その日の夕刻。
終業時刻も過ぎ、アースとソムオーが帰宅してからも、アーティットたちは帰る気配もなく仕事に没頭していた。
窓から差し込む西陽も弱まり、あたりが少しずつ宵闇へと覆われ始めた午後7時。 ふと顔を上げたトードが、腕時計を見て口を開いた。
「お、もうこんな時間か」
その声に、アーティットとサットも顔を上げる。 するとトードが、何かを思いついたような顔をした。
「そうだ、今日はアーティットの復帰初日だし、今からメシ食いに行こうぜ。 俺が奢ってやるからさ」
「え、いいよそんな」
「遠慮すんなよ。 快気祝いだと思えばいいから」
「でも別に病気だったわけじゃ・・・」
なかなかうんと言わないアーティットに、業を煮やしたトードがああもう!と叫んだ。
「せっかく俺が奢ってやるって言ってんだから、素直に好意を受け取れよな!」
そう言うと、やにわに立ち上がったトードがアーティットのデスクへとやってきて、強引にノートパソコンを閉じてしまった。
「何すんだよ」
「初日からブッ飛ばすと、後がもたないぜ。 ほらサットも、さっさと片付けろよ」
「え、でも俺は・・・」
「断るなよ。 おまえも強制参加だからな」
ニッと笑ったトードにつられ、思わず苦笑いを浮かべたサットが、諦めたように頷いた。
「さ、おまえも早く支度しろよ」
そう言って自分のデスクへ戻るトードの背中を見つめ、アーティットも小さくため息を零しながらも、おもむろにデスクを片付けだした。
「店はいつものアジアンでいいよな? あそこなら今から行っても席空いてるだろうし」
「ああ、任せるよ」
デスクの上を綺麗にしたアーティットが、そう答えながらポケットから携帯を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
「・・・あ、アーティットです。 今夜はトードが夕飯をご馳走してくれるので、食事はいりません。 帰りは少し遅くなります」
丁寧な口調で話すアーティットを、トードとサットが不思議そうに眺める。 やがて電話を切ったアーティットが、二人のそんな様子に気付いた。
「・・・なんだ? 変な顔してどうかしたか」
「おまえ、今どこに電話してたんだ?」
「え、コングポップの家だけど・・・」
そこまで言って、ふと気づく。 そういえば、トードたちはアーティットがコングの家にいることを知らないのだった。
しまったと思った時にはすでに遅く、トードの顔が興味津々な表情に変わっていた。
「おいおい、それはどういうことだ? もうコングの家で同居してるってことか?」
「いや、そうじゃない。 コングポップが仕事に復帰するまでの間、いさせてもらってるだけだ」
「でももう両親も公認なんだし、このまま一緒に住んじゃえばいいのに」
「そんなことできるわけないよ。 あいつが仕事に復帰したら、またチェンマイへ戻るんだ。 俺一人が自宅に残るなんておかしいだろ」
「まあそれもそうだけどさ。 でもさっきの口調、まるで旦那の実家へ電話してる嫁みたいだったぜ」
「おまえな!」
楽しそうにからかうトードへ拳を振り上げたアーティットの目に、ふとサットの姿が映る。 かすかに笑っているようだが、どこか寂しそうにも見えた。
昼間彼から聞いたことを思い出して、アーティットの表情も沈む。
結婚に大きく立ちはだかる障害を抱える今の彼にとって、こんな幸せそうなアーティットの様子を見るのは、やはり複雑な気分なのだろう。
振り上げていた拳を静かに下ろし、かわりにその手をサットの肩にそっと置く。 反射的に見上げたサットを、アーティットが優しく見つめた。
「おいおい、おまえら何見つめ合ってんだ? 用意できたんなら、早く行こうぜ」
事情を知らないトードが、からかうような口調で無邪気に二人を急かす。 そんな彼とアーティットを見比べたサットが、ふっと笑みをこぼした。
「・・・ええ、行きましょうか」
自分の肩に置かれたアーティットの手を一瞬だけ握ったサットが、ゆっくりと立ち上がった。 アーティットには、それがサットの気持ちを暗示しているように思えた。
自分を気遣ってくれてありがとう、という彼の心の言葉が聞こえたような気がして、アーティットは再びサットを見た。
だがそこには先ほど垣間見えた寂しげな表情はもう消え、穏やかな微笑みを浮かべた彼がいるだけだ。
苦しい悩みを抱えていながら、それでもこうして平静を装う彼の心中を思い、アーティットの胸がかすかに痛んだ。
行きつけのアジアンレストランで料理と酒を堪能した三人が店を出たのは、23時を過ぎた頃だった。
まだ週の始まりであり、復帰初日ということもあって、酒は飲まないつもりだった。 しかし口達者なトードにうまく丸め込まれ、結局飲まされてしまった。
そして当のトードは、もう完全に泥酔状態だ。 足取りはかなり怪しく、何を言ってもヘラヘラと笑っている様は、もはや異様でもある。
「トード先輩、もう歩いて帰るのは無理ですよ。 タクシー呼びますから、ちょっとそこに座っててください」
酒の飲めないサットは、一人で酔っ払い二人の面倒を見る羽目になっている。 だがそれもいつものことで、もうすっかり慣れてしまった。
舗道の縁石にどうにかトードを座らせたサットが、車道へと向かいタクシーを呼び込む。
座り込んだトードの隣に、アーティットも腰を下ろした。 足に力が入らず、立っていることがままならない。
酒量は、大したことはなかった。 だが久々に飲んだからか、予想以上にアルコールの回りが早かった。
しかし言うことをきかないのは体だけで、頭は完全にシラフだった。 いっそ記憶を失うほど酔ってしまう方がまだ良かったかも知れない。
これから迷惑をかけてしまうだろうサットに、申し訳ない気持ちになる。
「タクシー捕まりましたよ。 さ、立てますか? 俺に掴まって・・・」
そう言ってトードの腕を掴み、自分の肩へとまわす。 手伝うために立ち上がろうとしたアーティットを、サットが制止した。
「先輩はそのまま座っててください。 足元危ないですから」
そう注意して、トードを抱えたサットが車道へと向かう。 停車しているタクシーの後部座席にトードを押し込み、運転手に行き先を告げたサットが、素早くドアを閉める。
タクシーが走り去るのを見届けたサットが、アーティットのもとへと戻ってきた。
「先輩は俺が送っていきますので」
「え? でもおまえ、別方向だろ」
「こんな状態の先輩を一人で帰すわけにはいきませんよ」
そう言うが早いか、再びサットが車道へと向かった。 もう一度タクシーを捕まえるためらしい。
これ以上サットに迷惑をかけるわけにはいかないと思ったアーティットが、慌てて彼の後を追おうとした。 が、依然として体が言うことを聞かない。
これ以上無理に動こうとすると無様に転んでしまう気がして、アーティットはやむなく動くのを諦めた。
軽く自己嫌悪に陥るアーティットの目に、タクシーを呼び止めたサットの姿がぼんやり見えた。
終業時刻も過ぎ、アースとソムオーが帰宅してからも、アーティットたちは帰る気配もなく仕事に没頭していた。
窓から差し込む西陽も弱まり、あたりが少しずつ宵闇へと覆われ始めた午後7時。 ふと顔を上げたトードが、腕時計を見て口を開いた。
「お、もうこんな時間か」
その声に、アーティットとサットも顔を上げる。 するとトードが、何かを思いついたような顔をした。
「そうだ、今日はアーティットの復帰初日だし、今からメシ食いに行こうぜ。 俺が奢ってやるからさ」
「え、いいよそんな」
「遠慮すんなよ。 快気祝いだと思えばいいから」
「でも別に病気だったわけじゃ・・・」
なかなかうんと言わないアーティットに、業を煮やしたトードがああもう!と叫んだ。
「せっかく俺が奢ってやるって言ってんだから、素直に好意を受け取れよな!」
そう言うと、やにわに立ち上がったトードがアーティットのデスクへとやってきて、強引にノートパソコンを閉じてしまった。
「何すんだよ」
「初日からブッ飛ばすと、後がもたないぜ。 ほらサットも、さっさと片付けろよ」
「え、でも俺は・・・」
「断るなよ。 おまえも強制参加だからな」
ニッと笑ったトードにつられ、思わず苦笑いを浮かべたサットが、諦めたように頷いた。
「さ、おまえも早く支度しろよ」
そう言って自分のデスクへ戻るトードの背中を見つめ、アーティットも小さくため息を零しながらも、おもむろにデスクを片付けだした。
「店はいつものアジアンでいいよな? あそこなら今から行っても席空いてるだろうし」
「ああ、任せるよ」
デスクの上を綺麗にしたアーティットが、そう答えながらポケットから携帯を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
「・・・あ、アーティットです。 今夜はトードが夕飯をご馳走してくれるので、食事はいりません。 帰りは少し遅くなります」
丁寧な口調で話すアーティットを、トードとサットが不思議そうに眺める。 やがて電話を切ったアーティットが、二人のそんな様子に気付いた。
「・・・なんだ? 変な顔してどうかしたか」
「おまえ、今どこに電話してたんだ?」
「え、コングポップの家だけど・・・」
そこまで言って、ふと気づく。 そういえば、トードたちはアーティットがコングの家にいることを知らないのだった。
しまったと思った時にはすでに遅く、トードの顔が興味津々な表情に変わっていた。
「おいおい、それはどういうことだ? もうコングの家で同居してるってことか?」
「いや、そうじゃない。 コングポップが仕事に復帰するまでの間、いさせてもらってるだけだ」
「でももう両親も公認なんだし、このまま一緒に住んじゃえばいいのに」
「そんなことできるわけないよ。 あいつが仕事に復帰したら、またチェンマイへ戻るんだ。 俺一人が自宅に残るなんておかしいだろ」
「まあそれもそうだけどさ。 でもさっきの口調、まるで旦那の実家へ電話してる嫁みたいだったぜ」
「おまえな!」
楽しそうにからかうトードへ拳を振り上げたアーティットの目に、ふとサットの姿が映る。 かすかに笑っているようだが、どこか寂しそうにも見えた。
昼間彼から聞いたことを思い出して、アーティットの表情も沈む。
結婚に大きく立ちはだかる障害を抱える今の彼にとって、こんな幸せそうなアーティットの様子を見るのは、やはり複雑な気分なのだろう。
振り上げていた拳を静かに下ろし、かわりにその手をサットの肩にそっと置く。 反射的に見上げたサットを、アーティットが優しく見つめた。
「おいおい、おまえら何見つめ合ってんだ? 用意できたんなら、早く行こうぜ」
事情を知らないトードが、からかうような口調で無邪気に二人を急かす。 そんな彼とアーティットを見比べたサットが、ふっと笑みをこぼした。
「・・・ええ、行きましょうか」
自分の肩に置かれたアーティットの手を一瞬だけ握ったサットが、ゆっくりと立ち上がった。 アーティットには、それがサットの気持ちを暗示しているように思えた。
自分を気遣ってくれてありがとう、という彼の心の言葉が聞こえたような気がして、アーティットは再びサットを見た。
だがそこには先ほど垣間見えた寂しげな表情はもう消え、穏やかな微笑みを浮かべた彼がいるだけだ。
苦しい悩みを抱えていながら、それでもこうして平静を装う彼の心中を思い、アーティットの胸がかすかに痛んだ。
行きつけのアジアンレストランで料理と酒を堪能した三人が店を出たのは、23時を過ぎた頃だった。
まだ週の始まりであり、復帰初日ということもあって、酒は飲まないつもりだった。 しかし口達者なトードにうまく丸め込まれ、結局飲まされてしまった。
そして当のトードは、もう完全に泥酔状態だ。 足取りはかなり怪しく、何を言ってもヘラヘラと笑っている様は、もはや異様でもある。
「トード先輩、もう歩いて帰るのは無理ですよ。 タクシー呼びますから、ちょっとそこに座っててください」
酒の飲めないサットは、一人で酔っ払い二人の面倒を見る羽目になっている。 だがそれもいつものことで、もうすっかり慣れてしまった。
舗道の縁石にどうにかトードを座らせたサットが、車道へと向かいタクシーを呼び込む。
座り込んだトードの隣に、アーティットも腰を下ろした。 足に力が入らず、立っていることがままならない。
酒量は、大したことはなかった。 だが久々に飲んだからか、予想以上にアルコールの回りが早かった。
しかし言うことをきかないのは体だけで、頭は完全にシラフだった。 いっそ記憶を失うほど酔ってしまう方がまだ良かったかも知れない。
これから迷惑をかけてしまうだろうサットに、申し訳ない気持ちになる。
「タクシー捕まりましたよ。 さ、立てますか? 俺に掴まって・・・」
そう言ってトードの腕を掴み、自分の肩へとまわす。 手伝うために立ち上がろうとしたアーティットを、サットが制止した。
「先輩はそのまま座っててください。 足元危ないですから」
そう注意して、トードを抱えたサットが車道へと向かう。 停車しているタクシーの後部座席にトードを押し込み、運転手に行き先を告げたサットが、素早くドアを閉める。
タクシーが走り去るのを見届けたサットが、アーティットのもとへと戻ってきた。
「先輩は俺が送っていきますので」
「え? でもおまえ、別方向だろ」
「こんな状態の先輩を一人で帰すわけにはいきませんよ」
そう言うが早いか、再びサットが車道へと向かった。 もう一度タクシーを捕まえるためらしい。
これ以上サットに迷惑をかけるわけにはいかないと思ったアーティットが、慌てて彼の後を追おうとした。 が、依然として体が言うことを聞かない。
これ以上無理に動こうとすると無様に転んでしまう気がして、アーティットはやむなく動くのを諦めた。
軽く自己嫌悪に陥るアーティットの目に、タクシーを呼び止めたサットの姿がぼんやり見えた。