宗教的時空感だと、「時間というものは実はない」
「時間はまやかしのようなものだ」と言われてきました。
意識をするからすべてがあり、けれどその意識も真なるものではないそうです。
なにを言っているかよくわかりませんでしたが、
なんとなく考え続けていたらふと閃きました。
――たとえば、時間は外側にあるのではなく、内側にあるのだとしたら?
たとえば、止まっている水の中に棒を入れたとします。
棒を静止させていれば、水も静止したままです。
でも、棒を動かせば、棒の周りに水の抵抗が生まれます。
棒が動くことで、周りの水は動かなくても、
棒にとっては相対的に周りの水が動いたように見えます。これが時間です。
本来、時間も空間も動かないものなのに、
人間が動くから時間が動いているように見えているのではないでしょうか。
人間の一人一人が、この宇宙という大きな機械を構成する歯車だとします。
100歳まで生きる人は100個の歯がついていて、一年に一歯進んで
100歯回ったら元のところに戻ってきます。
自分の意識は、そのうちの一歯。
それが回転するので周りが変化して時間が動いているように感じますが、
実は動いているのは自分だけで、時間は動いていません。
それどころか、自分というのは今、ここにいると感じる主体性を持った
この自分ただ一人だと思っていますが、
別の歯の自分も同じことを思っています。
自分という歯車において、今このときにも生まれた自分もいれば、
死んでいる自分もいます。
死んでいる自分は一回転してまた生まれている自分です。
でもその生まれる、死ぬというのも、歯車がただ一回転したという
意味でしかなく、太陽が地球を一回点するとき、
見えなくなったら日がしずんだ(死んだ)、
また見えたら日が昇った(生まれた)と言っているに過ぎません。
人間は太陽のように、歯車を回して生命を回しているのに過ぎないのです。
宇宙も時間も空間も、ただそこにありなにも動いていなく、
中で動いてエネルギーを発しているだけだと思うと、
なぜそんなことになっているのか分けがわからなくなってきます。
もしかしたら宇宙というか、この次元そのものが、
原子核の周りを電子がぐるぐる回っているようなものと同じなのではないかと
ふと思いました。
世界について考えると頭を壁に叩きつけたくなるような狂気に襲われます。