澪の気持ちを聞いてから、幸佑の心が揺らいでいる。
雄也がいなくなったら、もう役者としてやっていく夢も希望もなくなると思い、実際今日まで引退したことを後悔はしなかった。
突然の引退劇に驚いた人たちから、引退した理由や復帰を促す言葉をたくさんかけられもした。
尊敬して慕っていた馬場からも、そしてマネージャーだった佐々木からも、もう一度考えてみないかと。
だがいずれも幸佑の心に響きはしたが、一度決めた引退の決心を覆すには至らなかった。
しかし。
先日の澪の言葉「いつか一緒の舞台に立ちたい」「雄也も幸佑の役者としての人生を望んでいるような気がする」
これが、幸佑の中で大きな波紋となって胸に広がった。
そして、それまで幸佑の事情には一切干渉しなかった恵子が、初めてその琴線に触れた。
(ほんまは、幸ちゃん演技したいんちゃう? あんた言うてたやん、演技ならどんな人間にもなれるって。 その気持ちは今も変わってないはずやろ)
(あんたまだまだ若いねんから、隠居するには早すぎるで。 もうひと花咲かせてきたらどうやの)
東京で幸佑の身に何があったか、おおよそのことは知っているはずだ。 だからこそ、今まで役者時代に関係することは何も口にしなかった恵子。
その彼女が、あえて言葉にした意味。
何か温かいものが、幸佑の背中を押し始めているような気がした。
RRR・・・
テーブル上に置いていたスマホから、着信を知らせるメロディが流れた。
相手は、佐々木だった。
「――はい」
『幸佑? 佐々木だ。 久しぶりだな、今いいか?』
「はい、大丈夫です」
『前にも少し話したと思うが、【哀歌の街】が5月から正式に上映されることになった』
「えっ」
『まずは東京のみでの上映になるが、いずれは全国での上映になるのはほぼ間違いないと言われてる』
「・・・・・・・・・」
幸佑の沈黙を、佐々木は良い意味には捉えなかった。 無理もない、もう役者には復帰しないとあれだけ断言したのだから。
今さら映画の話を蒸し返されても、困惑するだけと思っているのだろう。
『・・・おまえにしたら、複雑な気持ちになる話だよな。 上映にかかるギャラも、もううちの事務所と契約解除したからおまえにはほとんど入らないし。 正直、おまえにメリットはないのかも知れない』
「・・・・・・・・・」
『いやむしろ、引退して平穏に暮らしてたのに、上映されることでまた余計な注目を浴びることになるかも知れない』
「・・・・・・・・・」
幸佑の気持ちを考えながら慎重に話す佐々木の言葉に、幸佑はじっと耳を傾けている。
『だけど、おまえが一生懸命取り組んだ初主演映画だ。 一時は闇に葬られそうだったこの映画が、紆余曲折を経ていま日の目を見ようとしている。 それが俺にはすごく嬉しいんだ』
「佐々木さん・・・」
佐々木の話を聞いているうちに、幸佑の心に不思議な感覚が湧き起こってきた。
以前は、この映画のことを思い出すと否応なしに桐畑のことも思い出されて、過去のトラウマが蘇りそうな不穏な気持ちになっていた。
だが今は、なぜかそんな気持ちに陥らずにいる。 思い出すのはただ、遠山涼として生きたあの非現実的な日々だった。
『――5月からの上映の前に、試写会がある。 日時はまだ未定だが、その際に主だった出演者の舞台あいさつも予定されてる』
そこで、佐々木が一旦言葉を切った。 そのわずかな間が、佐々木の心に一瞬よぎった戸惑いを表した。
それを、幸佑は敏感に感じ取った。
「・・・俺に、出席してほしいんですね」
自分が言うべき言葉を幸佑の口から聞いて、思わず佐々木が息を呑む。
「主演だったわけだし・・・」
あとに続いた幸佑の呟きに、佐々木が同調する。
『実は、そうなんだ。 知ってのとおり桐畑は今獄中で、当然出席できない。 この上おまえも欠席じゃ、主演が誰もいなくなっちまう。 だから、無理を承知でお願いしたいんだ』
電話越しに、佐々木が頭を下げる気配がした。
『おまえの気持ちは充分理解してる。 でもあえて言う、どうか出席してくれないか。 桐畑もいないし、ただ一度だけでいいんだ』
「・・・・・・・・・」
幸佑の沈黙をどう捉えたかわからないが、しばしの後、最終手段とばかりに佐々木が切り札を口にした。
『――馬場さんも、出席する。 もう一度、ステージ上で彼とともに立てるんだ』
馬場の名前を聞いて、幸佑の心が大きく揺らいだ。 もう二度と彼と同じ舞台に立つことはないと思っていた。
それが、ふたたび叶う。
ゆっくりと目を閉じた幸佑の心に、もう迷いはなかった。
「・・・わかりました。 出席します」
静かに、だがはっきりとしたその口調が、佐々木の耳にしっかりと届いた。 下げていた頭を上げ、にわかに笑顔になる。
『本当か!? ありがとう、本当にありがとう!』
佐々木の溢れんばかりの笑顔が目に見えるような歓声だった。 つられて、自然に幸佑も笑顔になる。
「・・・実をいうと、桐畑さんのトラウマも少しずつなくなってきてるんです。 4年という月日が、俺を癒してくれました」
穏やかにそう語る幸佑に、何度も佐々木が頷きながら答える。
『やっぱり時間が一番の回復薬だな。 とにかくよかったよ、おまえの苦しみが少なくなって。 そうだ、馬場さんにも伝えるよ、おまえも出席することを。 きっとあの人も喜ぶぞ!』
嬉しそうに話し続ける佐々木の言葉を聞きながら、幸佑の脳裏にいつかの馬場の姿が蘇った。
幸佑が引退すると知って、寂しくなるなと言葉をくれた。 もう一度、同じ舞台で一緒に演じたいとも言ってくれた。
滅多に感情を出さない馬場が、初めて明かしてくれた幸佑への気持ち。
あの時の彼の気持ちに報いると言えば大げさだが、それでもこんな自分に対して最高の言葉をくれた馬場に、少しでも恩返しができたらと思う。
『――それじゃ、また日時が決まったら連絡するよ。 じゃあな』
「わかりました。 それじゃ」
通話が終わったスマホをしばし見つめ、ほっとしたようなため息を吐く。
少し前までの自分には考えられないことが起きている。 まさかこんな心境の変化が起きるとは。
もう二度と、表舞台に出るつもりはなかった。 大阪から出ることもないと思っていた。
「・・・ふっ・・・」
なぜか、笑みが漏れた。
いつか読んだ本の言葉がふと蘇る。
【事実は小説より奇なり。 この世に、人心に、絶対という言葉はないのだ】
この言葉を今こそ噛みしめ、幸佑はゆっくりとスマホを置いた。
雄也がいなくなったら、もう役者としてやっていく夢も希望もなくなると思い、実際今日まで引退したことを後悔はしなかった。
突然の引退劇に驚いた人たちから、引退した理由や復帰を促す言葉をたくさんかけられもした。
尊敬して慕っていた馬場からも、そしてマネージャーだった佐々木からも、もう一度考えてみないかと。
だがいずれも幸佑の心に響きはしたが、一度決めた引退の決心を覆すには至らなかった。
しかし。
先日の澪の言葉「いつか一緒の舞台に立ちたい」「雄也も幸佑の役者としての人生を望んでいるような気がする」
これが、幸佑の中で大きな波紋となって胸に広がった。
そして、それまで幸佑の事情には一切干渉しなかった恵子が、初めてその琴線に触れた。
(ほんまは、幸ちゃん演技したいんちゃう? あんた言うてたやん、演技ならどんな人間にもなれるって。 その気持ちは今も変わってないはずやろ)
(あんたまだまだ若いねんから、隠居するには早すぎるで。 もうひと花咲かせてきたらどうやの)
東京で幸佑の身に何があったか、おおよそのことは知っているはずだ。 だからこそ、今まで役者時代に関係することは何も口にしなかった恵子。
その彼女が、あえて言葉にした意味。
何か温かいものが、幸佑の背中を押し始めているような気がした。
RRR・・・
テーブル上に置いていたスマホから、着信を知らせるメロディが流れた。
相手は、佐々木だった。
「――はい」
『幸佑? 佐々木だ。 久しぶりだな、今いいか?』
「はい、大丈夫です」
『前にも少し話したと思うが、【哀歌の街】が5月から正式に上映されることになった』
「えっ」
『まずは東京のみでの上映になるが、いずれは全国での上映になるのはほぼ間違いないと言われてる』
「・・・・・・・・・」
幸佑の沈黙を、佐々木は良い意味には捉えなかった。 無理もない、もう役者には復帰しないとあれだけ断言したのだから。
今さら映画の話を蒸し返されても、困惑するだけと思っているのだろう。
『・・・おまえにしたら、複雑な気持ちになる話だよな。 上映にかかるギャラも、もううちの事務所と契約解除したからおまえにはほとんど入らないし。 正直、おまえにメリットはないのかも知れない』
「・・・・・・・・・」
『いやむしろ、引退して平穏に暮らしてたのに、上映されることでまた余計な注目を浴びることになるかも知れない』
「・・・・・・・・・」
幸佑の気持ちを考えながら慎重に話す佐々木の言葉に、幸佑はじっと耳を傾けている。
『だけど、おまえが一生懸命取り組んだ初主演映画だ。 一時は闇に葬られそうだったこの映画が、紆余曲折を経ていま日の目を見ようとしている。 それが俺にはすごく嬉しいんだ』
「佐々木さん・・・」
佐々木の話を聞いているうちに、幸佑の心に不思議な感覚が湧き起こってきた。
以前は、この映画のことを思い出すと否応なしに桐畑のことも思い出されて、過去のトラウマが蘇りそうな不穏な気持ちになっていた。
だが今は、なぜかそんな気持ちに陥らずにいる。 思い出すのはただ、遠山涼として生きたあの非現実的な日々だった。
『――5月からの上映の前に、試写会がある。 日時はまだ未定だが、その際に主だった出演者の舞台あいさつも予定されてる』
そこで、佐々木が一旦言葉を切った。 そのわずかな間が、佐々木の心に一瞬よぎった戸惑いを表した。
それを、幸佑は敏感に感じ取った。
「・・・俺に、出席してほしいんですね」
自分が言うべき言葉を幸佑の口から聞いて、思わず佐々木が息を呑む。
「主演だったわけだし・・・」
あとに続いた幸佑の呟きに、佐々木が同調する。
『実は、そうなんだ。 知ってのとおり桐畑は今獄中で、当然出席できない。 この上おまえも欠席じゃ、主演が誰もいなくなっちまう。 だから、無理を承知でお願いしたいんだ』
電話越しに、佐々木が頭を下げる気配がした。
『おまえの気持ちは充分理解してる。 でもあえて言う、どうか出席してくれないか。 桐畑もいないし、ただ一度だけでいいんだ』
「・・・・・・・・・」
幸佑の沈黙をどう捉えたかわからないが、しばしの後、最終手段とばかりに佐々木が切り札を口にした。
『――馬場さんも、出席する。 もう一度、ステージ上で彼とともに立てるんだ』
馬場の名前を聞いて、幸佑の心が大きく揺らいだ。 もう二度と彼と同じ舞台に立つことはないと思っていた。
それが、ふたたび叶う。
ゆっくりと目を閉じた幸佑の心に、もう迷いはなかった。
「・・・わかりました。 出席します」
静かに、だがはっきりとしたその口調が、佐々木の耳にしっかりと届いた。 下げていた頭を上げ、にわかに笑顔になる。
『本当か!? ありがとう、本当にありがとう!』
佐々木の溢れんばかりの笑顔が目に見えるような歓声だった。 つられて、自然に幸佑も笑顔になる。
「・・・実をいうと、桐畑さんのトラウマも少しずつなくなってきてるんです。 4年という月日が、俺を癒してくれました」
穏やかにそう語る幸佑に、何度も佐々木が頷きながら答える。
『やっぱり時間が一番の回復薬だな。 とにかくよかったよ、おまえの苦しみが少なくなって。 そうだ、馬場さんにも伝えるよ、おまえも出席することを。 きっとあの人も喜ぶぞ!』
嬉しそうに話し続ける佐々木の言葉を聞きながら、幸佑の脳裏にいつかの馬場の姿が蘇った。
幸佑が引退すると知って、寂しくなるなと言葉をくれた。 もう一度、同じ舞台で一緒に演じたいとも言ってくれた。
滅多に感情を出さない馬場が、初めて明かしてくれた幸佑への気持ち。
あの時の彼の気持ちに報いると言えば大げさだが、それでもこんな自分に対して最高の言葉をくれた馬場に、少しでも恩返しができたらと思う。
『――それじゃ、また日時が決まったら連絡するよ。 じゃあな』
「わかりました。 それじゃ」
通話が終わったスマホをしばし見つめ、ほっとしたようなため息を吐く。
少し前までの自分には考えられないことが起きている。 まさかこんな心境の変化が起きるとは。
もう二度と、表舞台に出るつもりはなかった。 大阪から出ることもないと思っていた。
「・・・ふっ・・・」
なぜか、笑みが漏れた。
いつか読んだ本の言葉がふと蘇る。
【事実は小説より奇なり。 この世に、人心に、絶対という言葉はないのだ】
この言葉を今こそ噛みしめ、幸佑はゆっくりとスマホを置いた。