明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

ハーバード大学は言論の自由が最低 マイケルサンデルの教室は?

2024年09月27日 | 仏教

一年前の記事

Survey reveals ‘worst’ US university for free speech
ハーバード大学がFIRE(「個人の権利と表現」財団)の新たな調査により、最下位となった
出典:RT  2023年9月7日  
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2023年9月20日

以下は抜粋です。全文を読むには、上のタイトルをクリック

 今週発表された「「個人の権利と表現」財団(FIRE)」の調査によると、米国最古の高等教育機関であるハーバード大学は、言論の自由に関して、最下位の評価を受けた、という。
 
 この調査によると、ハーバード大学を評価する回答は全くなく、実際の累積ポイントはマイナス10.69という結果に終わった、とFIREのショーン・スティーブンス投票・分析部長がニューヨーク・ポスト紙に語った。

 「どこかの学校でポイントがゼロ以下になることは全くあり得ない、と考えていましたが、ハーバード大学は学術上の制裁を数多く課していたことがわかりました」とスティーブンス部長は述べた。発言や記載内容を理由に制裁を受けた研究者や教授9人のうち7人がハーバード大学の人々だった。

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「例え話」の落とし穴 マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」に見る『これからの「正義」の話』

 この記事は、1年以上前のものですが、何故か今頃になってコメントが入っておりますので、日付を改めて掲載させていただきます。

2010.09.22 Wednesday
 
「例え話」の落とし穴 マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」に見る『これからの「正義」の話』
 
夏休みの間見ていたテレビ番組「ハーバード白熱教室」について、南華密教の立場から考えててみたいと思います。

この「教室」は、米ハーバード大学で最高の人気を誇るもので、
マイケル・サンデル教授の授業は、「JUSTICE(正義)」である。現代の難問をめぐって、世界選りすぐりの知的エリートが議論を闘わせる。門外不出の原則を覆し、初めて公開されるハーバードの授業。


とのことです。

サンデル教授の本は、日本でも出版されており、人気になっているようです。
 
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/112569.html
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』Justice マイケル・サンデル(著) 

「ハーバード白熱教室」NHK教育テレビにて放送中(2010年4月4日~6月20日、毎週日曜18:00~19:00、全12回)。金持ちの税金を貧者に分配するのは公正か。前の世代が犯した過ちについて、私たちにつぐないの義務はあるか。個人の自由と社会の利益はいかにして両立可能か──豊富な実例で古今の哲学者の思想を解きほぐす。アメリカ現代思想界の雄による、ハーバード大学史上最多の履修者数を誇る超人気講義。
推薦:宮台真司氏

1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか? 金持ちに高い税金を課し、貧しい人びとに再分配するのは公正なことだろうか? 前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか――。
つまるところこれらは、「正義」をめぐる哲学の問題なのだ。社会に生きるうえで私たちが直面する、正解のない、にもかかわらず決断をせまられる問題である。
哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。
アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、そしてノージックといった古今の哲学者たちは、これらにどう取り組んだのだろう。彼らの考えを吟味することで、見えてくるものがきっとあるはずだ。
ハーバード大学史上最多の履修者数を記録しつづける、超人気講義「Justice(正義)」をもとにした全米ベストセラー、待望の邦訳。

■マイケル・サンデル
Michael J. Sandel
1953年生まれ。ハーバード大学教授。ブランダイス大学を卒業後、オックスフォード大学にて博士号取得。専門は政治哲学。2002年から2005年にかけて大統領生命倫理評議会委員。1980年代のリベラル=コミュニタリアン論争で脚光を浴びて以来、コミュニタリアニズムの代表的論者として知られる。主要著作に『リベラリズムと正義の限界』、『民主政の不満』、Public Philosophyなど。類まれなる講義の名手としても著名で、中でもハーバード大学の学部科目「Justice(正義)」は、延べ14,000人を超す履修者数を記録。あまりの人気ぶりに、同大は建学以来初めて講義を一般公開することを決定、その模様はPBSで放送された。この番組は日本では2010年、NHK教育テレビで『ハーバード白熱教室』(全12回)として放送されている。 


1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?

これについては、上記の本の第一章がWEB上に公開されています。
『これからの「正義」の話をしよう』第1章ダウンロード


  暴走する路面電車

 あなたは路面電車の運転士で、時速六〇マイル(約九六キロメートル)で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする)。
 ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。
 どうすべきだろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ! 何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは、正しい行為のように思える。

 さて、もう一つ別の物語を考えてみよう。今度は、あなたは運転手ではなく傍観者で、線路を見降ろす橋の上に立っている(今回は待避線はない)。線路上を路面電車が走ってくる。前方には作業員が五人いる。ここでも、ブレーキはきかない。路面電車はまさに五人をはねる寸前だ。大惨事を防ぐ手立ては見つからない──そのとき、隣にとても太った男がいるのに気がつく。あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行く手を阻むことができ
る。その男は死ぬだろう。だが、五人の作業員は助かる(あなたは自分で跳び降りることも考えるが、小柄すぎて電車を止められないことがわかっている)。
 その太った男を線路上に突き落とすのは正しい行為だろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「もちろん正しくない。その男を突き落とすのは完全な間違いだ」
 誰かを橋から突き落として確実な死に至らしめるのは、五人の命を救うためであっても、実に恐ろしい行為のように思える。しかし、だとすればある道徳的な難題が持ち上がることになる。最初の事例では正しいと見えた原理──五人を救うために一人を犠牲にする──が二つ目の事例では間違っているように見えるのはなぜだろうか?
 最初の事例に対するわれわれの反応が示すように、数が重要だとすれば、つまり一人を救うより五人を救うほうが良いとすれば、どうしてこの原理を第二の事例に当てはめ、太った男を突き落とさないのだろうか。正当な理由があるにしても、人を突き落として殺すのは残酷なことに思える。しかし、一人の男を路面電車ではねて殺すほうが、残酷さが少ないのだろうか。
 突き落とすのが間違っている理由は、橋の上の男を本人の意思に反して利用することかもしれない。何しろ、彼は事故にかかわることを選んだわけではない。ただそこに立っていただけなのだ。
 しかし、待避線で働いていた作業員にも同じことが言えるだろう。彼もまた事故にかかわることを選んだわけではない。ただ仕事をしていただけで、路面電車が暴走した場合に自分の命を捧げると申し出たわけではない。鉄道作業員は傍観者がとらないリスクを進んでとるものだという意見があるかもしれない。しかし、緊急時に自分の命を捨てて他人の命を救うことは職務記述書に書かれていないし、自分の命を投げ出す気があるかどうかは、橋の上の傍観者であろうと作業員であろうと変わりはないものとしよう。



 随分と無理な設定をしたものです。
 暴走する電車は誰かを轢き殺せば止まるのでしょうか。
 実際の列車暴走事故では、人を轢いたくらいでは列車を止めることができず、どうやって安全に止めるかが最大の問題になります。これは、脱線・衝突により、乗客・乗員・近隣の住民などを巻き込む大惨事を起こす恐れがあるためです。
 ただし、この例え話では、大男を列車の前に落とせば、電車が止まることになっていますから、誰かが死ねば列車が止まる、という前提と理解しておきます。
 そうでないと、暴走する電車をより安全に止めるためには、人がいようがいまいが、待避線へ電車を入れるのが当然のはずです。

 これでようやく、5人を選ぶか1人を選ぶか、という選択に入れるわけですが、先の例を見ると、5人は線路上で作業をしている作業員、1人の方も線路上で作業をしている作業員です。
 線路の作業員であれば、危険は熟知しているはずですが、この電車はブレーキだけでなく、無線や警笛なども壊れていて、作業員に危険を知らせることができないものと考えられます。
 しかし、作業員らは線路上で作業をしているのですから、当然、見張りを立てるとか、注意義務もあるはずです。
 そのように考えると、5人と1人の条件は全く同じであり、そこにいる事の責任の度合いも全く同じと言えるはずです。
 つまり、5人殺すか1人殺すかを選択する、という場合、他の条件が等しければ、という前提が絶対条件であり、他の条件が同一でない場合は、人数の問題では無い、ということが分かります。
 もっと分かりやすく言えば、例えば、1人の方が、作業員では無く、小さな子供だった場合でも、5人か1人かの問題として選択できるのでしょうか。
 つまり、後の例のほうで、1人の大男を突き落とせば5人が助かる、と言っても、この大男は、線路上にいたわけではないし、5人が死ぬことに関して、何の責任もありません。
 後の例について、誰もが、責任の無い傍観者を犠牲にすることは間違っている、と考えるのは当然の事で、サンデル教授の言い分より、一般人の常識のほうが正しいのは明らかです。

 突き落とすのが間違っている理由は、橋の上の男を本人の意思に反して利用することかもしれない。何しろ、彼は事故にかかわることを選んだわけではない。ただそこに立っていただけなのだ。
 しかし、待避線で働いていた作業員にも同じことが言えるだろう。彼もまた事故にかかわることを選んだわけではない。ただ仕事をしていただけで、路面電車が暴走した場合に自分の命を捧げると申し出たわけではない。鉄道作業員は傍観者がとらないリスクを進んでとるものだという意見があるかもしれない。しかし、緊急時に自分の命を捨てて他人の命を救うことは職務記述書に書かれていないし、自分の命を投げ出す気があるかどうかは、橋の上の傍観者であろうと作業員であろうと変わりはないものとしよう。

 

 ここで、サンデル教授は「まやかし」を使っています。まるで、「作業員」や「大男」が犠牲になるかどうかを選択できるかのような言い方をしていますが、実際に選択するのは、先の例では運転士であり、後の例では、関係者ですらない傍観者の「小男」です。
 この「小男」は自分が犠牲になっても電車が止まらないからと言って、同じ傍観者である「大男」に犠牲を強いようとしています。少しでもこの「小男」が正義であるためには、「大男」だけを犠牲にするべきではなく、自分も一緒に飛び降りる、という選択があるはずです。そうすれば、「大男」1人よりは、より確実に列車を止めることができるはずですし、2人の犠牲で5人が助かるなら、数の選択としても成り立ちそうです。

 「自分の命を投げ出す気があるかどうかは、橋の上の傍観者であろうと作業員であろうと変わりはない」

 と言うのは、自分の命を投げ出したときに始めて言えることであり、他人を殺しても良い、という理屈ではありません。
 それに、先の例の運転士は、その立場に於いて、明らかに選択を迫られていますが、後の例の「小男」は、傍観者であり、自分勝手に、つまり主観的に選択を迫られているだけで、誰かがこの男に選択を迫っているわけではありません。


このような「まやかし」は、次の「アフガニスタンの山羊飼い」においても見受けられます。


  アフガニスタンのヤギ飼い

 さて、実際に生じた道徳的ジレンマについて考えてみよう。これは暴走する路面電車の架空の話にいくつかの点で似てはいるが、事態がどう進展するかがはっきりわからない点でもっと込み入っている。
 二〇〇五年六月、アフガニスタンでのこと。マーカス・ラトレル二等兵曹は、米海軍特殊部隊のほかのメンバー三人とともに、パキスタン国境の近くから秘密の偵察に出発した。任務はオサマ・ビン・ラディンと親交の深いあるタリバン指導者の捜索だった。情報によれば、目標とする人物は一四〇ないし一五〇人の重武装した兵士を率いており、近寄ることの困難な山岳地帯の村にいるとのことだった。
 特殊部隊が村を見降ろす山の尾根に陣取ってまもなく、一〇〇頭ほどのヤギを連れた二人のアフガニスタン人農夫と一四歳くらいの少年に出くわした。武器は持っていないようだった。
米兵たちは彼らにライフルを向け、身振りで地面に座るよう命じ、どうすべきか話し合った。
このヤギ飼いたちは非武装の民間人らしい。とはいえ、もし解放すれば米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった。
 どんな方策があるかを考えながら、四人の兵士はふとロープを持っていないことに気づいた。
そのため男たちを縛りあげ、新たな隠れ家を見つけるまでの時間を稼ぐことはできなかった。
選択肢は、男たちを殺すか解放するかのどちらかしかなかった。
 ラトレルの戦友の一人は殺すことを主張した。「われわれは敵陣に潜んで作戦を遂行中だ。ここには上官の命令で送り込まれた。自分たちの命を救うためなら、あらゆることを行なう権利を持っている。軍人として何を決定すべきかは明らかだ。彼らを解放するのは間違っている」。
ラトレルは迷った。「心のなかでは彼が正しいとわかっていた」とラトレルは回想記に書いている。「どう考えてもヤギ飼いを解放するわけにはいかなかった。しかし困ったことに、私にはもう一つの心があった。キリスト教徒としての心だ。それが私にのしかかっていた。武器を持っていないこの男たちを冷酷に殺すことは間違っていると、何かが心の奥でささやき続けていた」。
キリスト教徒の心とは何を意味するのか、ラトレルは述べていない。だが結局、彼の良心はヤギ飼いたちを殺すことを許さなかった。ラトレルは解放すべしというほうに事態を決する一票を投じた(三人の戦友のうち一人は投票を棄権した)。ラトレルはその一票を悔やむことになる。
 ヤギ飼いたちを解放して一時間半位した頃、四人の兵士はAK48自動小銃や携行式ロケット弾で武装した八〇人から一〇〇人ほどのタリバン兵に包囲されていることに気づいた。その後の激しい銃撃戦で、ラトレルの三名の戦友は全員戦死した。そのうえ、ラトレルたちシールズ・チームを救出しようとしたヘリコプターも撃墜され、一六人の兵士が命を落とした。
 ラトレルは重傷を負ったが、かろうじて生き延びた。山腹を転がり落ちると、一二キロメートル近くを這ってあるパシュトゥーン族の村にたどり着いたのだ。村人たちは救助が来るまでラトレルをタリバンから守ってくれた。
 当時を振り返り、ラトレルはヤギ飼いたちを殺さないとした自分の投票を責めた。「これまでの人生において、最も愚かで、馬鹿馬鹿しく、間の抜けた判断だった」と、ラトレルはその出来事について書いている。「頭がおかしかったに違いない。墓穴を掘るとわかってる一票を実際に投じてしまったのだから……とにかく、いまはその時をそんなふうに思い出している……決定票を投じたのは私だ。東テキサスの墓地に安らぐまで、その事実は私をさいなむことだろう」
 兵士たちのジレンマを難しくした要因の一部は、アフガン人を解放したらどうなるか、はっきりしないことにあった。彼らはそのままヤギを追っていくだけか、それともタリバンに知らせるか、その点が不明だったのだ。だがラトレルが、ヤギ飼いを解放すれば悲惨な戦闘を招くことになり、結果として一九人もの戦友が命を落とし、自分も負傷し、任務は失敗すると知っていたらどうだろうか。ラトレルは違う決定を下していただろうか。
 いま考えれば、ラトレルにとって答えは明らかだ。ヤギ飼いたちを殺すべきだったのだ。その後の惨劇を考えれば、異議を唱えるのは難しい。数の点から見ると、ラトレルの選択は路面電車の例に似ている。三人のアフガン人を殺せば、三人の戦友と、救出にきた一六人のアメリカ兵の命は助かっただろう。だが、路面電車の物語のどれに似ているだろうか。ヤギ飼いを殺すことは路面電車のハンドルを切るほうに似ているだろうか、それとも、太った男を橋から突き落とすほうに似ているだろうか。危機を予期していながら、それでも武器を持たない民間人を冷酷に殺す気になれなかったという事実は、突き落とす例により近いだろう。


 サンデル教授は、「ヤギ飼いたちを殺すべきだったのだ。」と言っています。また、「数の点から見ると、ラトレルの選択は路面電車の例に似ている。三人のアフガン人を殺せば、三人の戦友と、救出にきた一六人のアメリカ兵の命は助かっただろう」とも言っています。本当でしょうか?
 これを真実と言えるためには、助けた三人のヤギ飼いが、タリバンにアメリカ兵の事を知らせ、そのために、多くのアメリカ兵が犠牲になったことが証明されていなければなりません。が、もちろんそんな事は分かるわけがありません。
 また、それ以前の問題として、アメリカ軍がアフガニスタンに居る事は正当であり、タリバンは皆殺しにするべきであり、タリバンに味方するアフガン人は、民間人であっても殺して良い、という前提に基づかなければ、三人の羊飼いを殺したほうが良い、という結論は有り得ません。
 もう一つ、ラトレルという兵士が助かったのは、アフガン人が彼を匿ってくれたから、ですが、どうして匿ってくれたのでしょう。
パシュトゥーン族はタリバンと対立している?いいえタリバン兵の多くはパシュトゥーン族です。いずれしろ、危険を冒してまでアメリカ兵を助けてくれるものでしょうか?ヤギ飼いたちを殺さなかったから、アフガン人たちが彼を助けてくれた可能性は無いのでしょうか?
 この辺が、日本的というかアジア的な感覚というものかも知れません。つまり、因果応報とか、善行はいつか報われる、という考え方です。
 ラトレルはアメリカ人でキリスト教徒なので、そのような感覚は持ち合わせていないのかも知れませんが、聖書でも「良きサマリア人」の譬えのように、行きずりの人も隣人であり、隣人に対して善行を施すことは当然という考え方です。「キリスト教徒の心」とはそのような意味のはずです。
 もっともこのケースでは、助けれくれたパシュトゥーン族こそが「良きサマリア人」と言うべきかも知れません。

 しかし、もしラトレルたち4人のアメリカ兵が、3人の羊飼いを殺してしまったとしても、それを責めることができるでしょうか。
 アメリカ軍の進攻が正しいかどうかは別として、現実に命の危険があるのですから。
 また、ラトレルは、ヤギ飼いを殺さなかったことを、痛く後悔しています。
 しかし、ヤギ飼いを殺しても、やはり戦闘が起きて、同じように多くのアメリカ兵が死んだかもしれません。その場合に、子供を含む3人のヤギ飼いを殺してしまったことを後悔しないでいられるのでしょうか。
 さらに、ヤギ飼いを殺さないという決断は、4人の多数決に従ったもので、自分の決めたこととは言い切れません。

 サンデル教授がおかしいのは、アフガンの例と電車の例を、死者の数による選択の問題であるかのように言い繕っていることです。


 三人のアフガン人を殺せば、三人の戦友と、救出にきた一六人のアメリカ兵の命は助かっただろう。だが、路面電車の物語のどれに似ているだろうか。ヤギ飼いを殺すことは路面電車のハンドルを切るほうに似ているだろうか、それとも、太った男を橋から突き落とすほうに似ているだろうか。危機を予期していながら、それでも武器を持たない民間人を冷酷に殺す気になれなかったという事実は、突き落とす例により近いだろう。 とはいえ、ヤギ飼いを殺すことには、太った男を橋から突き落とすことよありもいくらか強い論拠があるように思える。これはわれわれが──結果から見て──ヤギ飼いを無辜の傍観者ではなく、タリバンのシンパではないかと疑っているせいかもしれない。


 なぜ「大男」よりも、ヤギ飼いを殺すほうが論拠があるのでしょう。
 タリバンならいくら殺しても構わないのでしょうか。
 戦場だから仕方がないのでしょうか。
 3人殺しても20人助かるからでしょうか。
 
 

 それでは最初に述べたように、南華密教の立場からこの問題に答えてみましょう。
 
 密教の「密」とは、「秘密」の「密」ではなく。「緊密」の「密」という意味があります。
 何が「緊密」かと言えば、仏教において「有」「空」「識」という理論を統合したのが「密教」であり、あらゆる知識を緊密に組み合わせて、あらゆる事柄に対応できるという思想です。
 「有」とは、あらゆる事象は「分類」によって理解できる、とする考え方で、逆に言うと、「我」のように、分類できないものは、存在しえない、とする考え方です。
 「空」とは、あらゆる事象は、「関係」によって認識されるものであり実体は無い、つまり実在を直接認識できるわけでは無い、という考え方です。
 「識」とは、あらゆる事象は、「認識」されることによって、事象として存在する、つまりあらゆる存在とは、認識に過ぎない、という考え方です。
 「有」「空」「識」は、それぞれ別々の考え方ですが、「有」によって分類しているものは、実は事象そのものを分類しているのではなく、事象の「関係」を分類してるものであり、「関係」というのは、例えば、親子という「関係」は、親子という「認識」でもありますから、「関係」とは「関係を認識すること」でもあります。
逆に、親子という「認識」は、親子という「関係」から成り立つものであり、親子という「関係」は、親子という「分類」から、そのように「認識」できるものです。
 つまり、「有」「空」「識」というのは、切っても切り離せない、非常に「緊密」な関係であることが理解できます。
 逆から言うと、ある人の「認識」を決定するものは、「関係」と「分類」に負うものと言えます。
 また、別な言葉で言うと、ある人の「認識」を決定するものは、その人の「立場」に因る、と言い換えることもできます。


 アメリカ兵らが、3人のヤギ飼いを殺したとしても非難されないのは、アフガン戦場で命令に従って動いているアメリカ兵、という彼らの立場では、できることはあまり無いことが誰でも理解できるからで、3人殺して19人を救えるからという数の問題ではありません。
 逆に、助けてくれたアフガン人への感謝も無く、ヤギ飼いがタリバンに知らせたという思い込みだけで、殺さなかったことを後悔して苦しむのは非常に馬鹿げたことです。
 人間が、後悔して苦しむのは、「煩悩」によるものであり、知っている通りに行動できさえすれば、苦しむことが無くなります。これを「悟り」と言います。


 ブレーキの壊れた路面電車の運転士が、5人の作業員を選ぶか、1人の作業員を選ぶか、という場合、他の条件が等しければ、犠牲の少ないほうを選ぶ、というのは、十分に根拠のあることですが、他の条件が等しい、ということは実際には滅多にあるものではありません。つまり、純粋に死亡者の人数だけによる選択、という場面は、ほとんど有り得ません。
 運転士は、運転士という立場で、専門家として最善の選択をしなければなりません。つまり、知っている通りに行動するべきです。

 「大男」を突き落とせば、5人を助けることができる「小男」について言えば、知っている通りに行動するとして、どうして「大男」1人を殺せば電車が止められることを知っているのでしょうか。それは設定だからそれでも良いということにしても、「小男」は「大男」が電車の運行に関して何の責任も無いことを知っているはずですし、逆に5人の作業員や運転士には、多少なりとも責任があることも知っているはずです。
 作業員は、線路上で働くことについて、危険があることを当然知っており、連絡がなかったとしても、常に注意を怠るべきではありません。
 「小男」は、どうして責任の無い「大男」を殺して、責任のある作業員を助けたいのでしょうか。
 作業員の中に、好きな人間が含まれていたり、「大男」が嫌いな人間である可能性は無いのでしょうか。
 どちらも見ず知らずの人たちだったとしても、人間の好き嫌いというのは、一瞬にして生ずるものです。特に「小男」にとって「大男」は、それだけで嫌いな人物であることは大いにありうることです。
 逆に、もし「大男」が最愛の息子であっても、見ず知らずの作業員を救うために突き落とすことができるのでしょうか。
 

 電車の「大男」1人を殺すことは、誰が見ても理不尽なのに、アフガンのヤギ飼いを3人も殺すことがやむを得ないと思えるのは、条件が全く違うからです。
 結局のところ、少数を殺して多数の命を助けるのは「正義」か、という命題が成り立つためには、「他の条件がすべて等しければ」、という前提が必要であり、現実ではほとんど有り得ません。

 どうも、サンデル教授の考える「正義の選択」というのは、机上の空論に過ぎないのではないか、という疑問が生じます。
 あるいは、「例え話」が下手糞すぎる、という感じもします。

 仏教の世界では、原始仏典に見られる釈迦の説法など、ほとんど「譬え」でできているようなものです。
 キリスト教だって、新約聖書にはイエスの「譬え」が満載されています。
 「譬え」「例え」というのは、物事を考えるときに大いに役に立つものですが、前提や設定に間違いがあると、思考や結論をあらぬ方向に導いてしまいますから、注意が必要です。

 批判するだけでは無責任と思われるかも知れないので、「例え話」の改善策を提案してみましょう。
 橋の上で見ている「傍観者」である「大男」を、5人を助けるためなら殺しても良いか?という設定は無茶なので、この「大男」が落とした荷物を拾おうとして線路に入っているが、電車が近づいているのに気がつかない。「大男」は近くにいるので、大声で知らせれば助けることができるが、その先で作業をしている5人の作業員には声が届かない。電車はブレーキも警笛も壊れているが、人を跳ねると自動停車する装置が作動するので、「大男」が死ねば5人は助かる。「小男」は自分を犠牲にして電車を止めても良いと思うが、走っても間に合わない。
 さてこの「小男」は、「大男」に危険を知らせるべきか、それとも5人の作業員を救うために、1人の「大男」を見殺しにするべきか。

 話をこのようにすると、もう少し現実的な選択のように思えて来るでしょう。

 しかし、現実の世界での選択肢、つまり意志決定に関わる情報は、アフガンのヤギ飼いの例のように、ヤギ飼いがタリバンに通報するかしないかは分かりませんし、実際に通報したのかどうかも分かりません。つまりヤギ飼いを殺しても、やはりタリバンに襲われたかも知れないし、後でパシュトゥーン人が助けてくれたかどうかも分かりません。
 命令に従って行動しているアメリカ兵は、自分たちの身を守るために非武装の民間人を殺す「権利」があるかも知れませんが、もちろんそれは「正義」ではありませんし、多数を助けるために少数を犠牲にして良いかという話とは無関係です。
 
 アフガンのヤギ飼いの話でも、危険だからと言って、非武装の民間人を殺すかどうかは、軍の方針として決定すべきことであり、兵隊が多数決で決めるようなことではありません。それを突き詰めてゆけば、どうしてもアメリカのアフガン進攻は正しかったか、というところまで、議論を進めざるを得ないのに、まるで個人の「正義の選択」であるかのように歪曲化しているところに、サンデル教授の「まやかし」を感じてしまいます。
 
 どうも「例え話」は、宗教を布教するときの常套手段で、変に説得力がありますから、騙されないないように注意しないといけません。
 「例え話」が、哲学というか、思考や思索の役に立つのは、前提や設定が正しい場合に限ります。
 それ以外は、ただ自分の論点を有利に進めるための道具でしかありません。
 
 

 

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  代表 掛川掌瑛                  

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