真冬の霊園は、人影もまばらだ。 水汲み場にも、幸佑以外誰もいない。 水桶に注ぐ水道の音だけが、あたりに響いている。
いつものように雄也の好きだった百合の花を抱え、片手に水桶を持った幸佑が、通い慣れた通路を進んでいく。
あたり一面に居並ぶ墓碑の群れの中を歩いていると、不思議と心が落ち着いてくるのがわかる。
今は亡き人々の霊魂が、無言のままに心を鎮めてくれるのかも知れない。
米原家と書かれた石灯籠の前で、幸佑は足を止めた。 米原家先祖代々と彫られた墓石の隣に、小さな真新しい墓石がある。
墓碑銘は、『妙演雄大居士』。 ここに雄也が眠っている。
墓石に水をかけ、花を供えて線香をつけた後、数珠を手に目を閉じて瞠目する。
こうしてここに佇んでいると、すぐそばに雄也がいるような気がする。 姿も声もなくても、確かに雄也の気配を感じるのだ。
雄也が手紙に残した言葉。【おまえの幸せを祈って、きっとどこかから見守ってる】
ここに来るとそれを実感すると同時に、心が満たされていく。
今もまた、先ほどまでの胸に去来していた不穏な気持ちが、静かに浄化されていった。
ゆっくりと目を開けた幸佑が、ひとつ深呼吸する。 冷たい空気が肺の隅々まで行き渡り、清々しい気持ちになった。
やがて水桶を手に、元来た道を戻り始めた。 何気なくあたりを見渡しながら歩いていると、少し離れたところにいる2人連れの姿が目に入った。
徐々に近づいていくにつれ、2人のうち1人が見覚えのある人物だと気付く。
「あれは・・・」
やがてはっきりとその姿が見えた時、幸佑が小さくその名を口にした。
「澪さん?」
そう声をかけられ、澪がはっとして振り返った。 いつも制服姿しか見たことがなかったせいか、私服姿の彼女は少し違って見える。
「え、米原さん?」
驚いたように目を見開いてそう呟いた澪が、小走りに駆け寄ってきた。
「こんなとこで会うなんて、すごい偶然やね」
「ほんまですね。 お墓参りですか?」
「うん、いま参り終えてきたとこやねん。 澪さんも?」
「私は、おじいちゃんのお墓をここに移しにきたんです」
「え、お墓を移しに?」
「はい。 高槻の方にあったんやけど、遠くて不便なので、ここにあるうちのお墓に入れることになって」
そう言って、背後にある小さな墓石を指さす。 表面には戒名、側面には生前の氏名である俗名が彫られている。
『永田藤三』と書かれた俗名を見た時、幸佑が不思議そうな顔をした。
「あれ、おじいさんは名字が違うの? 澪さんは鈴木やったよね?」
「はい。 お母さんの父親なんです。 お母さんは旧姓が永田っていうんです」
「永田・・・」
ふと、幸佑の脳裏に何かがよぎった。 この名前には聞き覚えがあるような気がする。
「澪、お友達?」
記憶の糸をたどろうとしていた幸佑の耳に、聞き慣れない女性の声が聞こえた。 顔を上げると、すらりと背の高い女性が立っている。
「あ、お母さん。 いつも話してるやろ、こちらが米原幸佑さんやねん」
「え、この方が?」
澪の母親らしき女性がふと幸佑の方を見た。 目と目が合った瞬間、幸佑の胸に小さな波紋が広がった。
それは、初めて澪に会った時にも感じたものだった。 初めて会うのに、いつかどこかで会ったような既視感。
その時、不意に幸佑の頭の中で何かが繋がった。
永田藤三という名前。 それは確か、雄也の祖父と同じ名前だ。
改めて目の前の女性を見る。 澪とよく似た面差し。 そしてなぜか、そこに雄也の顔が重なって見えた。
「――もしかして・・・」
知らず知らずのうちに女性を指さした幸佑が、うわ言のように呟く。
「雄也の・・・」
雄也という名を聞いて、明らかに女性が驚愕の表情を浮かべた。 だが澪の方は、不思議そうに幸佑を見ているだけで特に驚いた様子はない。
「あなたは雄也の・・・」
さらに重ねて言葉を紡ごうとした幸佑の腕を、不意に女性が掴んだ。 そしてそのまま、澪から遠ざけるように引っ張られる。
「あ、あの」
存外に強い力で引っ張られ、よろめきそうになりながら幸佑が問いかける。 澪から充分距離をあけたところまで来ると、ようやく女性が足を止めた。
あたりには誰もいないにもかかわらず、女性が声を潜めて問いかけてきた。
「・・・あなた、雄也とどういう関係?」
「俺は・・・雄也の友人です。 小学校から、ずっと」
「・・・・・・・・・」
狼狽とも悲しみとも取れるような表情で、女性が押し黙った。 普段の幸佑なら相手が口を開くまでじっと待つのだが、今は違った。
心の中に芽生えた激しい感情が、幸佑の口を勝手に開かせる。
「あなたは・・・雄也のお母さんですか? お母さんですよね!?」
「私は・・・」
「さっき澪さんが言うてました、永田藤三さんはあなたのお父さんやと。 永田藤三さんは、雄也のおじいさんですよね!?」
「・・・・・・・・・」
女性の表情が、苦し気に歪んだ。 だが幸佑はかまわず畳みかける。
「なんで雄也を捨てて出て行ったんですか? あいつはずっとあなたに会いたがってた!」
「そんなはず・・・」
「口ではそんなこと言うたことないけど、でも俺にはわかるねん! あなたが置いていったっていう指輪を、あいついつも肌身離さず持ってたんです!」
「――—!」
口元に手をやり、女性が目を見開く。 捨てた子供が自分を思っていたという事実を知らされ、驚きと悔恨が彼女の胸に襲来しているのかも知れない。
だが幸佑は彼女を許せなかった。 幼かった雄也を置いて、他の男のところへ行ってしまった母親。
父親はもともといない。 結婚せずに雄也を産んだという。 今で言うシングルマザーだった。
親の愛情が恋しくて、家族の疑似体験ができる役者になりたいと望んだ。 それほど、彼の心の傷は深く大きかったのだ。
ふと、遠くからこちらを窺っている澪の姿が目に映る。
「――このこと、澪さんは知らないんですか。 異父兄がいること」
口を手で押さえたまま、女性が小さく頷く。 すると素早く幸佑の両腕を掴み、必死の形相で訴えかけた。
「お願い、澪には言わんといて! あの子は何にも知らんねん」
「・・・・・・・・・」
眼を潤ませながらそう懇願する女性から目を背け、遠くの澪を見る。
澪を傷つけたくない一心というのはわかる。 幸佑だって、澪を傷つけたいと思っているわけではない。
だが・・・。
最後まで親の愛情を得られず、家族に看取られることもなく一人逝ってしまった雄也を思うと、どうにもやりきれなかった。
「・・・じゃあ雄也はどうなるんです。 自分に妹がいてることも知らんかった。 家族がちゃんといてることを知らんまま、あいつは逝ってしもたのに・・・!」
「え・・・」
懇願していた女性の動きが、ピタリと止まった。 何か怖いものを見たような表情で、幸佑を凝視する。
「逝ってしもた、って・・・」
首をうな垂れて目尻に涙を滲ませた幸佑が、唇を噛みしめた。 そして重く言葉を発した。
「――雄也は、4年前に亡くなりました」
「・・・・・・!」
最大限に目を見開き、そのまま絶句してしまった女性を、幸佑が虚ろな目で見た。
どんなに恨んでも、憎んでも、女性には雄也の面影が見える。 まぎれもなく彼女は、血の繋がった雄也の母親なんだと思い知る。
今さら何をどう言ったところで、雄也はもういない。
それならせめて、雄也の墓前で手を合わせてほしいと、幸佑は思った。
「・・・雄也のお墓はこの霊園にあります。 せめて、お参りだけでもしてあげてください」
それは先ほどまでの感情的なものではなく、いたって静かな口調だった。 女性の目に浮かぶ悲しみを悟った幸佑は、ほんの少し雄也の無念が報われたような気がした。
雄也を忘れ去っていたわけではなかった。 母親も、雄也のことを少なからず思っていたのだと。
「案内・・・してください」
懐からハンカチを取り出して涙を拭きながら、女性が小さく呟いた。
いつものように雄也の好きだった百合の花を抱え、片手に水桶を持った幸佑が、通い慣れた通路を進んでいく。
あたり一面に居並ぶ墓碑の群れの中を歩いていると、不思議と心が落ち着いてくるのがわかる。
今は亡き人々の霊魂が、無言のままに心を鎮めてくれるのかも知れない。
米原家と書かれた石灯籠の前で、幸佑は足を止めた。 米原家先祖代々と彫られた墓石の隣に、小さな真新しい墓石がある。
墓碑銘は、『妙演雄大居士』。 ここに雄也が眠っている。
墓石に水をかけ、花を供えて線香をつけた後、数珠を手に目を閉じて瞠目する。
こうしてここに佇んでいると、すぐそばに雄也がいるような気がする。 姿も声もなくても、確かに雄也の気配を感じるのだ。
雄也が手紙に残した言葉。【おまえの幸せを祈って、きっとどこかから見守ってる】
ここに来るとそれを実感すると同時に、心が満たされていく。
今もまた、先ほどまでの胸に去来していた不穏な気持ちが、静かに浄化されていった。
ゆっくりと目を開けた幸佑が、ひとつ深呼吸する。 冷たい空気が肺の隅々まで行き渡り、清々しい気持ちになった。
やがて水桶を手に、元来た道を戻り始めた。 何気なくあたりを見渡しながら歩いていると、少し離れたところにいる2人連れの姿が目に入った。
徐々に近づいていくにつれ、2人のうち1人が見覚えのある人物だと気付く。
「あれは・・・」
やがてはっきりとその姿が見えた時、幸佑が小さくその名を口にした。
「澪さん?」
そう声をかけられ、澪がはっとして振り返った。 いつも制服姿しか見たことがなかったせいか、私服姿の彼女は少し違って見える。
「え、米原さん?」
驚いたように目を見開いてそう呟いた澪が、小走りに駆け寄ってきた。
「こんなとこで会うなんて、すごい偶然やね」
「ほんまですね。 お墓参りですか?」
「うん、いま参り終えてきたとこやねん。 澪さんも?」
「私は、おじいちゃんのお墓をここに移しにきたんです」
「え、お墓を移しに?」
「はい。 高槻の方にあったんやけど、遠くて不便なので、ここにあるうちのお墓に入れることになって」
そう言って、背後にある小さな墓石を指さす。 表面には戒名、側面には生前の氏名である俗名が彫られている。
『永田藤三』と書かれた俗名を見た時、幸佑が不思議そうな顔をした。
「あれ、おじいさんは名字が違うの? 澪さんは鈴木やったよね?」
「はい。 お母さんの父親なんです。 お母さんは旧姓が永田っていうんです」
「永田・・・」
ふと、幸佑の脳裏に何かがよぎった。 この名前には聞き覚えがあるような気がする。
「澪、お友達?」
記憶の糸をたどろうとしていた幸佑の耳に、聞き慣れない女性の声が聞こえた。 顔を上げると、すらりと背の高い女性が立っている。
「あ、お母さん。 いつも話してるやろ、こちらが米原幸佑さんやねん」
「え、この方が?」
澪の母親らしき女性がふと幸佑の方を見た。 目と目が合った瞬間、幸佑の胸に小さな波紋が広がった。
それは、初めて澪に会った時にも感じたものだった。 初めて会うのに、いつかどこかで会ったような既視感。
その時、不意に幸佑の頭の中で何かが繋がった。
永田藤三という名前。 それは確か、雄也の祖父と同じ名前だ。
改めて目の前の女性を見る。 澪とよく似た面差し。 そしてなぜか、そこに雄也の顔が重なって見えた。
「――もしかして・・・」
知らず知らずのうちに女性を指さした幸佑が、うわ言のように呟く。
「雄也の・・・」
雄也という名を聞いて、明らかに女性が驚愕の表情を浮かべた。 だが澪の方は、不思議そうに幸佑を見ているだけで特に驚いた様子はない。
「あなたは雄也の・・・」
さらに重ねて言葉を紡ごうとした幸佑の腕を、不意に女性が掴んだ。 そしてそのまま、澪から遠ざけるように引っ張られる。
「あ、あの」
存外に強い力で引っ張られ、よろめきそうになりながら幸佑が問いかける。 澪から充分距離をあけたところまで来ると、ようやく女性が足を止めた。
あたりには誰もいないにもかかわらず、女性が声を潜めて問いかけてきた。
「・・・あなた、雄也とどういう関係?」
「俺は・・・雄也の友人です。 小学校から、ずっと」
「・・・・・・・・・」
狼狽とも悲しみとも取れるような表情で、女性が押し黙った。 普段の幸佑なら相手が口を開くまでじっと待つのだが、今は違った。
心の中に芽生えた激しい感情が、幸佑の口を勝手に開かせる。
「あなたは・・・雄也のお母さんですか? お母さんですよね!?」
「私は・・・」
「さっき澪さんが言うてました、永田藤三さんはあなたのお父さんやと。 永田藤三さんは、雄也のおじいさんですよね!?」
「・・・・・・・・・」
女性の表情が、苦し気に歪んだ。 だが幸佑はかまわず畳みかける。
「なんで雄也を捨てて出て行ったんですか? あいつはずっとあなたに会いたがってた!」
「そんなはず・・・」
「口ではそんなこと言うたことないけど、でも俺にはわかるねん! あなたが置いていったっていう指輪を、あいついつも肌身離さず持ってたんです!」
「――—!」
口元に手をやり、女性が目を見開く。 捨てた子供が自分を思っていたという事実を知らされ、驚きと悔恨が彼女の胸に襲来しているのかも知れない。
だが幸佑は彼女を許せなかった。 幼かった雄也を置いて、他の男のところへ行ってしまった母親。
父親はもともといない。 結婚せずに雄也を産んだという。 今で言うシングルマザーだった。
親の愛情が恋しくて、家族の疑似体験ができる役者になりたいと望んだ。 それほど、彼の心の傷は深く大きかったのだ。
ふと、遠くからこちらを窺っている澪の姿が目に映る。
「――このこと、澪さんは知らないんですか。 異父兄がいること」
口を手で押さえたまま、女性が小さく頷く。 すると素早く幸佑の両腕を掴み、必死の形相で訴えかけた。
「お願い、澪には言わんといて! あの子は何にも知らんねん」
「・・・・・・・・・」
眼を潤ませながらそう懇願する女性から目を背け、遠くの澪を見る。
澪を傷つけたくない一心というのはわかる。 幸佑だって、澪を傷つけたいと思っているわけではない。
だが・・・。
最後まで親の愛情を得られず、家族に看取られることもなく一人逝ってしまった雄也を思うと、どうにもやりきれなかった。
「・・・じゃあ雄也はどうなるんです。 自分に妹がいてることも知らんかった。 家族がちゃんといてることを知らんまま、あいつは逝ってしもたのに・・・!」
「え・・・」
懇願していた女性の動きが、ピタリと止まった。 何か怖いものを見たような表情で、幸佑を凝視する。
「逝ってしもた、って・・・」
首をうな垂れて目尻に涙を滲ませた幸佑が、唇を噛みしめた。 そして重く言葉を発した。
「――雄也は、4年前に亡くなりました」
「・・・・・・!」
最大限に目を見開き、そのまま絶句してしまった女性を、幸佑が虚ろな目で見た。
どんなに恨んでも、憎んでも、女性には雄也の面影が見える。 まぎれもなく彼女は、血の繋がった雄也の母親なんだと思い知る。
今さら何をどう言ったところで、雄也はもういない。
それならせめて、雄也の墓前で手を合わせてほしいと、幸佑は思った。
「・・・雄也のお墓はこの霊園にあります。 せめて、お参りだけでもしてあげてください」
それは先ほどまでの感情的なものではなく、いたって静かな口調だった。 女性の目に浮かぶ悲しみを悟った幸佑は、ほんの少し雄也の無念が報われたような気がした。
雄也を忘れ去っていたわけではなかった。 母親も、雄也のことを少なからず思っていたのだと。
「案内・・・してください」
懐からハンカチを取り出して涙を拭きながら、女性が小さく呟いた。