小野なな nanaono CG イラスト フアイル

 小野ななCGイラスト作品画像 などの紹介。過去を伴う日常 コメント特に 環境問題、各ページ後付することあり。

滋賀県に仕事場移して、

2023-04-24 01:53:16 | 石山寺界隈
大津、蛍谷 アトリエ 移転、。
嫌がらせの連鎖、さすが体力落ちた。昔話ではありません。
 
ふだん着の仁さん64 
小野周先生と小野ななさん 高木久仁子  福島原発事故の年、秋に突然、小野周先生のお嬢さんの小野ななさんから、仁三郎が亡くなったことを知り、と私へ手紙が届きました。小野周先生は、原子力資料情報室を発足当初から支えて下さった方で、スリーマイル原発事故後作家の野間宏さんと共に「原発モラトリアムを求める会」を代表して資源エネルギー庁へ要請する等々、物理学者の社会的責任を問うて来られました。1995年に76歳で亡くなった時、仁さんは「先生と初めて言葉を交わしたのは今からちょうど20年前のことで、当室の黎明期ともいえる頃のことであった。当日、小野先生が訪れてくるというので私はやや緊張して秋元ビルの5階の部屋で待っていたのを憶えている。私はまだ30代半ばで大学を辞めたばかり、大学のポストを捨てた無謀さは先輩諸氏からはたいへん不評で叱られるばかりであったから小野先生にもいきなり怒鳴りつけられるのではないかと思っていた。私は先生に直接物理を習ったことはなかったが、先生の名は『鬼の小野周』として知られていた。試験の採点が厳しく、学生がつけたものらしいが、そんな評判から、私はてっきり鬼のような人かと想像していたのである。これほどはなはだしい誤解もなかった。先生は初対面の若造の私をまったく対等な相手として終始にこやかに穏やかに話をされ、私のことについては『がんばって下さい。できるだけのお手伝いをします』とだけ話された。運動をやっていると常にがんばって自己主張をし、自分の立場の一貫性を貫くことを潔癖の証としたがるもので、私も例外ではなかったが、小野先生はいつもそういう狭小な党派性から自由であり、肩の力を抜いて色々な立場の人々と付き合っていた。それでいて、反原発運動の場で、重要な場面では決然と筋を通された。しかも物理学会の会長になっても、群馬大学の学長になっても、私たちに接する態度に少しのかわりもなかった」と原子力資料情報室通信252号に追悼文を寄せました。  情報室通信の前身「原発斗争情報」に寄稿された記事を読む他は、1978年開催の「ビキニ島汚染問題検討会」、1983年の「原発斗争情報」第100号記念パーティの写真で小野先生の姿を知る程度の私は、ななさんからの手紙に驚きました。その後彼女に会うことになったのですが、小野先生に似ているのです。娘が語る父娘間の確執に思わず失笑しつつも、関心をひかれました。父の没後アートの世界に飛び込んだ、とのことで昨年は琵琶湖の南にアトリエを移す準備で奮闘中でした。そんなご縁で、かつて先生のお宅に植わっていたリュウゼツラン、デイゴ、サボテン、ハマユウなどがかまねこ庵へやって来ることになりました。95年以来ななさんはスペイン、フランスや日本で個展やグループ展に多々出展。彼女は「1995年、立体『卵』の制作活動を開始したときからのテーマである環境問題に、警告メッセージを織り交ぜて作品を発表しています。地球上に住み同じ赤い血を持ちながら、争いの自縛から逃れられない地上人類の三色の肌色を、漆黒の『墨』、黄茶『珈琲液』、象牙色『和紙』に置き換え、地球全体にかかわる破壊と殺戮、やるせない気持ちを画面に封入させ、制作してまいりました」と作家の弁を述べています。4月7日から13日、京橋のギャラリー檜で小野なな展が開催されます。ななさんは、お父様の生き方を、表現は違いながらも受け継いでいるように思えます。
 
 今でも分かち合った草木は生きています。未だ使用して10年にも満たない。未だ整理はついていませんが 言葉になりません。展覧会の準備 。新しいデータ?この数日、慌てるなと忠告されてますが
追われて、追われる、宿命は親子代々ですかね
 
コミニテイの難しさ、一時的なことではありません。読んでいてくれて有難うございます。