サット宅から自宅へ戻ってきたのは、夜中の1時をまわった頃だった。
静かに玄関のドアを開けたグレーグライは、もう眠っているであろう家族を起こしてしまわないよう、そっとドアを閉めた。
暗い廊下を進み、リビングへと向かう。 するとリビングのドアの隙間から、うっすらと明かりが漏れていることに気づいた。
不思議に思いながらドアを開けると、ナイトウェア姿のプイメークが佇んでいた。
「おかえりなさい。 ずいぶん遅かったですね」
「ああ、ちょっとな。 それより、こんな時間にリビングにいるなんて珍しいな。 もう眠ってると思ってたよ」
「ちょっと、眠れなくて。 お酒でもいただこうかと」
そう言って、手に持ったワイングラスを掲げて見せる。 彼女が酒を口にするのも、かなり珍しいことだった。
「珍しいな、きみが酒を飲むなんて。 せっかくだから、わたしも一緒に飲もう」
「じゃあ用意しますね。 いつものワインでいいですか」
「ああ、たのむよ」
着ていた上着を脱いでソファにかけたグレーグライが、そのままソファへと腰を下ろす。 ワインをグラスに注ぐ涼やかな音を耳にしながら、そっと目を閉じる。
瞼に、マリアンの顔が浮かんでは消えた。
あの頃のような激しい情熱はないが、それでも懐かしいひとに再会できた感慨が、グレーグライの胸を甘く浸した。
「・・・どうぞ」
プイメークの呼びかけに、はっとして目を開ける。 いつの間にかそばにやってきた彼女に対し不意に後ろめたい気持ちになり、とっさに目をそらしてしまった。
短く礼を言って、すばやくグラスを受け取る。 そして一気に飲み干した。
そんな彼の様子を見つめながら、静かにプイメークが隣に腰を下ろした。 彼女の視線がやけに気になるのは、胸にマリアンの面影を抱いているからだろうか。
「・・・・・・・・・」
空になったグラスに目を落として、しばし逡巡する。 何も言わず隣に座るプイメークが、なぜか自分の言葉を待っているような気がした。
ゆっくりと、視線を彼女へ向ける。 彼女の瞳が、かすかに揺れた。
「・・・きみに、大事な話がある」
そう告げた瞬間、膝の上に置かれた彼女の両手が、ぎゅっと握りしめられた。 だがグレーグライは、そんな彼女の小さな変化に気づかなかった。
ひと呼吸置いたあと、おもむろにグレーグライが語り始めた。
「きみと結婚する前、わたしには付き合っていたひとがいた」
「・・・・・・・・・」
「その彼女に、子供がいることを知った。 つい最近のことだ」
「・・・・・・・・・」
何も言わず、ただじっとグレーグライの言葉に耳を傾けていたプイメークが、不意にすっと手を上げた。 それはまるで、もうそれ以上言わなくていいと告げるように。
「・・・それは、サットさんですよね」
その言葉に、グレーグライが目を見開く。 そんな彼の様子を見守りながら、さらにプイメークが続けた。
「そしてサットさんの父親は、あなた・・・」
驚きのあまり、ストップモーションにかかったように動きが止まる。 全身を雷に打たれたような、激しい衝撃が身を襲う。
「・・・どうして、それを・・・」
それだけ言うのが精いっぱいだった。 震える指先で自分を指さすグレーグライへ、かすかに寂しそうな笑みを浮かべたプイメークが告げた。
「サットさんのブレスレット・・・。 ごめんなさい、私聞いてしまったんです」
「聞いたって・・・」
「いつか、あなたとサットさんが交わしてた会話。 サットさんが、お母さんからいただいたという手作りの大切なブレスレット。 それと同じものを、あなたも持ってた・・・」
「・・・・・・・・・」
「時折引き出しから取り出しては、愛しそうに見つめてましたね」
「・・・・・・・・・」
言葉を忘れた痴れ者のように、ただ口を開いて呆然とプイメークを見つめる。 あまりの衝撃を受けると、人はすべての動きが止まってしまうらしい。
「・・・いつか、あなたから話してくれるのを待ってました。 あなたの口から、はっきり聞きたかったんです」
「プイメーク・・・」
予想もしなかった事態に、しばらくグレーグライは言葉が見つからなかった。 まさかプイメークが、あの時の自分とサットとの会話を聞いていたとは。
あれから今まで、きっとプイメークは心中穏やかではなかったことだろう。 それでも表面上は何もなかったように、ごく普通に振舞っていた。
それはきっと、コングへの配慮に他ならない。 このことをコングが知れば、多かれ少なかれショックを受けるのは間違いないだろう。
子どもを傷つけたくないという親心で、これまでずっと一人耐えてきたに違いない。
「・・・すまなかった」
絞り出すように低く告げたグレーグライが、プイメークの肩に手を置いた。 見上げる彼女の目が、グレーグライの胸に深く染み入る。
どこか痛みにも似たその感覚を感じながら、やがてグレーグライが静かに過去を語り出した。
「彼女・・・マリアンと言うんだが、わたしが学生時代に付き合っていた相手だ。 2年あまり付き合ってただろうか・・・。 でもきみとの見合い話が浮上して、マリアンとは別れたんだ」
「・・・・・・・・・」
「それきり彼女とは会ったことはなかった。 むろん、彼女に子どもがいたことも全く知らなかった。 だがサット君の手首に見覚えのあるブレスレットを見つけて、そこから予想もしなかった事実を知って・・・」
プイメークの肩に置かれたグレーグライの手に、力がこもる。 心の中で何かと葛藤しているような苦し気な表情を浮かべる彼を、プイメークはただじっと見つめている。
「・・・だが、これだけは言える。 きみを裏切るようなことは何もしていない。 過去はどうであれ、今はきみだけを愛してる。 この気持ちに嘘偽りはない」
真正面から自分の目を見つめて強く訴えかけるグレーグライを、プイメークが真摯な目で見つめ返す。
「マリアンも、一生わたしに告げるつもりはなかったと言っていた。 わたしと別れた後、子どもを身籠っていることに気づいたが、一人で産んで育てる決意をしたと」
「・・・・・・・・・」
「だがわたしにしてみれば、自分の血を引いた子どもがいると知って、今さらではあるが何かできないかと模索したんだ。 これまで二十数年、たった一人で子どもを育ててきた彼女への、せめてもの代償をと」
「・・・それで、マリアンさんは何と・・・」
ふっと笑ったグレーグライが、静かに首を左右に振った。
「何もいらないと。 今になってわたしの手を借りるくらいなら、はじめからこの道を選んだりしないと言われたよ」
やや自嘲ぎみにそう呟くグレーグライに、かすかに微笑みを浮かべたプイメークが答えた。
「・・・素敵な方ですね。 強くて、芯がある方。 サットさんを見れば、マリアンさんが立派な方だということがよくわかります」
「プイメーク・・・」
「そして何より、あなたが愛したひとですから」
そう言ってニッコリと笑ったプイメークを、驚いた表情でグレーグライが見つめる。
「きみ・・・きみは、怒らないのか? こんなことを聞かされて、何とも思わないのか?」
戸惑いと混乱で焦るグレーグライに、首を左右に振ったプイメークが告げる。
「だってあなたは何も悪いことしてないじゃないですか。 それに、こうして私にきちんと説明してくれました。 それだけでもう充分です」
「プイメーク・・・きみは、なんて・・・」
「それにもしマリアンさんがあなたの申し出を受け入れたとしても、私はあなたを咎めたりはしません。 親としての責任を果たしたいというあなたの気持ちもわかりますから」
「・・・・・・・・・」
もう、グレーグライは言葉が出なかった。 プイメークという稀有な女性を伴侶とできたことに、いま心から感謝したくなった。
彼女の肩に置いていた手を、そのままぐっと引き寄せる。 小柄で華奢な体が、すっぽりとグレーグライの腕に収まった。
「・・・ありがとう」
彼女をしっかりと抱きしめ、耳元に小さく呟く。 そっと目を閉じたプイメークが、返事の代わりに背中へと優しく手を添えた。
静かに玄関のドアを開けたグレーグライは、もう眠っているであろう家族を起こしてしまわないよう、そっとドアを閉めた。
暗い廊下を進み、リビングへと向かう。 するとリビングのドアの隙間から、うっすらと明かりが漏れていることに気づいた。
不思議に思いながらドアを開けると、ナイトウェア姿のプイメークが佇んでいた。
「おかえりなさい。 ずいぶん遅かったですね」
「ああ、ちょっとな。 それより、こんな時間にリビングにいるなんて珍しいな。 もう眠ってると思ってたよ」
「ちょっと、眠れなくて。 お酒でもいただこうかと」
そう言って、手に持ったワイングラスを掲げて見せる。 彼女が酒を口にするのも、かなり珍しいことだった。
「珍しいな、きみが酒を飲むなんて。 せっかくだから、わたしも一緒に飲もう」
「じゃあ用意しますね。 いつものワインでいいですか」
「ああ、たのむよ」
着ていた上着を脱いでソファにかけたグレーグライが、そのままソファへと腰を下ろす。 ワインをグラスに注ぐ涼やかな音を耳にしながら、そっと目を閉じる。
瞼に、マリアンの顔が浮かんでは消えた。
あの頃のような激しい情熱はないが、それでも懐かしいひとに再会できた感慨が、グレーグライの胸を甘く浸した。
「・・・どうぞ」
プイメークの呼びかけに、はっとして目を開ける。 いつの間にかそばにやってきた彼女に対し不意に後ろめたい気持ちになり、とっさに目をそらしてしまった。
短く礼を言って、すばやくグラスを受け取る。 そして一気に飲み干した。
そんな彼の様子を見つめながら、静かにプイメークが隣に腰を下ろした。 彼女の視線がやけに気になるのは、胸にマリアンの面影を抱いているからだろうか。
「・・・・・・・・・」
空になったグラスに目を落として、しばし逡巡する。 何も言わず隣に座るプイメークが、なぜか自分の言葉を待っているような気がした。
ゆっくりと、視線を彼女へ向ける。 彼女の瞳が、かすかに揺れた。
「・・・きみに、大事な話がある」
そう告げた瞬間、膝の上に置かれた彼女の両手が、ぎゅっと握りしめられた。 だがグレーグライは、そんな彼女の小さな変化に気づかなかった。
ひと呼吸置いたあと、おもむろにグレーグライが語り始めた。
「きみと結婚する前、わたしには付き合っていたひとがいた」
「・・・・・・・・・」
「その彼女に、子供がいることを知った。 つい最近のことだ」
「・・・・・・・・・」
何も言わず、ただじっとグレーグライの言葉に耳を傾けていたプイメークが、不意にすっと手を上げた。 それはまるで、もうそれ以上言わなくていいと告げるように。
「・・・それは、サットさんですよね」
その言葉に、グレーグライが目を見開く。 そんな彼の様子を見守りながら、さらにプイメークが続けた。
「そしてサットさんの父親は、あなた・・・」
驚きのあまり、ストップモーションにかかったように動きが止まる。 全身を雷に打たれたような、激しい衝撃が身を襲う。
「・・・どうして、それを・・・」
それだけ言うのが精いっぱいだった。 震える指先で自分を指さすグレーグライへ、かすかに寂しそうな笑みを浮かべたプイメークが告げた。
「サットさんのブレスレット・・・。 ごめんなさい、私聞いてしまったんです」
「聞いたって・・・」
「いつか、あなたとサットさんが交わしてた会話。 サットさんが、お母さんからいただいたという手作りの大切なブレスレット。 それと同じものを、あなたも持ってた・・・」
「・・・・・・・・・」
「時折引き出しから取り出しては、愛しそうに見つめてましたね」
「・・・・・・・・・」
言葉を忘れた痴れ者のように、ただ口を開いて呆然とプイメークを見つめる。 あまりの衝撃を受けると、人はすべての動きが止まってしまうらしい。
「・・・いつか、あなたから話してくれるのを待ってました。 あなたの口から、はっきり聞きたかったんです」
「プイメーク・・・」
予想もしなかった事態に、しばらくグレーグライは言葉が見つからなかった。 まさかプイメークが、あの時の自分とサットとの会話を聞いていたとは。
あれから今まで、きっとプイメークは心中穏やかではなかったことだろう。 それでも表面上は何もなかったように、ごく普通に振舞っていた。
それはきっと、コングへの配慮に他ならない。 このことをコングが知れば、多かれ少なかれショックを受けるのは間違いないだろう。
子どもを傷つけたくないという親心で、これまでずっと一人耐えてきたに違いない。
「・・・すまなかった」
絞り出すように低く告げたグレーグライが、プイメークの肩に手を置いた。 見上げる彼女の目が、グレーグライの胸に深く染み入る。
どこか痛みにも似たその感覚を感じながら、やがてグレーグライが静かに過去を語り出した。
「彼女・・・マリアンと言うんだが、わたしが学生時代に付き合っていた相手だ。 2年あまり付き合ってただろうか・・・。 でもきみとの見合い話が浮上して、マリアンとは別れたんだ」
「・・・・・・・・・」
「それきり彼女とは会ったことはなかった。 むろん、彼女に子どもがいたことも全く知らなかった。 だがサット君の手首に見覚えのあるブレスレットを見つけて、そこから予想もしなかった事実を知って・・・」
プイメークの肩に置かれたグレーグライの手に、力がこもる。 心の中で何かと葛藤しているような苦し気な表情を浮かべる彼を、プイメークはただじっと見つめている。
「・・・だが、これだけは言える。 きみを裏切るようなことは何もしていない。 過去はどうであれ、今はきみだけを愛してる。 この気持ちに嘘偽りはない」
真正面から自分の目を見つめて強く訴えかけるグレーグライを、プイメークが真摯な目で見つめ返す。
「マリアンも、一生わたしに告げるつもりはなかったと言っていた。 わたしと別れた後、子どもを身籠っていることに気づいたが、一人で産んで育てる決意をしたと」
「・・・・・・・・・」
「だがわたしにしてみれば、自分の血を引いた子どもがいると知って、今さらではあるが何かできないかと模索したんだ。 これまで二十数年、たった一人で子どもを育ててきた彼女への、せめてもの代償をと」
「・・・それで、マリアンさんは何と・・・」
ふっと笑ったグレーグライが、静かに首を左右に振った。
「何もいらないと。 今になってわたしの手を借りるくらいなら、はじめからこの道を選んだりしないと言われたよ」
やや自嘲ぎみにそう呟くグレーグライに、かすかに微笑みを浮かべたプイメークが答えた。
「・・・素敵な方ですね。 強くて、芯がある方。 サットさんを見れば、マリアンさんが立派な方だということがよくわかります」
「プイメーク・・・」
「そして何より、あなたが愛したひとですから」
そう言ってニッコリと笑ったプイメークを、驚いた表情でグレーグライが見つめる。
「きみ・・・きみは、怒らないのか? こんなことを聞かされて、何とも思わないのか?」
戸惑いと混乱で焦るグレーグライに、首を左右に振ったプイメークが告げる。
「だってあなたは何も悪いことしてないじゃないですか。 それに、こうして私にきちんと説明してくれました。 それだけでもう充分です」
「プイメーク・・・きみは、なんて・・・」
「それにもしマリアンさんがあなたの申し出を受け入れたとしても、私はあなたを咎めたりはしません。 親としての責任を果たしたいというあなたの気持ちもわかりますから」
「・・・・・・・・・」
もう、グレーグライは言葉が出なかった。 プイメークという稀有な女性を伴侶とできたことに、いま心から感謝したくなった。
彼女の肩に置いていた手を、そのままぐっと引き寄せる。 小柄で華奢な体が、すっぽりとグレーグライの腕に収まった。
「・・・ありがとう」
彼女をしっかりと抱きしめ、耳元に小さく呟く。 そっと目を閉じたプイメークが、返事の代わりに背中へと優しく手を添えた。