明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

老子第一章~十三章 道可道非常道、天下皆知美之為美、不尚賢、道冲、天地不仁、谷神不死、天長地久、上善如水、持而盈之、営魄抱一、三十輻共一轂、五色令人目盲、寵辱若驚 

2022年06月11日 | 中国思想
       老子 第一章

道可道非常道。名可名非常名。 無名天地之始、有名万物之母。 

故常無欲以観其妙。常有欲以観其徼。 此両者同出而異名。

同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。

 

道可道非常道

道の道とすべきは、常の道にあらず

 この世には、「法則」「原理」「真理」などと呼ばれるものがありますが、永久不変の「法則」「原理」「真理」と言えるものは無く、時間的・空間的条件により、どんな「法則」「原理」「真理」も変化してしまうものです。

 本当の「道」と呼べるものは、そのような「常の道」ではありません。

 

 

名可名非常名

名の名とすべきは、常の名にあらず

名前とは、あるものが何であるかを認識するためにあります。

ところが、「法則」「原理」「真理」などと同じように、名前は絶対的なものではなく、時間的・空間的条件が変化すれば、名前も変わってしまいますし、名前が同じでも意味が違ったりするものです。しかし、人間は名前が無ければ、そのものを認識することができませんから、どんなものであれ、必ず名前をつけて呼ぶのです。

(仏教では「十二縁起」のなかの「名色」という考え方が、この論に該当します。 ”十二縁起ー空と疎外-「悟り」へ”

 

 

無名天地之始、有名万物之母

天地の始めを無と名づけ、万物の母を有と名づく

宇宙の始まりには、まだ何も無かった、と考えることができますが、何も無い状態には、認識する主体も客体もおらず、認識することができません。このような、何も認識できない状態を「無」と言います。人間は何にでも名前をつけないと認識できないので、何も認識できない状態にまで「無」と名づけて、無理やり認識しようとしたのです。

 宇宙が始まると、あらゆる現象に名前をつけて認識することができるようになり、あらゆるものが存在できる、つまり生まれるようになります。このような状態を「有」と言い、すべてのものの根本と言えます。

(初期の仏教では、あらゆるものは絶対的なものではなく、分類することによって存在が規定できるという考え方で、「五位七十五法」という分類法を編み出しました。これを「有論」または「倶舎論」と呼びます。もともと、存在や現象など、ものごとに名前をつけること自体が、「分類」を行って認識しやすくしている、と言うこともできます)

 

 

故常無欲以観其妙。常有欲以観其徼

故に、常に無をもってその妙を見んと欲し、常に有をもってその徼(きょう)を見んと欲す

つまり、認識できない、実体の無い現象に名づけた「無」という名前にこそ、抽象化や概念化という、人類の智慧を見出すことができますし、実体のある、認識できる現象に対しては「有」という名前をつけて認識し、やはり抽象化・概念化することに成功したのです。

 

 

此両者同出而異名

この両者は同じ出にして、しかして異名なり

このように、「無」と「有」とは、根本的には同じことを表すものであり、あらゆるものに名前をつけ、抽象化・概念化して認識することを表しています。

また、「無」と「有」は、対立する概念であり、「無」が無ければ「有」もなく、「有」がなければ「無」も無い、という関係にあります。

(このような「関係」を仏教では「空」と呼びます。「空」は「縁起」とも呼ばれ、あらゆる物事は、「前後的因果関係」と「同時的相互関係」という「関係」によって成り立つという考え方を意味します。例えば、人間の子供が生まれるためには、先に父親がいなければなりませんが、父親は生まれつき父親なのではなく、子供が生まれることによって父親になるもので、父が無ければ子はなく、子がなければ父も無い、という「関係」にあります)

 

 

同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門

同じくこれを玄と言い、玄これ又玄、衆妙の門なり

 あらゆるものに名前をつけること、つまり抽象化・概念化して認識することこそが、人類の智慧というべきものであり、人類が他の動物と一線を画するものです。中でも「無」と「有」という概念こそは、叡智と言うべきであり、このような認識の仕組みを正しく理解することにより、人間はさらに高度な認識に達することができます。

 (あらゆる存在や現象は「認識」によって規定される、という考え方を、仏教では「唯識論」と言います。さらに「密教」の段階になりますと、ある人の「認識」はその人の置かれた立場、すなわち「関係」によって決まる、だけでなく、「認識」を変えることによって「関係」も変化する、つまり存在や現象のあり方を変えることもできる、という考え方が生まれ、「六法」や「手印」などの「功法」へとつながります。この「老子第一章」を読めば、まるでつながりが無いように見える、哲学的な「道家」の思想から、現世利益の「道教」が生まれたのも、決して偶然では無いことがわかります)          

 

 

       老子 第二章 

 天下皆知美之為美、斯悪已。皆知善之為善、斯不善已。 故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。 是以聖人処無為之事、行不言之教、万物作正焉而不辞 生而不有、為而不恃、功成而弗居、夫唯弗居、是以不去。

 

天下皆知美之為美、斯悪已。皆知善之為善、斯不善已。

天下皆美しきの美しきと為すを知るも、斯れ悪きのみ。皆善きの善きと為すを知るも、斯れ不善のみ。

世の中の人は皆、美しいものが美しいとしか知りませんが、これは良くないことです。また、皆、善いことは善いとしか知りませんが、これでは善くありません。

 

故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随、是以聖人処無為之事、行不言之教、万物作正焉而不辞,生而不有、為而不恃、功成而弗居、夫唯弗居、是以不去。

故に有無は相い生じ、難易は相い成し、長短は相形づくり、音声は相い和し、前後は相い随い、是れを以って、聖人は無為の事を処し、言わずの教えを行い、万物作せど而して辞わず、生まれて而も有せず、為して而も恃まず、功成りて而も居らず、夫れ唯だ居らず、是れを以って去らず。

何故なら、「有」と「無」は対立する概念でありながら、「無」が無ければ「有」もなく、「有」がなければ「無」も無い、という「関係」にあります。

 同様に、「難しい」と「易しい」は相対的なものであり、「長い」と「短い」も相対的なものであり、「音」と「声」は、和するものであり、「前」と「後」は、常に確定しているものではありません。

 であるから、聖人=為政者は、事を処理するに当たり、無為、つまり自然に任せるべきであり、何も言わない教えを行い、すべての物事を成し遂げた後でそれについて言わず、何かを生み出してもそれを所有せず、やったことについて自慢せず、手柄の上に胡坐をかかず、そのように、自分が手柄の上にいないだけで、名誉を失うことがありません。

 

   

       老子 第三章

 不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人之治、虚其心、実其腹、弱其志、強其骨、常使民無知無欲使夫知者不敢為也、為無為、則無不治不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。

 賢きを尚ばざれば、民をして争わざらしめ、得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗と為さざらしめ、欲す可きを見ざれば、民の心をして乱れざらしむ。是を以って聖人の治は、其の心を虚しくし、其の腹を実たし、其の志を弱め、其の骨を強め、常に民をして無知無欲ならしめ、夫れ知る者をして敢えて為さざらしめ、為すこと無きを為せば、則わち治まらざる無し。

 

 優秀な人を優遇しなければ、人民 は互いに争わなくなります。手に入りにくい物品を持て囃さなければ、人民は盗みをしなくなります。欲望を刺激するものを見せなければ、人民の心は欲望のために乱れません。ですから、為政者の治世は、人民に余計な欲望を持たせないようにし、必要最低限の、衣・食・住・行・育・楽を満足させ、野心や出世欲を弱め、健康状態を保たせ、つまらない情報や知識を与えず、知識がある者にも行動させず、自然に任せて何もしないことを徹底すれば、すべてがうまく治まるものです。

 

 

        老子 第四章  

 道冲、而用之或不盈、淵兮、似萬物之宗。挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子、象帝之先。

 道は冲なり、而して之を用いるに或いは盈(み)たず。淵(ひろ)き兮(かな)、万物の宗に似たり。其の鋭きを挫き、其の粉を解き、其の光を和らげ、其の塵を同じくす。湛(しず)む兮(かな)、常に存するに似たり。吾は誰の子なるかを知らず、象(きざし)は帝の先にあり。

 

 「道」というものは、中が空洞の容器のようなもので、いくら入れても満たすことができません。実に広々としていますが、すべてのものの根本のようなものです。

 しかし「道」は、その鋭さを表に出さず、単純明快で複雑さを解消し、発する光は和やかで、俗っぽさと共存します。

 そのように、世間、世界に沈んでいて、いつもそこにあるように見えて、私(道)は誰の子か、どこから来たのかわかりませんが、天の帝(宇宙を統合する法則・原理・真理)よりも以前からあったようです。

 

 

 

       老子 第五章 


 天地不仁、以萬物為芻狗、聖人不仁、以百姓芻狗。天地之間、其猶橐籥乎、虚而不屈、動而愈出、多言數窮、不如守中。

 天地は仁(いつく)しみならず、万物を以って芻狗(すうく)と為す。聖人も仁(いつく)しみならず、百姓を以って芻狗と為す。天地の間、其れ橐籥(たくやく)の猶(ごと)き乎(か)。虚しけれど屈せず、動けば愈(いよいよ)出づる。多く言えば数(しばしば)窮まり、中を守るに如かず。 

 

天地大自然というものは、愛情などない酷いもので、人間たちをわらの犬のように扱います。同様に、為政者も酷いもので、国民をわらの犬のように扱います。 

天地の間は、まるでふいごのようなもので、中は空っぽでもつぶれたりはせず、動かせばどんどん空気が出ます。人は多く語れば自分の言葉に縛られるようになりますから、自分の本来の目標だけを守るべきです。

 

 

       老子 第六章

 谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根、綿綿若存、用之不勤。 

 谷神は死せず、是を玄牝と謂う。玄牝之門、是を天地の根と謂う。綿々と存するが若く、是を用いれば勤(つき)ず。 

 

 谷神(万物を生み育てる自然の摂理=道)というものは、永久に死ぬことはありません。別名を玄牝と言い、玄牝の入口を天地の根本と言います。弱々しくても切れることなく続き、いくら使っても尽きることがありません。

 

 

       老子 第七章 

 天長地久、天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶故能成其私。 

 天は長く地は久しく、天地所以に能く長く且つ久しき者、其の自ら生まれずを以ってす。故に能く長く生きる。是を以って聖人は、其の身を後にして而も身を先んじ、其の身を外にして而も身を存し、其の私無きを以って故に能く其の私を成すに非ず耶。 

 

天地大自然というものは、長く久しく、いつまでも滅びることがありません。天地が長く久しくできるのは、自分から長生きしようとはしないところにあり、だからこそ長生きできるのです。 

ですから為政者は、自分の体を後にしてこそ体が前に行くし、自分のことを度外視してこそ自分が残り、私心が無いことによってこそ、私というものが成り立つというべきです。

 

 

        老子 第八章

 上善如水、水善利万物而不爭。処衆人所惡、故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。  

 上善は水の如し。水は善く万物に利しく而して争わず。衆人の悪(にく)むところに幾(ちか)し。善き地に居て、心善く能(かな)い、善き時に動け。夫れ唯争わず、故に尤無し。

 

最上の善いものは水のようなもので、水はあらゆるものにメリットを与え、他のものとは争いません。人々の嫌うところを処理してくれ、「道」に近いものです。

一番善いところに住んで、心を善く広くもって、善いいつくしみを与え、善い言葉を語り、善い政治を行い、善い結果を出し、最も善い時に動くものです。

およそ争わないので恨まれることもありません。

 

 

       老子 第九章 

 持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉満堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功遂身退、天之道載。 

 持ちて之を盈(み)たすは、其を已むに如かず。揣(たた)きて之を鋭くするは、長く保つ可からず。金玉を堂に満たせば、之を能く守ること莫し。富貴に而て驕れば、自から其の咎を遺し、功遂げて身退くは、天之道載(かな)。

 

器がいっぱいの状態を保持しつづけるなら、最初からやめたほうが良いことです。刃物を鍛えて鋭くしても、永久に鋭さを保つことはできません。家いっぱいに金銀財宝を貯えても、これを守り続けることはできません。財力と地位や権力を持って威張っていたら、自分から不名誉を招くようなものです。手柄を立てたら身を退くのが天の決まりごとと言うべきです。

 

       老子 第十章  

 営魄抱一、能無離乎、専気致柔、能嬰児乎。玄覧滌除、能無疵乎。愛民治国、能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳。 

 営と魄は一に抱き、能く離れること無き乎。気を専らにして柔らかきに致り、能く嬰児なる乎。玄覧を滌除して、能く疵無き乎。民を愛しんで国を治めるに、能く無為なる乎。天の門を開き闔じるに、能く雌と為す乎。明白四達するも、能く無知なる乎。之を生みて之れを畜え、生みて有さず、為して而して恃まず、長らえて而して宰さどらず、是を玄徳と謂う。 

 

 体と心は、必ず一つであり、離れることは無いものでしょうか。時には離れてしまうのではないでしょうか。気を集中して心や体を柔軟にして赤ん坊のように純真無垢になることができますか。もちろんできる訳がありません。

 根本的なものの見方の汚れを洗い落として、ものの見方に欠点が無いようにできるでしょうか。人民を愛し、国家を治めるのに、小細工をせず、本当に無為自然にできるのでしょうか。目や耳や鼻や口から情報が入ったとき、動揺せず静かにしていることができるでしょうか。そこら中から情報が入ってきても、ネトウヨのブログのような下らない余計な情報を排除することができるでしょうか。

何かを生産したら蓄えておいて、自分が生み出したものだからと言って、これを保有せず、長く生産を行っても、支配・独占しないこと、これを玄徳と言い、つまり最も根本的な倫理というものです。

 

       老子 第十一章 

 三十輻共一轂、当其無有車之用。埏埴以為器、当其無有器之用。鑿戸牅以為室。当其無有室之用、故有之以為利、無之以為用。

 三十の輻(や)で一つの轂(こしき)を共にし、当(まさ)に其の無きに車の用有り。埴(はに)を埏(かた)めて以って器を為し、当に其の無きに器の用有り。戸牅(とまど)を鑿(うが)ちて以って室と為し、当に其の無きに室の用有り。故に之れ有るを以って利と為すは、之れ無きを以って用と為す。

 車輪のスポークは車輪の中心に集まり、スポークが細くて空間が多いほど車輪が軽くなり、車輪としての機能が優れたものになります。 

粘土を固めて器を作るとき、何も無い空間こそが、器の容量であり機能があります。

出入り口や窓を開けて家を作れば、何も無い穴にこそ家としての機能があるものです。

このように、何かが有ることによって得られる利益とは、有ることで生まれる空間(無)によって得られる機能にあることが分かります。

 

       老子 第十二章

 五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁田猟、令人心発狂、難得之貨、令人行妨。是以聖人為腹不為目、故去彼取此。

 五色は人の目を盲にせしめ、五音は人の耳を聾にせしめ、五味は人の口を爽にせしめ、馳騁田猟は人の心を発狂せしめ、得難きの貨は人の行いを妨げせしむ。

是れを以って聖人は、腹の為はするも目の為はせず、故に彼を去って此れを取る。

 どぎつい色彩は人の色彩感覚を鈍感にしてしまい、うるさい音響は人の音感を鈍感にしてしまい、強い味付けは人の味覚を鈍感にしてしまい、馬を乗り回す狩猟は人を興奮させて狂気に導き、手に入りにくい貴重な品物は人を悪事に導きます。

 だから為政者は、衣食住の充足だけを求め、享楽を求めず、生きてゆくのに必要のないものを取らず、必要なものだけを取るべきです。

 

 

    老子 第十三章      寵辱若驚    

 寵辱若驚、貴大患若身、何謂寵辱若驚、為下、得之若驚、 失之若驚、是謂寵辱若驚。 何謂貴大患若身、吾所以有大患者、為吾有身、及吾無身、吾有何患。 故貴以身為天下、若可寄天下、愛以身為天下、若可托天下。

 寵辱は驚くが若く、大きな患らいを貴とぶは身の若し。何を寵辱驚くが若しと謂うや、下と為すや、之を得て驚くが若く、之を失いて驚くが若く、是を寵辱驚くが若しと謂う。 何を大きな患いを身の若く貴ぶと謂うや、吾れ大きな患らい有る者の所以は、吾れに身有る為、吾れに身無きに及べば、吾れ何を患らうや。 故に貴きは身を以て天下と為し、若し天下に寄る可きは、身を以て天下と為して愛しみ、天下を托す可きが若し。

人々は、寵愛されたり辱かしめを受けるたりすると驚くようになり、大きな災難をわが身のように重く見ます。どうして寵愛されたり辱められたりすると驚くのかと言うと、(権力者の)下にいる人は、寵愛を受けたり辱めを受けたりすると驚くし、寵愛を失うと驚くもので、これを寵辱驚くが若し、と言います。

 どうして大きな災いをわが身のように重要視するかと言うと、我々にとって大きな災難というものは、我々に体があるからであり、体のことなどどうでも良いと思ったら、我々に何の心配があるでしょう。

 ですから、天下を自分の身と同じように大切に思う人なら、天下を預けることができ、天下をわが身のように愛せる人なら天下を任せることができます。

 

続きを読む>老子 二十絶学無憂、十九 絶聖棄智、十八 大道廃有仁義、十七 太上不知有之、十六 公乃全,全乃天、十五 豫兮若冬渉川 猶兮若畏四隣、十四 無状之状 無物之象

 

2021-04-25 

新刊!  

  密教秘伝 老子 全八十一章

      《道家四子と中国仏教》

         張明澄記念館   発行                               売価 16,000  

  PDF版をご希望の方は、お問い合わせください。

                  序言

 本書は、日本員林学会講座における、故張明澄先生の講義に基づき、『老子』全八十一章の日本語訳と「道家四子」の概要および「中国仏教」への影響について記したものです。

 従来、『老子』の解釈について、妥当なものがほとんどなく、さらに伝わっているテキストも中国と日本で異なる、などの問題がありました。

 また、日本では、「道家」と「道教」を同一視する風潮がありますが、これは非常に間違った考え方であり、「道家」と「道教」は無関係では無いものの、『老子』の「無為自然」に対して、「道教」の「符籙」「占験」「養生」などは、いずれも「有為」つまり、目的のためにわざわざ行うことであり、『老子』の言う「無為」とは真っ向から対立する方法です。ここをよく理解しておかないと、「無為」もできなければ、「道教」の方術をきちんと使うこともできません。

 右のような理由から、本書を著わす意義は大きなものですが、張先生の講義から、既に二十年を経ており、筆者として、これまでの怠慢と力不足をお詫びする次第です。

本書を読むことは、「道家思想」のみならず、「中国禅」「中国密教」、「道教」への入り口ともなるものであり、何卒ご愛読の程お願い申し上げます。

                二〇二一年 辛丑

              日本員林学会  掛川 東海金  

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            中国禅への影響

「中国禅」に於いても、「道家思想」の影響は顕著に見られます。

 「禅」が中国に入ったのは、西暦四七〇年代ごろ、初祖達磨(だるま)がインドから中国に渡来し、「禅」を伝えたとされています。

 それ以前の南朝時代、宋の竺(じく)道生(どうせい)(355―434)という人が、「頓悟(とん ご )成仏(じょうぶつ)説」を唱えており、六祖慧能(えのう)(638~713)を祖とする南宗禅に引き継がれたと考えることができます。

 達磨が中国に禅を伝えた、というのは、六祖慧能による創作だという説(胡適など)もありますが、竺道生は、それ以前の人であり、達磨開祖説の真偽とは、直接関係がありません。

 竺道生について、「大乗仏教哲学を老荘思想の述語・概念によって表現することに成功した。」(世界大百科事典)などと評されるように、道家思想の影響が明らかな仏教家と言え、「道生」の名も、『老子』から取られた可能性があります。

 つまり、「中国禅」は、達磨(だるま)の「印度禅」から発達したという以上に、「道家思想」から発展したという可能性が多々あるものです。

「南宗禅」の「公案」のなかには、「道家思想」の影響が強いと見られるものがあります。例えば、「難解」なことで有名な「南泉斬描」などがその一つです。

無門関 第十四則 

 南泉和尚は、寺の東西の弟子たちが、猫の子をめぐって争っているのを見かけ、こんな提案をしました。皆がこの猫について何か言うことができれば命を救うが、言う事が出来なければ斬ってしまう。しかし皆はこれに答えることができず、とうとう南泉は猫を斬ってしまいました。夜になって一番弟子の趙州が外出から帰ってきます。南泉が今日の出来事を趙州に話すと、趙州は靴を脱ぎ、頭の上に載せて出て行ってしまいました。南泉は言います、もしお前がいれば猫の子を救えたのに、と。

(原文)南泉斬描 南泉和尚。因東西堂爭猫兒。泉乃提起云。大衆道得即救。道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晚趙州外歸。泉舉似州。州乃脫履。安頭上而出。泉云。子若在即救得猫兒

 これは、とても解りやすい「公案」なのですが、「道家四子」を読んでいない人には、さっぱり解らないようです。

 解らない人の思考手順は、第一に、弟子たちは猫の何を争っていたか、などと、原文に全く書かれていない事を問題にして、猫の「仏性」について論争していた、などと論じますが、原文に無いことをいくら推理してもどうにもなりません。原文を素直に読めば、東西どちらがペットにするかを争ったとしか思えませんが、それでは、仏教論争にならない、という訳でしょう。本当のところ、門人の多い禅寺では、食料を大量に蓄えており、鼠対策が重要で、猫は非常に貴重だったと言います。

 次に問題にされるのは、南泉はどうして猫を斬ったか、ですが、「自性」がどうとか、「二元論」がどうとか、「根本智」がどうとか、「一刀両断」だからどうとか、中でもひどいのが、「一刀一断」、これは、道元が言ったのだそうです。

 そんなことですから、最後に趙州が、「靴を頭に載せて出て行った」ことの意味など理解できるわけがありません。

 南泉が猫を斬った理由、というか、何故そうなってしまったか、と言えば、弟子たちが、猫の子を争っている状況を利用して、悟らせようとしたことは間違いないはずです。

 南宗禅は「頓悟」の禅ですから、何かの機会を利用して、例えば鼻を思い切りつねる、などの荒っぽい方法を使ってでも、弟子を悟らせようとします。

 しかし、猫を殺す、と脅すだけならまだしも、弟子たちが、おバカで何も答えられなかったからと言って、どうして猫が斬られなくてはならないのでしょうか。

 禅宗二祖の慧可(えか)という人は、初祖達磨に弟子入りを許して貰うために、自分の左腕を切り落として決意を示し、ようやく入門を許されたと言いますが、腕を斬っただけで、「頓悟」したわけではないようです。況して猫の子を斬ったからといって、弟子が悟ったとは言っていませんから、ただ貴重な猫を、無駄にしただけかも知れません。第一、仏教では「殺生」を禁じており、慧可のように、自分の腕でも斬ったほうが、余程仏法に適っているものです。

 張明澄師は、南泉和尚について、あっさり「認知症」だった、としたほうがずっと解りやすい、と述べておられましたが、確かにそうかもしれません。

 それでは、趙州の行為はどう説明できるのでしょうか。

 

 

 

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 お申し込み先

 日 本 員 林 学 会  

 代表 掛川掌瑛(東海金)

E-MAIL    showayweb〇msn.com  

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