二人にとって永遠に続くかと思われた哀しい時間は、唐突に終わりを告げた。
ドアにすがって泣き崩れていたコングへ、不意に誰かの声が降りかかった。
「・・・あんた、何してるんだ? そこの住人と何かあったのか?」
反射的に顔を上げたコングの目に、こちらを訝しそうに見る男の姿が映る。 見知らぬ人間に泣き顔を晒したことに気付き、慌てて手の甲で涙をぬぐいながら立ち上がった。
「いえ、その・・・」
だがとっさにどう答えて良いかわからず、思わず口ごもる。 すると何か思い出したのか、男があ、と小さく呟いた。
「あんた、もしかして・・・以前にもここでドア叩いて叫んでたヤツじゃ」
コングを指さし、怪訝さを増した表情で、男が詰問する。 この男がいつか苦情を言われた隣人だったことを知って、コングがますます委縮する。
そのやり取りは、ドアの中のアーティットにも聞こえていた。
まだ哀しみは色濃く残っているが、それでもアーティットは瞬時に思考を巡らせ、コングの窮地を救う方法を考える。
男であるコングが男の部屋の前で泣き崩れている様子は、どう見ても尋常ではない。 きっと今頃、隣人の男は思い切り不審な目でコングを見ているだろう。
同性との痴情のもつれなどという不名誉な誤解をさせないために、アーティットは心を鬼にして叫んだ。
「・・・もう帰れ! いつまでもそんなとこにいられても迷惑だ」
「先輩!」
「もし帰らないなら、おまえの父親に連絡して連れに来てもらうぞ!」
「アーティット先輩!」
再びドアにすがってそう叫んだが、もうアーティットの声が聞こえることはなかった。
声の限り叫び続けたかったが、背後からはじっと自分の様子を窺っている男の視線を感じる。
これ以上ここで醜態を晒しては、アーティットにも迷惑がかかってしまう。 何より、以降の隣人との付き合いにも影を落とすことになるだろう。
まさか本気でグレーグライに連絡するつもりはないだろうが、それでももう限界だと思った。
「・・・・・・・・・」
ドアにかけていた手を下ろし、握りしめた拳を見る。 ドアを叩きすぎてうっすらと血がにじんでいた。
微かな痛みとともに拳をほどき、男の突き刺さるような視線から逃れるように、コングは速やかにその場を離れた。
コングの足音が遠ざかる気配と、隣人が部屋のドアを開ける音を確認したアーティットは、一気に力が抜けてずるずるとその場にへたり込んだ。
まるで長距離を走りぬいた後のような、鈍麻な疲労が全身を支配していた。 四肢に鉛が入ったかの如く重い。
両膝を立てた上に額を付け、丸く蹲る。 思考は停滞し、もう何も考えることもできない。
静まり返った空間で、アーティットはいつまでもそのまま動けずにいた。
どうやって家に帰ってきたのか、はっきり覚えていない。 ただ途中何度か他車にクラクションを鳴らされていたような気がする。
今思えば、よく事故らずにここまで辿り着けたと妙に感心した。
ガレージには、父の車がなかった。 仕事は年内いっぱいは休みだと言っていたから、どこかへ外出でもしているのか。
そんなことをぼんやり考えながら、コングはのろのろと車から降りた。
屋内へ入り、リビングのドアをくぐると、そこには母プイメークの姿があった。
「コング、遅かったのね。 夕飯まだでしょう? 温めなおすから食べなさい」
そう言いながらキッチンへと向かう母に、コングが力なく答えた。
「いえ・・・食欲がないからいいです」
それは自分でも驚くほどの嗄れ声だった。 まるで老人のようなその声に、プイメークが思わず立ち止まって振り返った。
「・・・コング?」
声だけでなく、憔悴しきったその顔を見て、プイメークが異変に気付いた。
「あなた、ひどい顔してるわよ。 どうしたの一体」
「・・・・・・・・・」
「ねえ、何があったの」
「・・・母さん・・・」
唇を噛みしめて母の訴えを聞いていたコングが、堪えきれなくなったように声を絞り出した。
「アーティット先輩が・・・あのことを知ってしまった・・・」
「え、あのことって・・・」
反芻しかけたプイメークが、はっとしたように口元に手を当てた。
「まさか、中国行きがなくなった理由・・・?」
無言で首をうなだれていたコングが、微かに頷く。 途端に、プイメークが痛いような目をした。
「もう・・・もう俺、どうしたらいいのか・・・。 先輩は俺の話を聞いてくれないし・・・」
「コング・・・」
「どうしたら・・・。 先輩は何も悪くないのに、なんでこんなことに・・・!」
吐き出すようにそう叫び、嗚咽を漏らす息子を目の当たりにして、プイメークは何と声をかけて良いかわからず狼狽えた。
いつか真実は明るみになるもの。 そう諭したのは自分だ。
だがいざこうしてその真実に打ちのめされる息子を目にすると、かける言葉が見つからなかった。
出ない言葉の代わりに手を伸ばし、コングの肩に置こうとした時、ゆらりとコングが動いた。
「・・・すいません、取り乱して・・・」
小さくそう呟いて、ゆっくりとコングが歩き出した。 その後を追おうとしたプイメークだったが、踏み出しかけた足を止め、結局見送ることしかできなかった。
階段を上り自室へと消えていく息子の後ろ姿を見つめながら、何もしてやれない自分が無性に不甲斐なかった。
アーティットの受けたショックと、コングが受けたショック。 どちらも想像に難くない。
二人にとって茨の試練が始まってしまった。
再びコングが心からの笑顔を取り戻すのはいつになるのか。
そんなことを考えながら、プイメークは無意識に両手を胸元で重ねて握りしめた。
ドアにすがって泣き崩れていたコングへ、不意に誰かの声が降りかかった。
「・・・あんた、何してるんだ? そこの住人と何かあったのか?」
反射的に顔を上げたコングの目に、こちらを訝しそうに見る男の姿が映る。 見知らぬ人間に泣き顔を晒したことに気付き、慌てて手の甲で涙をぬぐいながら立ち上がった。
「いえ、その・・・」
だがとっさにどう答えて良いかわからず、思わず口ごもる。 すると何か思い出したのか、男があ、と小さく呟いた。
「あんた、もしかして・・・以前にもここでドア叩いて叫んでたヤツじゃ」
コングを指さし、怪訝さを増した表情で、男が詰問する。 この男がいつか苦情を言われた隣人だったことを知って、コングがますます委縮する。
そのやり取りは、ドアの中のアーティットにも聞こえていた。
まだ哀しみは色濃く残っているが、それでもアーティットは瞬時に思考を巡らせ、コングの窮地を救う方法を考える。
男であるコングが男の部屋の前で泣き崩れている様子は、どう見ても尋常ではない。 きっと今頃、隣人の男は思い切り不審な目でコングを見ているだろう。
同性との痴情のもつれなどという不名誉な誤解をさせないために、アーティットは心を鬼にして叫んだ。
「・・・もう帰れ! いつまでもそんなとこにいられても迷惑だ」
「先輩!」
「もし帰らないなら、おまえの父親に連絡して連れに来てもらうぞ!」
「アーティット先輩!」
再びドアにすがってそう叫んだが、もうアーティットの声が聞こえることはなかった。
声の限り叫び続けたかったが、背後からはじっと自分の様子を窺っている男の視線を感じる。
これ以上ここで醜態を晒しては、アーティットにも迷惑がかかってしまう。 何より、以降の隣人との付き合いにも影を落とすことになるだろう。
まさか本気でグレーグライに連絡するつもりはないだろうが、それでももう限界だと思った。
「・・・・・・・・・」
ドアにかけていた手を下ろし、握りしめた拳を見る。 ドアを叩きすぎてうっすらと血がにじんでいた。
微かな痛みとともに拳をほどき、男の突き刺さるような視線から逃れるように、コングは速やかにその場を離れた。
コングの足音が遠ざかる気配と、隣人が部屋のドアを開ける音を確認したアーティットは、一気に力が抜けてずるずるとその場にへたり込んだ。
まるで長距離を走りぬいた後のような、鈍麻な疲労が全身を支配していた。 四肢に鉛が入ったかの如く重い。
両膝を立てた上に額を付け、丸く蹲る。 思考は停滞し、もう何も考えることもできない。
静まり返った空間で、アーティットはいつまでもそのまま動けずにいた。
どうやって家に帰ってきたのか、はっきり覚えていない。 ただ途中何度か他車にクラクションを鳴らされていたような気がする。
今思えば、よく事故らずにここまで辿り着けたと妙に感心した。
ガレージには、父の車がなかった。 仕事は年内いっぱいは休みだと言っていたから、どこかへ外出でもしているのか。
そんなことをぼんやり考えながら、コングはのろのろと車から降りた。
屋内へ入り、リビングのドアをくぐると、そこには母プイメークの姿があった。
「コング、遅かったのね。 夕飯まだでしょう? 温めなおすから食べなさい」
そう言いながらキッチンへと向かう母に、コングが力なく答えた。
「いえ・・・食欲がないからいいです」
それは自分でも驚くほどの嗄れ声だった。 まるで老人のようなその声に、プイメークが思わず立ち止まって振り返った。
「・・・コング?」
声だけでなく、憔悴しきったその顔を見て、プイメークが異変に気付いた。
「あなた、ひどい顔してるわよ。 どうしたの一体」
「・・・・・・・・・」
「ねえ、何があったの」
「・・・母さん・・・」
唇を噛みしめて母の訴えを聞いていたコングが、堪えきれなくなったように声を絞り出した。
「アーティット先輩が・・・あのことを知ってしまった・・・」
「え、あのことって・・・」
反芻しかけたプイメークが、はっとしたように口元に手を当てた。
「まさか、中国行きがなくなった理由・・・?」
無言で首をうなだれていたコングが、微かに頷く。 途端に、プイメークが痛いような目をした。
「もう・・・もう俺、どうしたらいいのか・・・。 先輩は俺の話を聞いてくれないし・・・」
「コング・・・」
「どうしたら・・・。 先輩は何も悪くないのに、なんでこんなことに・・・!」
吐き出すようにそう叫び、嗚咽を漏らす息子を目の当たりにして、プイメークは何と声をかけて良いかわからず狼狽えた。
いつか真実は明るみになるもの。 そう諭したのは自分だ。
だがいざこうしてその真実に打ちのめされる息子を目にすると、かける言葉が見つからなかった。
出ない言葉の代わりに手を伸ばし、コングの肩に置こうとした時、ゆらりとコングが動いた。
「・・・すいません、取り乱して・・・」
小さくそう呟いて、ゆっくりとコングが歩き出した。 その後を追おうとしたプイメークだったが、踏み出しかけた足を止め、結局見送ることしかできなかった。
階段を上り自室へと消えていく息子の後ろ姿を見つめながら、何もしてやれない自分が無性に不甲斐なかった。
アーティットの受けたショックと、コングが受けたショック。 どちらも想像に難くない。
二人にとって茨の試練が始まってしまった。
再びコングが心からの笑顔を取り戻すのはいつになるのか。
そんなことを考えながら、プイメークは無意識に両手を胸元で重ねて握りしめた。