像も この段階で、多分焼失したか無くなってしまったというのは私の推測。




廃れてしまったはずなのに、石段は非常に立派。

それは 廃れていた鳳来寺が源頼朝がかくまったことで、鳳来寺は復活する。由緒には永く源氏の祈願所とせり、とある。
この石段も その頼朝の時代に整備されたらしい。


本堂。昭和49年再建。その前は大正3年に焼失してしまい、その後何十年も本堂はなかったらしい。

開山堂? 修理しようとしていようだか、長年放置されたままのようである。

鐘楼

まるで要塞のように石積みの跡が、単なる崖崩れ防止ではなく、この石段の上に何らかの建物があったと思われる。

他にも墓など、みると天保とか文化とか… 古い…そして崩れている墓石も。怖い。

お地蔵さん巡り?みたいなのをしたのだか、途中から霊気のようなものをヒシヒシと感じて怖かった。この山には精霊みたいなのがたくさんのいる。





鳳来山東照宮 国重要文化財
杉の木は樹齢370年。つまり、創建当時に植えられた杉なのである。この杉達は 370年間参拝する旅人を見守ってきたはずである。

由緒によれば、1648年 家光が 家康の父母信康と於大が峯の薬師に祈願に訪れ、そして家康を出産したという話を聞き、家康は真達羅大将(仙人が掘った十二神将の一人か?)生まれ変わりであると、東照宮の新設を思い立ち、1951年家綱の時代に落成とある。

東照宮を建てたことで、徳川幕府は鳳来寺のほうの面倒も見ることになり、1350石の寺社領となり、門前の門谷には代官所も置かれたようだ。

家康が生まれることとなった峯の薬師といわれ、大いに参詣者を集めた。

家康を神格化するには 絶好のネタであったし、徳川幕府の権勢を誇示することにも寄与したであろう。

しかし、肝心の峯の薬師はどこに?

寺でもらった由緒にも書いてない。

街道シリーズ 秋葉山道 峯の薬師はどこに?其の一

2017-05-23 10:44:12 | 歴史


これも 木枯し紋次郎より 雷神が二度吼えた の舞台となる場所で、気になって行ってみた。

それ以外にも 街道歩きをしていて 初めて秋葉講 秋葉道なるものを目にして 秋葉山については色々調べていた。

秋葉神社は火の神で、火事にならないようにと祈りを込めて 江戸から参詣するのである。そしてそれは街道沿いに伝わるのか、中山道でも木曽や美濃にも秋葉信仰などあり、参詣する道を秋葉道などと書いてあったりする。

東海道からは 掛川から秋葉神社を詣で、さらについでに鳳来寺も詣でるのがセットになっている。

今回は 東海道は御油方面からの門前町の門谷 と 鳳来寺を巡ってきた。

門谷は江戸時代は宿場町として大変栄えていたようである。町の入り口には茶屋やならび、参道へと続く道はたくさんの旅籠があったであろう痕跡がある。








こちらは鳳来寺を通らずに次の大野宿へいく近道と思われる。





木枯し紋次郎 雷神が二度吼えた より
「旅は道連れって言うじゃねえかい。まぁ、仲よくしようや」
若い渡世人はひとり嬉しそうに、あちこち眺めやりながら歩いている。門谷をすぎて、三洲鳳来寺の峯の薬師への九丁の上りにさしかかっていた。
路上には、四つの人影があった。

鳳来寺の階段は1425段。一体誰がこんな石段を?

それを語るには鳳来寺の伝説から語らなければいけない。