その頃アーティットたちは、バンコク市内にあるレストランに来ていた。
オーシャンエレクトロニック社とサイアムポリマー社、それぞれのプロジェクトメンバーが集まって、慰労会が開催されることになったためだ。
オーシャンエレクトロニック社からは、購買部長のダナイ、そして担当のアーティット、トード、サットが参加する。
一方でサイアムポリマー社からは、製造業務部長のトゥルク、担当のマックス、そしてリーザの3人が参加することになっている。
開始時刻前に全員が揃ったため、慰労会は予定より少し早めにスタートした。
普段は何かにつけてケンカ腰でアーティットたちに突っかかってくるリーザも、さすがに場の和やかな雰囲気を壊すと思っているのか、今のところ大人しくしている。
だが宴会がたけなわになるにつれ、アーティットは隣のトードの様子が気がかりになっていた。
トードは酒が入ると、やたら煩くなる。 いわゆる酒癖が、あまりよろしくないのだ。
少しずつ喋る声が大きくなってきていて、取引先の面々がいるこの場で醜態を晒さないか心配になって、アーティットは酔うことができない。
「おいトード、もう少し静かにしろよ」
肘でトードの腕をつついて小声で注意すると、ヘラヘラ笑いながらOKOK!と大袈裟に頷くが、その声は先ほどよりもさらに大きい。
これはダメだ、とでも言うように、アーティットが肩を竦めた。 ため息を吐いて箸を手に取ると、隣のサットが話しかけてきた。
「アーティット先輩、あまりお酒が進んでないですね」
「まあな・・・。 こいつの様子が気になって、うかうか飲めない」
苦笑いしながら親指でトードを指すアーティットを、サットが同情の目で見る。
「トード先輩のことは俺が見てますから、先輩は安心して飲んでください」
「え? でも・・・」
「俺はお酒飲めないので、遠慮する必要はありませんよ。 あ、そうだ。 席替わりましょう。 俺がトード先輩の隣へ行きますね」
一人で話を進め、あれよあれよという間にサットがアーティットと場所を入れ替わった。
「トード先輩、飲んでばかりいないでこれも食べてみてくださいよ。 美味しいですよ」
「あん? なんでアーティットと場所替わったんだぁ?」
「先輩に美味しいものを食べてもらうためですよ。 さっきからずっと飲みっぱなしでしょ? 食べ物も食べないと胃に悪いですよ」
そう言いながら、手早く取り皿に料理を盛り付けてトードの前へ差し出す。 ご丁寧に箸まで手渡す念の入りようで、これにはトードもさすがに降参したようだ。
「わかった、わかったよ。 まったく、お前は俺のおふくろかよ」
「あ、それよく言われます。 何なら本当にお母さんと思ってくれても構いませんよ」
「ぶっ! こんなゴツいおふくろなんかごめんだ」
何だかんだ言いながらも料理に手を付けたトードが、意外そうに目を見開いた。
「お、うまいなこれ!」
「でしょ? こっちの料理もいけますよ。 どんどん食べてください」
そう言うが早いか、さらにもう一枚皿を手に取り、再び料理を取り分ける。 そんな様子を、呆気に取られたようにアーティットが見ていた。
サットにまくしたてられたトードは、いつしか食べるのに夢中になって、グラスから完全に手が離れている。
サットの手際の良さに、思わず感服した。
肩の荷が下りたように安堵したアーティットが、ようやく自分のグラスに手を伸ばす。 時間が経ってすっかり温くなってしまったビールを飲み干すと、空になったグラスを差し出して店員に2杯目の注文をした。
こうして、サットはいつもさりげない気遣いを見せる。 しかもそれが相手の負担にならないよう、あくまで何気ない体を装うのが、彼の憎いところだ。
サットと一緒に働くようになっておよそ2ヵ月。 その間、幾度となくこのような気遣いを受けてきた。
いつしかアーティットは、そんな彼の優しさを心地よく感じ始めていた。
他人からのこうした気遣いや施しを甘受するのが苦手なアーティットだが、なぜかサットからは素直に受け入れることができるのも、思えば不思議な話だ。
アルコールが浸透し始めた脳が、心地良い思考へと導いていく。 それは、グッドトリップにも似た高揚感をもたらす。
元々ネガティブなアーティットは、酒を飲むと時にそのネガティブさが増強され、何もかも悪い方向へと考え込んでしまうことがある。
そのため、普段はほとんど酒は飲まない。 仕事の付き合いで飲まなければいけない時も、酔わない程度にほんの少ししか飲まないことにしている。
ふと気付くと、すでに4杯目のグラスもほぼ空になっていた。 こんなに飲んだのは、初めてかも知れない。
そして、こんなに明るい気持ちで酔えるのも、初めての気がする。 そう思うと、自然と頬が緩んだ。
すると、不意に誰かの視線を感じた。 俯き加減だった顔を上げると、自分を見つめるサットと目が合う。
「・・・アーティット先輩、笑うと本当に可愛いですね。 蕩けそうな笑顔してますよ」
素直に思ったままを口にするサットを、思わず凝視する。 途端に顔が赤くなるのを自覚したアーティットが、とっさに顔を背けた。
普段なら、ふざけたこと言うな!と一蹴してやるのだが、なぜか今はそんな言葉が出てこない。 ただ無言で顔を逸らすしかできなかった。
そんなアーティットを、サットが不思議そうに見つめる。
「・・・先輩? どうかしたんですか?」
何も言わないアーティットの肩に手を置き、覗き込むように顔を近づけてくるサットの様子に狼狽える。
「な、何でもない」
それだけ言うのが精いっぱいだった。 サットから逃れるように、通りかかった店員に空のグラスを差し出して5杯目をオーダーする。
「先輩、少し飲みすぎじゃないですか?」
「大丈夫だ、これくらい」
少し心配そうに自分を見つめるサットから更に顔を背け、店員が持ってきたグラスを素早く受け取ると、顔の火照りを鎮めるが如く一気に冷たいビールを流し込んだ。
そうして、約3時間に及ぶ慰労会は恙なく終了した。
「今日は楽しかったよ。 みんな気を付けて帰るように」
すっかり赤くなった顔をテカらせながら、トゥルクが労いの言葉をかける。
「歩いて帰るのは、リーザとアーティットさんですよね。 あとの方はタクシーですか?」
「あ、僕も歩いて帰ります。 タクシーにはダナイさんとトード先輩、トゥルク部長が乗ってください。 俺呼んできますね」
言い終わる前に、サットが手を挙げて大通りへと走って行った。 やがて一台のタクシーが止まると、ダナイたちに向かってサットが手招きした。
無事に3人を乗せたタクシーが発車すると、アーティットとリーザ、マックスとサットの4人が残った。
「僕は自転車なんですよ。 少し離れたところの駐輪場に停めてるんで、お先に失礼しますね」
そう言い残し、手を振ったマックスが離脱した。 あとに残った3人の間に、微妙な空気が漂う。
「・・・じゃ、私ももう行きます」
気まずさに耐えられなくなったのか、そう告げて歩き出そうとしたリーザに、サットが声をかけた。
「もうこんな時間だし、女性の一人歩きは危ないですよ。 俺たちで良ければ送っていきますよ」
少々飲み過ぎてぼんやりしているアーティットに目配せをして、サットが同意を求める。 しかし、リーザは小さく鼻で嗤って首を左右に振った。
「けっこうです。 いつも通ってる道だし、余計な気配りはいりませんから」
じゃ、と言って、今度こそリーザは振り返ることなく足早に歩き出した。
いつも通りの彼女の態度に、サットが小さくため息を吐いた。 すると、それまで何も言わなかったアーティットが、ふと呟いた。
「・・・やっぱり、一人はまずいだろ。 もし彼女に何かあったら、男二人もいたのに何してたんだって言われるしな」
完全に酔っていると思っていたが、存外まともなことを言うアーティットを感心したようにサットが見る。
「・・・なんだよ」
そんな視線に気付いて、怪訝そうにアーティットがぼそりと零す。
「いえ、なんでも。 そうですね、俺もそう思ってたところです。 彼女に気付かれないよう、少し距離を置いてついて行きましょう」
「・・・ああ」
まだ胡乱げな目でサットを見ていたアーティットだったが、ふらつきそうになる足にぐっと力を込めると、サットとともに小さくなっていくリーザの背中を追い始めた。
オーシャンエレクトロニック社とサイアムポリマー社、それぞれのプロジェクトメンバーが集まって、慰労会が開催されることになったためだ。
オーシャンエレクトロニック社からは、購買部長のダナイ、そして担当のアーティット、トード、サットが参加する。
一方でサイアムポリマー社からは、製造業務部長のトゥルク、担当のマックス、そしてリーザの3人が参加することになっている。
開始時刻前に全員が揃ったため、慰労会は予定より少し早めにスタートした。
普段は何かにつけてケンカ腰でアーティットたちに突っかかってくるリーザも、さすがに場の和やかな雰囲気を壊すと思っているのか、今のところ大人しくしている。
だが宴会がたけなわになるにつれ、アーティットは隣のトードの様子が気がかりになっていた。
トードは酒が入ると、やたら煩くなる。 いわゆる酒癖が、あまりよろしくないのだ。
少しずつ喋る声が大きくなってきていて、取引先の面々がいるこの場で醜態を晒さないか心配になって、アーティットは酔うことができない。
「おいトード、もう少し静かにしろよ」
肘でトードの腕をつついて小声で注意すると、ヘラヘラ笑いながらOKOK!と大袈裟に頷くが、その声は先ほどよりもさらに大きい。
これはダメだ、とでも言うように、アーティットが肩を竦めた。 ため息を吐いて箸を手に取ると、隣のサットが話しかけてきた。
「アーティット先輩、あまりお酒が進んでないですね」
「まあな・・・。 こいつの様子が気になって、うかうか飲めない」
苦笑いしながら親指でトードを指すアーティットを、サットが同情の目で見る。
「トード先輩のことは俺が見てますから、先輩は安心して飲んでください」
「え? でも・・・」
「俺はお酒飲めないので、遠慮する必要はありませんよ。 あ、そうだ。 席替わりましょう。 俺がトード先輩の隣へ行きますね」
一人で話を進め、あれよあれよという間にサットがアーティットと場所を入れ替わった。
「トード先輩、飲んでばかりいないでこれも食べてみてくださいよ。 美味しいですよ」
「あん? なんでアーティットと場所替わったんだぁ?」
「先輩に美味しいものを食べてもらうためですよ。 さっきからずっと飲みっぱなしでしょ? 食べ物も食べないと胃に悪いですよ」
そう言いながら、手早く取り皿に料理を盛り付けてトードの前へ差し出す。 ご丁寧に箸まで手渡す念の入りようで、これにはトードもさすがに降参したようだ。
「わかった、わかったよ。 まったく、お前は俺のおふくろかよ」
「あ、それよく言われます。 何なら本当にお母さんと思ってくれても構いませんよ」
「ぶっ! こんなゴツいおふくろなんかごめんだ」
何だかんだ言いながらも料理に手を付けたトードが、意外そうに目を見開いた。
「お、うまいなこれ!」
「でしょ? こっちの料理もいけますよ。 どんどん食べてください」
そう言うが早いか、さらにもう一枚皿を手に取り、再び料理を取り分ける。 そんな様子を、呆気に取られたようにアーティットが見ていた。
サットにまくしたてられたトードは、いつしか食べるのに夢中になって、グラスから完全に手が離れている。
サットの手際の良さに、思わず感服した。
肩の荷が下りたように安堵したアーティットが、ようやく自分のグラスに手を伸ばす。 時間が経ってすっかり温くなってしまったビールを飲み干すと、空になったグラスを差し出して店員に2杯目の注文をした。
こうして、サットはいつもさりげない気遣いを見せる。 しかもそれが相手の負担にならないよう、あくまで何気ない体を装うのが、彼の憎いところだ。
サットと一緒に働くようになっておよそ2ヵ月。 その間、幾度となくこのような気遣いを受けてきた。
いつしかアーティットは、そんな彼の優しさを心地よく感じ始めていた。
他人からのこうした気遣いや施しを甘受するのが苦手なアーティットだが、なぜかサットからは素直に受け入れることができるのも、思えば不思議な話だ。
アルコールが浸透し始めた脳が、心地良い思考へと導いていく。 それは、グッドトリップにも似た高揚感をもたらす。
元々ネガティブなアーティットは、酒を飲むと時にそのネガティブさが増強され、何もかも悪い方向へと考え込んでしまうことがある。
そのため、普段はほとんど酒は飲まない。 仕事の付き合いで飲まなければいけない時も、酔わない程度にほんの少ししか飲まないことにしている。
ふと気付くと、すでに4杯目のグラスもほぼ空になっていた。 こんなに飲んだのは、初めてかも知れない。
そして、こんなに明るい気持ちで酔えるのも、初めての気がする。 そう思うと、自然と頬が緩んだ。
すると、不意に誰かの視線を感じた。 俯き加減だった顔を上げると、自分を見つめるサットと目が合う。
「・・・アーティット先輩、笑うと本当に可愛いですね。 蕩けそうな笑顔してますよ」
素直に思ったままを口にするサットを、思わず凝視する。 途端に顔が赤くなるのを自覚したアーティットが、とっさに顔を背けた。
普段なら、ふざけたこと言うな!と一蹴してやるのだが、なぜか今はそんな言葉が出てこない。 ただ無言で顔を逸らすしかできなかった。
そんなアーティットを、サットが不思議そうに見つめる。
「・・・先輩? どうかしたんですか?」
何も言わないアーティットの肩に手を置き、覗き込むように顔を近づけてくるサットの様子に狼狽える。
「な、何でもない」
それだけ言うのが精いっぱいだった。 サットから逃れるように、通りかかった店員に空のグラスを差し出して5杯目をオーダーする。
「先輩、少し飲みすぎじゃないですか?」
「大丈夫だ、これくらい」
少し心配そうに自分を見つめるサットから更に顔を背け、店員が持ってきたグラスを素早く受け取ると、顔の火照りを鎮めるが如く一気に冷たいビールを流し込んだ。
そうして、約3時間に及ぶ慰労会は恙なく終了した。
「今日は楽しかったよ。 みんな気を付けて帰るように」
すっかり赤くなった顔をテカらせながら、トゥルクが労いの言葉をかける。
「歩いて帰るのは、リーザとアーティットさんですよね。 あとの方はタクシーですか?」
「あ、僕も歩いて帰ります。 タクシーにはダナイさんとトード先輩、トゥルク部長が乗ってください。 俺呼んできますね」
言い終わる前に、サットが手を挙げて大通りへと走って行った。 やがて一台のタクシーが止まると、ダナイたちに向かってサットが手招きした。
無事に3人を乗せたタクシーが発車すると、アーティットとリーザ、マックスとサットの4人が残った。
「僕は自転車なんですよ。 少し離れたところの駐輪場に停めてるんで、お先に失礼しますね」
そう言い残し、手を振ったマックスが離脱した。 あとに残った3人の間に、微妙な空気が漂う。
「・・・じゃ、私ももう行きます」
気まずさに耐えられなくなったのか、そう告げて歩き出そうとしたリーザに、サットが声をかけた。
「もうこんな時間だし、女性の一人歩きは危ないですよ。 俺たちで良ければ送っていきますよ」
少々飲み過ぎてぼんやりしているアーティットに目配せをして、サットが同意を求める。 しかし、リーザは小さく鼻で嗤って首を左右に振った。
「けっこうです。 いつも通ってる道だし、余計な気配りはいりませんから」
じゃ、と言って、今度こそリーザは振り返ることなく足早に歩き出した。
いつも通りの彼女の態度に、サットが小さくため息を吐いた。 すると、それまで何も言わなかったアーティットが、ふと呟いた。
「・・・やっぱり、一人はまずいだろ。 もし彼女に何かあったら、男二人もいたのに何してたんだって言われるしな」
完全に酔っていると思っていたが、存外まともなことを言うアーティットを感心したようにサットが見る。
「・・・なんだよ」
そんな視線に気付いて、怪訝そうにアーティットがぼそりと零す。
「いえ、なんでも。 そうですね、俺もそう思ってたところです。 彼女に気付かれないよう、少し距離を置いてついて行きましょう」
「・・・ああ」
まだ胡乱げな目でサットを見ていたアーティットだったが、ふらつきそうになる足にぐっと力を込めると、サットとともに小さくなっていくリーザの背中を追い始めた。