季節は流れ、6月も半ばになった。
雨季真っ只中のバンコクは、連日降り続く雨のせいで空気もどんよりと淀んでいるようだ。
だがそんな中、ひときわ楽しそうにニコニコしながらデスクに座っている人物がいる。 ソムオーだ。
いつもならそんな彼女に隣席から皮肉めいたツッコミを入れるアースの姿が、今日はない。
そしてその向かいでそんな彼女たちの様子を面白そうに眺めているはずのトードの姿も今日はなく、必死に笑いをこらえるサットがいるのみだ。
「・・・ソムオー先輩、ずいぶん楽しそうですね」
ついに我慢できなくなったサットが、プッと小さく吹き出しながら話しかけた。
「そうなの! こないだのアース先輩とトードの結婚式がすっごい素敵だったからさぁ。 思い出すだけで幸せな気分になっちゃうの! とってもロマンチックで、私もあんな結婚式してみたいわぁ♡」
「それにはまず相手を探さないと」
すかさず鋭いツッコミを入れてくるサットをキッと睨みつけたソムオーが、口を尖らせて応酬する。
「だったらあなたも協力してよ。 知り合いにいない? 背が高くてイケメンで、お金持ちで優しくて・・・」
「――現実を見ましょうね」
「サットってば!」
それまで夢見る少女のようだったソムオーの表情が、あっという間に不機嫌になる。 あいかわらずからかい甲斐のある態度に、サットとアーティットが声を出して笑った。
「・・・でもほんと、先輩たちすごく幸せそうでしたね。 良い結婚式だったな」
「そうだな。 アース先輩が泣いてるの、初めて見たよ」
「トードさんは最初から最後までずっと泣きっぱなしでしたね」
「そりゃあ、アース先輩との結婚があいつの悲願だったからな。 ようやく願いが叶って、感無量だったんだろう」
「今ごろはハネムーン真っ只中ですね」
結婚式で見たトードとアースの様子を思い出し、アーティットの表情が自然と緩む。 同時に、エムたちの結婚式を思い出す。
長きに亘ってメイを想い続けたエム。 その強くてひたむきな愛がメイに届き、晴れて二人は結ばれた。
そして、もうすぐ目の前のサットも幸せな結末を迎えようとしている。
幸せの連鎖。 いまそれを強く感じる。 その連鎖に、自分も入れるだろうか・・・。
いつか、グレーグライがくれた言葉。
『我が社へ来て、名実ともにコングポップの伴侶として彼を支えてほしい』
「・・・・・・・・・」
グレーグライの口から【伴侶】という言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になったのを今でもはっきり覚えている。
あのグレーグライが、とうとう自分をコングのパートナーとして正式に認めてくれた。
この日を、どんなに夢見ていたか。 それはもう、天にも昇る嬉しさだった。
だが、オーシャンエレクトロニック社を辞めるのは・・・。
「――先輩、アーティット先輩?」
「・・・えっ」
いつしか思案に耽っていたアーティットの耳に、サットの声が届く。 我に返ってサットを見ると、少し怪訝そうに自分を見つめている。
「どうしたんですか? 笑顔だったかと思えば急に沈んだ顔になったり、黙り込んでしまったり・・・」
「あ・・・ああ、悪い。 ちょっと考え事を・・・」
「コングさんとは、うまくいってるんですよね。 他に何か心配なことでも?」
「いや、そうじゃないんだ。 そういえば、おまえたちの結婚式はいつなんだ?」
「・・・・・・・・・」
絵に描いたようにあからさまに話題を変えるアーティットをじっと見つめたサットが、ふと立ち上がってアーティットの隣へとやってきた。
ゆっくりとアースの席に腰を下ろすサットを、アーティットが不思議そうに見ている。
「・・・先輩。 以前俺が恋人の両親のことで悩んでるとき、あなたは俺の様子を見て悩みがあることを見抜きましたよね」
「ああ、そんなこともあったな」
「先輩はいつも周りのことをよく見てて、さりげなく気遣ってくれる。 それはとても素晴らしいことだと思います」
「・・・・・・?」
アーティットには、サットが何を言おうとしているのかわからない。 相変わらず不思議そうにしているアーティットを、サットが真顔で見つめた。
「・・・だけど、あなた自身のことを、あなたはもっと考えるべきです」
「え?」
「もっと自分の幸せを貪欲に考えてもいいんですよ。 人に迷惑がかかるとか、周りがどうなるとか、そんなことは後回しにしてもいい時もあるんです」
「サット・・・おまえ・・・」
サットの言わんとしていることはわからないままだが、それでも彼がアーティットに対して何かを伝えようとしていることはわかった。
「おまえ・・・何が言いたいんだ?」
アーティットがそう尋ねると、サットがチラリと周囲を見渡した。 ソムオーは先ほどから休憩に行っていていない。 この部屋には今サットとアーティット二人だけだ。
それを確認したサットが、おもむろに口を開いた。
「――サイアムポリマー社へ行くことを、ためらわないでください」
「!」
アーティットの体に衝撃が走った。 驚きのあまり絶句する彼に、サットが静かに語りかける。
「・・・俺の婚約者の父親がサイアムポリマー社の総務部長だということ、前に話しましたよね。 少し前に、グレーグライ社長からそういう話があったそうです」
「そういう話・・・って」
「オーシャンエレクトロニック社から、近々優秀なスタッフが来ることになるかも知れないので、新社長秘書のポストを用意しておくようにと」
「・・・・・・・・・」
「それで彼女の父親が俺に訊いてきたんです。 俺はすぐあなたのことだと思いました。 2年後にはグレーグライさんからコングさんに社長の座が変わるということも聞いていたので」
「・・・・・・・・・」
「どんな人物だと訊かれたので、素晴らしい人であり新社長のことを全力でサポートしてくれるでしょう、と答えました」
「・・・・・・・・・」
アーティットは完全に言葉を喪っていた。 やはりグレーグライは本気だったのだ。 本気で、アーティットをコングの下へ呼び寄せようとしている。
それまでまだどこか絵空事のように感じていたのが、一気に現実味を帯び始める。
コングと自分の未来が、はっきりとしたものになっていくのを感じる。
「――これまでここで働いてきた恩情や様々な思いもあるでしょう。 その気持ちもわかります。 でもあなたの幸せのためにも、もう迷いは捨てるべきです」
「サット・・・」
「それとも、心配でこんな俺たちに後のことは任せられませんか?」
「そんなことは・・・!」
やや大げさな口調でそう言うサットに、首を左右に振りながらアーティットが否定しようとした。 まんまと誘導尋問に引っかかるアーティットを見て、サットがニンマリと笑う。
「じゃあ他に何か心残りなことが?」
「・・・おまえってやつは・・・」
こんなにも口の立つ奴だとは思わなかった。 そう心の中で呟いてため息を吐いたアーティットは、王手を掛けられた棋士のような心境になった。
とうとう、決断するべき時がきたと。
迷い続けていたアーティットの心の中に、ひとつの光明が差し込んだ瞬間でもあった。
雨季真っ只中のバンコクは、連日降り続く雨のせいで空気もどんよりと淀んでいるようだ。
だがそんな中、ひときわ楽しそうにニコニコしながらデスクに座っている人物がいる。 ソムオーだ。
いつもならそんな彼女に隣席から皮肉めいたツッコミを入れるアースの姿が、今日はない。
そしてその向かいでそんな彼女たちの様子を面白そうに眺めているはずのトードの姿も今日はなく、必死に笑いをこらえるサットがいるのみだ。
「・・・ソムオー先輩、ずいぶん楽しそうですね」
ついに我慢できなくなったサットが、プッと小さく吹き出しながら話しかけた。
「そうなの! こないだのアース先輩とトードの結婚式がすっごい素敵だったからさぁ。 思い出すだけで幸せな気分になっちゃうの! とってもロマンチックで、私もあんな結婚式してみたいわぁ♡」
「それにはまず相手を探さないと」
すかさず鋭いツッコミを入れてくるサットをキッと睨みつけたソムオーが、口を尖らせて応酬する。
「だったらあなたも協力してよ。 知り合いにいない? 背が高くてイケメンで、お金持ちで優しくて・・・」
「――現実を見ましょうね」
「サットってば!」
それまで夢見る少女のようだったソムオーの表情が、あっという間に不機嫌になる。 あいかわらずからかい甲斐のある態度に、サットとアーティットが声を出して笑った。
「・・・でもほんと、先輩たちすごく幸せそうでしたね。 良い結婚式だったな」
「そうだな。 アース先輩が泣いてるの、初めて見たよ」
「トードさんは最初から最後までずっと泣きっぱなしでしたね」
「そりゃあ、アース先輩との結婚があいつの悲願だったからな。 ようやく願いが叶って、感無量だったんだろう」
「今ごろはハネムーン真っ只中ですね」
結婚式で見たトードとアースの様子を思い出し、アーティットの表情が自然と緩む。 同時に、エムたちの結婚式を思い出す。
長きに亘ってメイを想い続けたエム。 その強くてひたむきな愛がメイに届き、晴れて二人は結ばれた。
そして、もうすぐ目の前のサットも幸せな結末を迎えようとしている。
幸せの連鎖。 いまそれを強く感じる。 その連鎖に、自分も入れるだろうか・・・。
いつか、グレーグライがくれた言葉。
『我が社へ来て、名実ともにコングポップの伴侶として彼を支えてほしい』
「・・・・・・・・・」
グレーグライの口から【伴侶】という言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になったのを今でもはっきり覚えている。
あのグレーグライが、とうとう自分をコングのパートナーとして正式に認めてくれた。
この日を、どんなに夢見ていたか。 それはもう、天にも昇る嬉しさだった。
だが、オーシャンエレクトロニック社を辞めるのは・・・。
「――先輩、アーティット先輩?」
「・・・えっ」
いつしか思案に耽っていたアーティットの耳に、サットの声が届く。 我に返ってサットを見ると、少し怪訝そうに自分を見つめている。
「どうしたんですか? 笑顔だったかと思えば急に沈んだ顔になったり、黙り込んでしまったり・・・」
「あ・・・ああ、悪い。 ちょっと考え事を・・・」
「コングさんとは、うまくいってるんですよね。 他に何か心配なことでも?」
「いや、そうじゃないんだ。 そういえば、おまえたちの結婚式はいつなんだ?」
「・・・・・・・・・」
絵に描いたようにあからさまに話題を変えるアーティットをじっと見つめたサットが、ふと立ち上がってアーティットの隣へとやってきた。
ゆっくりとアースの席に腰を下ろすサットを、アーティットが不思議そうに見ている。
「・・・先輩。 以前俺が恋人の両親のことで悩んでるとき、あなたは俺の様子を見て悩みがあることを見抜きましたよね」
「ああ、そんなこともあったな」
「先輩はいつも周りのことをよく見てて、さりげなく気遣ってくれる。 それはとても素晴らしいことだと思います」
「・・・・・・?」
アーティットには、サットが何を言おうとしているのかわからない。 相変わらず不思議そうにしているアーティットを、サットが真顔で見つめた。
「・・・だけど、あなた自身のことを、あなたはもっと考えるべきです」
「え?」
「もっと自分の幸せを貪欲に考えてもいいんですよ。 人に迷惑がかかるとか、周りがどうなるとか、そんなことは後回しにしてもいい時もあるんです」
「サット・・・おまえ・・・」
サットの言わんとしていることはわからないままだが、それでも彼がアーティットに対して何かを伝えようとしていることはわかった。
「おまえ・・・何が言いたいんだ?」
アーティットがそう尋ねると、サットがチラリと周囲を見渡した。 ソムオーは先ほどから休憩に行っていていない。 この部屋には今サットとアーティット二人だけだ。
それを確認したサットが、おもむろに口を開いた。
「――サイアムポリマー社へ行くことを、ためらわないでください」
「!」
アーティットの体に衝撃が走った。 驚きのあまり絶句する彼に、サットが静かに語りかける。
「・・・俺の婚約者の父親がサイアムポリマー社の総務部長だということ、前に話しましたよね。 少し前に、グレーグライ社長からそういう話があったそうです」
「そういう話・・・って」
「オーシャンエレクトロニック社から、近々優秀なスタッフが来ることになるかも知れないので、新社長秘書のポストを用意しておくようにと」
「・・・・・・・・・」
「それで彼女の父親が俺に訊いてきたんです。 俺はすぐあなたのことだと思いました。 2年後にはグレーグライさんからコングさんに社長の座が変わるということも聞いていたので」
「・・・・・・・・・」
「どんな人物だと訊かれたので、素晴らしい人であり新社長のことを全力でサポートしてくれるでしょう、と答えました」
「・・・・・・・・・」
アーティットは完全に言葉を喪っていた。 やはりグレーグライは本気だったのだ。 本気で、アーティットをコングの下へ呼び寄せようとしている。
それまでまだどこか絵空事のように感じていたのが、一気に現実味を帯び始める。
コングと自分の未来が、はっきりとしたものになっていくのを感じる。
「――これまでここで働いてきた恩情や様々な思いもあるでしょう。 その気持ちもわかります。 でもあなたの幸せのためにも、もう迷いは捨てるべきです」
「サット・・・」
「それとも、心配でこんな俺たちに後のことは任せられませんか?」
「そんなことは・・・!」
やや大げさな口調でそう言うサットに、首を左右に振りながらアーティットが否定しようとした。 まんまと誘導尋問に引っかかるアーティットを見て、サットがニンマリと笑う。
「じゃあ他に何か心残りなことが?」
「・・・おまえってやつは・・・」
こんなにも口の立つ奴だとは思わなかった。 そう心の中で呟いてため息を吐いたアーティットは、王手を掛けられた棋士のような心境になった。
とうとう、決断するべき時がきたと。
迷い続けていたアーティットの心の中に、ひとつの光明が差し込んだ瞬間でもあった。