明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

老子 二十絶学無憂、十九 絶聖棄智、十八 大道廃有仁義、十七 太上不知有之、十六 公乃全,全乃天、十五 豫兮若冬渉川 猶兮若畏四隣、十四 無状之状 無物之象

2019年03月12日 | 中国思想

 

     老子 第二十章    絶学無憂  

 絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與悪、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉、衆人煕煕、如享大牢、如春登臺。我獨泊兮其未兆、如嬰兒之未孩儽儽兮若無所歸衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮、俗人昭昭、我獨昏昏、俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、兮若無止、衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。

 学を絶てば憂い無し。唯(い)之(し)と阿(あ)と、相去ること幾何(いくばく)か、善之と悪と、相去ること何(いく)若(ばく)か。人之畏れる所、畏れざる可からず。荒(あら)き兮(かな)其の未だ央(つ)きざる哉(や)、衆人(しゅうじん)熙熙(ひろびろ)として、大牢(うしうま)を享(う)けるが如く、春に台に登るが如し。我独り泊(しろ)き兮(かな)其の未だ兆(きざ)しあらざりて、嬰兒の未だ孩(わら)わざるが如し。儽儽(るいるい)兮(かな)帰る所無きが若し。衆人皆余り有るに、而して我独り遺(つかわ)すが若し。我は愚か人の心なる哉、沌沌兮(とんとんかな)。俗人は昭(しょう)昭(しょう)として、我独りは昏昏(こんこん)、俗人は察察(さつさつ)、我独りは悶悶(もんもん)。澹(しず)か兮(かな)其の海の若(ごと)きは、飂(りょう)なる兮(かな)止まること無きが若し。衆人皆以て有り、我独り頑(かたく)なで鄙(ひ)に似たり。我独り人に於いて異なり、而して食母を貴(とう)とぶ。

 学ぶことと縁を切れば、人は憂いが無くなります。「はい」と「は~い」とではどれだけ離れていることでしょうか、善行と悪業とは、どれだけ離れていることでしょうか。人が恐れることは、自分も恐れるべきものです。広くて大きいはてしないことですね、大勢の人が和やかで楽しく、牛肉や馬肉を食べるように、春に台に登って景色を眺めるように、楽しいものです。私は独り淡々として予兆の無いところにいて、赤ん坊がまだ笑うことができない時代のようなものです。だらだらとして、落ち着く先が無いようです。大勢の人々は皆自己満足でおごっているのに、ただ私独りは足りないように謙虚な気持ちでいられます。私はまるで愚かな人のような心で、無知のように見えます。俗世間の人々は光り輝いて、私独りは輝かず、俗人は何でも知っているように見えて、私独りだけ混沌として何も知りません。学んでいない自分は海のような静けさであり、どこへでも飛べる自由さはとどまることを知りません。多くの人は皆何でもできるように見えて、自分だけが独り愚鈍で野鄙なようです。私独りが他の人とは異なっており、食母すなわち道を貴とぶものです。

 

 

 

     老子 第十九章   絶聖棄智       

 絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以為文不足、故令有所属、見素抱樸、少私寡欲

 聖を絶ちて智を棄てれば、民の利(よろ)しきは百倍す。仁を絶ちて義を棄てれば、民は復(ふた)たたび孝にして慈しむ。巧みを絶ちて利を棄てれば、盗賊有ること無く、此の三者、以て文の為に足らず、故に所属を有ら令(し)む。素を見(あら)わして樸を抱き、私を少なくして欲も寡なし。

 政治と関係を絶ち、小賢しい智慧に頼ることをやめれば、民衆の利益は百倍にも増えます。ゆとりを持たず、義務を棄てれば、民衆は親孝行や子への慈愛を取り戻します。要領の良さを棄てメリットを放棄すれば、盗賊などは出なくなります。

 聖智、仁義、巧利という三者は、本来あるべき大自然の道ではなく、人為的に粉飾した規範ですから、人の為になるには不足なものであり、人々を正しくないところに所属させてしまいます。人は中も外も素朴にしていれば、私心が少なくなり、欲望が起こりません。

 

 

 

    老子 第十八章    大道廃有仁義      

 大道廃、有仁義、智慧出、有大僞、六親不和、有孝子、国家昏亂、有忠臣。

 大道廃れて仁義有り、智慧出でて大偽有り、六親和せずして孝子有り、国家昏乱して忠臣有り。

 道がないがしろにされると、仁義という道徳が出てくるものです。智慧というものが出て来てから、ひどいウソやイカサマが出てきます。家庭がうまく行かなくなると、孝行息子が注目されます。国家が乱れて混迷していると、忠臣と言われる人が現れます。

(注)「智慧」を「慧智」とするテキストがありますが採用しません。



 

     老子 第十七章   太上不知有之        

 太上不知有之、其次親而誉之。其次畏之、其次侮之。信不足焉、有不信焉、悠兮其貴言、功成事遂、百姓皆謂我自然。

 大上は之れ有るを知らず、其の次は親しみて之れを誉め、其の次は之を畏れ、其の次は之を侮る(あなど    )。信足らざる焉(なり)、信ぜざるも有る焉。悠(のど)か兮(かな)其の貴い(とうと     )言(ことば)、功成りて事を遂げ、百姓皆我れを自然と謂う。

 最も素晴らしい政体は、人々がその存在に気が付かないもので、その次に良いのは、民が親しんでほめるものです。その次は人々が恐れるもの、その次は民に馬鹿にされるものです。信用が不足していることもあり、全く信用がないものもあります。

 のんびりとしていてその言葉は少なくて、貴重で大切なことしか言わず、言う通りに成し遂げても、民は皆お上が自然体であると言います。

 

(注)「太上不知有之」を「大上下知有之」とするテキストがあるようですが、それは間違いです。

 

 

     老子 第十六章    公乃全、全乃天 

 致虚極、守靜、萬物並作、吾以観復。夫物芸芸、各復帰其根。帰根曰靜、是謂復命。復命曰常、知常曰明。不知常、妄作凶、知常容、容乃公。公乃全、全乃天。天乃道、道乃久、没身不殆。

 虚の極まりに致(いた)り、静かの篤(あつ)きを守れば、萬物並びに作(な)して、吾以て復を観る。夫(そ)の物が芸(いん)芸(いん)たるも、各(おの)おのが復(ま)た其の根に帰る。根に帰るを静と曰(い)い、是れを命に復(かえ)ると謂う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らずして妄りに作せば凶、常を知れば容(うけいれ)、容乃(すなわ)ち公。公乃ち全、全乃ち天。天乃ち道、道乃ち久しく、身没(しず)めども殆(あや)うからず。

心を先入観の無い空しい状態の極致にして、非常に静かな状態を保持すれば、すべてのものごとが一緒に動いていることについて、行ったり来たりすることについて、我々はすべて見極めることができます。

そもそもすべての物事がいくら多くても、すべての物事はそれぞれその根本に落ち着くものです。この根本に落ち着くことを静と言い、これは天地大自然の摂理により命じられたものです。

天地大自然の摂理に落ち着くことを常と言い、常=当然のこと、を知ることを明と言います。常を知らずにでたらめをやれば悪く、常を知っていれば何もかも受け容れることができ、受け入れられればすべてに公平であることができます。公平であれば完全であり、完全であれば自然体であり、自然体こそが道であり、道は永久的なものであり、肉体が無くなってしまっても、道から外れることがありません。

 

※日本のテキストでは、「公乃全、全乃天」の「全」が「王」になっていますが、中国のテキストではすべて「全」になっています。

 

天命之謂性   天命 之れを性(さが)と謂う

率性之謂道   性にしたがう 之れを道と謂う

修道之謂教   道を修める 之れを教と謂う

 

 

 

      老子 第十五章     豫兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、  

 古之善為道者、微妙玄通、深不可識、夫唯不可識、故強為之容、豫兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若氷之將釈、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁、孰能濁以靜之徐清、孰能安以久動之徐生、保此道者、不欲盈、夫唯不盈、故能蔽不新成。

 古しえの善く道を為す者、微妙玄通にして、深きこと識(し)る可からず。夫(そ)れ、唯だ識る可からず、故に強いて之を容と為す。豫(よ)なる兮(かな)、冬に川を渉(わた)るが若く、猶(ゆう)なる兮四隣の畏(おそ)れるが若し。儼(おごそ)か兮(かな)、其(そ)れは客の若(ごと)く、渙(ち)る兮氷の将(まさ)に釈(と)けんが若く、孰(あつ)き兮其の樸(ぼく)の若く、曂(ひろ)き兮其の谷の若し。

 混る兮其れ若しも濁れば、孰(いず)れぞ能く濁りを靜かを以て之を徐き清めん、孰(いず)れぞ能く安らぎを久しきを以て之の動きの徐(ゆる)やかな生まれを。此の道を保つ者、盈(みつ)るを欲さず。夫(そ)れ唯(た)だ盈(みつ)らず、故に能く新しき成らずを蔽(すて)る

 昔から、よく道を理解した人は、繊細で素晴らしくて、根本的で融通が利いて、他人が知ることができないほどの深みを持っています。それを知ることが出来ないからこそ、敢えてこれを形容して表現します。象のように慎重に、まるで冬に川を渡るようであり、大象のように慎重に、まるで周囲が恐れているかのようです。おごそかなこと、まるで賓客のようであり、はつらつとして、まるでこれから氷が解けるようで、素朴なこと、まるでまだ手をつけていない素材のようで、広々としていることは、まるで谷のようです。

清濁あわせて混じりあって、この人は、まるで濁っているかのようです。誰がこの人のように、濁りに対して、静かさによって、ゆっくりと沈殿するのを待つかのように、清らかにすることができるでしょうか。誰がこのように、その動きのゆったりとした性質で、時間をかけて安まることができるでしょうか。この道を歩んだ人は、自己満足や自惚れがなく、だから古くて役に立たないものを捨て去ることが出来るのです。

 日本のテキストでは、「古之善為道者」の「道」が「士」になっていますが、中国のテキストでは、すべて「道」になっています。

「渉大川」という記述は、『周易』の、「需卦」、「頤(い)卦」、「蠱(こ)卦」、「大畜卦」、「益卦」、「中孚卦」、「訟卦」、「同人卦」、に見られ、冒険を侵すとか、条件が厳しい、慎重さが必要、といった意味に使われています。つまり、『周易』と『老子』で使われる漢字や表現には、共通性があると考えることができます。

 すると、次の「豫兮」という表現も、『周易』の「豫卦」つまり、象が鼻で地面を確認しながら慎重に歩くことから、慎重という意味に取ることができます。

 次の「猶」の字は、『周易』にはありませんが、「豫」よりも大きな象のことであり、「猶豫」という言葉は象のように慎重、という意味を表わします。

 当時使われた漢字の意味は、現代はもちろん、秦漢時代と比べてもかなり違っており、当時の漢字の意味を知らないと、まともに訳すことができません。

     

 

    老子 第十四章   無状之状、無物之象       

 視之不見、名曰夷、聴之不聞、名曰希、搏之不得、名曰微、此三者、不可致詰、故混而為一、其上不噭、其下不眛、縄縄不可名、復帰於無物、是謂無状之状、無物之象、是謂恍惚、迎之不見其首、随之不見其後、執古之道、以御今之有、能知古始、是謂道紀。

 之を視(み)て見えざれば、名付けて夷と曰(い)う、之を聴いて聞こえざれば、名づけて希と曰う、之を搏(う)ちても得ざれば、名づけて微と曰う。此の三者、詰めを致す可からず。故に混じり而て一と為す。

 其の上は噭(あか)るからず、其の下は昧(くら)からず、縄縄として名づく可からず、復た無き者に於いて帰る。之を無状の状、無物の象と謂う。これを恍惚と謂い、之を迎えれば其の首(かしら)が見えず、之に随えば其の後は見えず。古(いに)しえの道を執りて、以て今の有を御(あやつ)り、古しえの始まりを能く知れば、是れを道の紀と謂う。

 道というものは、見ようとしても見えないもので、これを「夷」と言います。聞こうとしても聞こえないもので、これを「希」と言います。触ろうとしても、触れないもので、これを「微」と言います、この三者は徹底的に突き止めることができないものであり、道はいろいろなものと交わっているものです。

 道の上は明るいわけではなく、道の下が暗いわけでもありません。連続して果てしなく、名前も付けられず、何もない、ということに、ふたたび落ち着くものです。これを、形のない形であり、物のない象徴である、と言います。

 道というものは、うっとりとしたものであり、迎えようとしてもその頭が見えないし、ついて行こうとしてもその後ろが見えません。

 昔の道を行って、今の存在をあやつり、昔の始まりをよく知れば、道というものの規律がよく理解できます。

 

老子第一章~十三章 道可道非常道、天下皆知美之為美、不尚賢、道冲、天地不仁、谷神不死、天長地久、上善如水、持而盈之、営魄抱一、三十輻共一轂、五色令人目盲、寵辱若驚 

 

 お申し込み先  日 本 員 林 学 会  代表 掛川掌瑛(東海金)

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