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旅で行ったダニーデン(学生の町)の図書館は日本の本もあった。
でもなんだろ?このラインナップ。
世紀末リーダーたけし全巻、地獄甲子園、ゴーマニズム宣言、コボちゃんの22巻…誰チョイスじゃ(笑)
これはおもしろい。旅から帰って、期待して我が町ネルソンの図書館に行ったら日本語の本はたったの1冊だけ。「PEACH BOY」。
そそるタイトルだと思ったら、そう「桃太郎」でした。めでたしめでたし。
でもなんだろ?このラインナップ。
世紀末リーダーたけし全巻、地獄甲子園、ゴーマニズム宣言、コボちゃんの22巻…誰チョイスじゃ(笑)
これはおもしろい。旅から帰って、期待して我が町ネルソンの図書館に行ったら日本語の本はたったの1冊だけ。「PEACH BOY」。
そそるタイトルだと思ったら、そう「桃太郎」でした。めでたしめでたし。
題名も翻訳されるもんなんですね(^_^;)
コボチャンは王道ですね☆
あと中学校の時図書室に英語版のサザエサンがあって面白かった覚えがあります~!!
昔は「シティーハンター」にハマって漫画本買ってた(´ω`)
知ってるかもだけど今ドラゴンボール改(Zが改になっただけ)放送中ダヨ☆
餃子(チャオズ)が私の癒やし(σ´∀)σ
そうそうこち亀は香取慎吾でドラマだってぇ!!中川・もこみち。麗子・香里奈。(日本の情報でした)
◇ ◇
沈黙を守っていた仲田本部長がこの日、初めて口を開いた。三沢さんと最後に会ったのは今月9日の静岡・沼津大会で、控室で「三沢引退」へ向けた具体的なプランを話し合ったという。
三沢さんは年内にも現役引退の意向を固め、第2の人生へ向けた起業計画も進められていた。“引退デー”については同本部長と真由美夫人(42)の2人が聞いていたそうだが、「いつかは言えない」とした。
だが、引退を決断しても、すぐにリングを去ることは許されなかった。3月に日本テレビの地上波放送が打ち切られるという厳しい台所事情も背景にあり、体にムチ打って“残り火”を燃やした。その矢先に惨事を招いてしまった。
28年間のリング生活は体をむしばみ、頸椎(けいつい)の損傷は慢性化。最近は肩、腰も悪化し、体力の限界を感じていたそうだ。同本部長は80年から全日本でリングアナウンサーを務め、翌年入団した三沢さんとは公私ともに深いきずなで結ばれ、ノアを興した盟友。今年8月で旗揚げ10年目を迎えるが、同本部長は「だれが悪いのかといったら自分。10年で辞めさせてあげる環境をつくれなかった。残念です」と遺影に語りかけた。
旗揚げ時からエースの小橋が両ひざ手術を繰り返し、腎臓がんにも侵された。“No.3”格の秋山にも持病があり、その分、三沢さんに負担がかかった。参謀役も打つ手がなく「もうちょっとと、無理をお願いした」と無念の思いを吐露。13日に広島から一報を聞いた際は「そんなことはない」と現実を受け入れられなかったが、翌朝、広島市内の病院に直行して無言の再会。「笑っている顔に見えた」と言う。
三沢さんは引退選手のことも考えての起業プランを練っていた。既に実行に移す段階にきていたそうで、本人は「引退ツアーとかはやらない」と断言し、実業に専念することを楽しみにしていたという。同本部長は「自分が必ず実現していきます」と、遺志を全うする考えを強調した。
[デイリースポーツ]
レフェリー一筋のタナベさんは、みちのくプロなど各団体を渡り歩き「元祖多団体男」と称された。大阪プロには06年2月に初登場。ヒールレスラーの反則を見逃し、選手と小競り合いを起こすなどコミカルな動きで人気があった。出身地の名古屋で他の仕事を持つかたわら、週末は大阪に出向き週1回レフェリーを務めていた。
関係者によると、心臓にもともと負担を抱えており、不整脈も患っていた。大阪プロの阪上雄司会長は「責任感が強く、とにかくプロレスを愛された方だった」と話した。13日には同い年の三沢光晴さんが急死したばかり。タナベさんは三沢さんの最後の対戦相手だった斎藤彰俊と深い親交があり、事故を深く嘆いていたという。
[2009年6月16日8時41分 紙面から]
全日本プロレスの武藤敬司(46)が15日、プロレスファンが最も熱望しながら実現しなかった三沢光晴さんとのシングル対決について、本紙の取材に「場所は東京ドーム。結果は60分フルタイムドローかな。みんながハッピーになってくれるから」と“結末”を語った。
「対戦するなら新日本と全日本の選手だったころだったな。今はお互い社長としての立場もあるし、60分は厳しい」と夢の対決について打ち明けた武藤。この日の会見では「夢の戦いはどうするんだよ。一騎打ちはどうすんだって」と三沢さんへ最後の“対戦要求”を突きつけた。
2人は、04年7月のノア東京ドーム大会のタッグマッチで初対戦。今年8月の武藤デビュー25周年興行でも「マッチメークで苦戦したら三沢さんにタッグマッチでの対戦をお願いしようと考えていた」という。
同年齢の三沢さんとは「一選手としては比較されてライバル関係にあった。その後は、お互い社長兼選手という境遇になり、ライバルを超えて同志的な存在だった」という。永遠のライバルの死を受け、「『リングで死ねたら本望』と軽々しく言っていた自分を改めようかな」とつぶやいた。
ドラゴンボールもこち亀も知りませんでした。
今はやってるか分からないけど。すごい!!さすがドラゴンボール☆
同じ学校の日本人の友達に話したけど〈女の子ってのもあるのかな〉、俺だけが熱くなって空回りしてました。
うーん。その話、気になりますなぁ~