YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

私のロンドン生活~「霧の都ロンドン」の話

2021-10-11 08:52:04 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・「霧の都ロンドン」の話
 ロンドンの天候は、毎日どんよりした曇りの日が多く、時々、小雨が降った。晴れた日は、私がロンドンに滞在するようになってから1・2度だけであった。
毎日毎日、曇りか小雨では憂鬱(ゆううつ)で、心も晴れなかった。しかしロンドンは例え雨が降っても小雨のなで、余り傘の必要性は無く、そして降っても1日中降り続く事はなかった。
 ロンドンは、よく「霧の都」と呼ばれていた。私も当地に来るまで、霧の日が多いと思っていたが、霧の日はなかった。シーラの話では昔、fire place(暖炉)に薪や石炭を使用して暖を取っていたので、その煤煙の影響で霧が発生した様な空模様になった、と言っていた。確かに厚い雲が建物の屋上まで垂れ下がった様な状態で、若しくは小雨で各家庭や会社・公共の建物から出される煤煙が加わったら、正に濃霧の様な状態になったのだ。地形、地理的に於いてもロンドンは霧の発生し易いと言われ、昔は霧の都ではなく、「暗黒の都」とも言われていた。そして先が見えず、自動車同士の衝突も多かったそうだ。
 今では暖を取る為の燃料に薪や石炭の使用は禁じられ、暖炉の所にガスストーブが置いてあった。私の部屋もそうだし、シーラ、ジャネット、ミルスさん、そしてここの大屋の部屋も、皆ガスストーブになっていた。しかしシーラの田舎では、まだ石炭を使用していた。しかし暖炉にはやはり薪が似合うかもしれません。

私のロンドン生活~私の部屋の話

2021-10-10 08:52:02 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
      △2階に住んでいたMarian Watts(マリアン ワッツ)
         
          My life in London(私のロンドン生活) 
・私の部屋の話
 9月21日の深夜、アルベート ミルスさんに出逢えたお陰で彼が翌日、週3ポンドの部屋(住所は5 Arvon Road Highbury London N5)を探してくれました。その部屋は、地下鉄ピカデリー ラインのHolloway Road (ホロウェイ ロード)駅を下車し、駅前のホロウェイ通りを右方面へ、暫らくすると左側にアーボン通り(ロンドンはどんなに短い、狭い通りでも名称がある)があり、その通りの住宅街の一画、四階建て建物(建物の名称はAnticipate Angel)の3階、駅から10分であった。
 ロンドン中心地まで電車で23分程、アクセスは良かった。部屋には洋服ダンスから鍋や食器類まで揃っていて、その日から直ぐに生活する事が出来た。ただし、テレビ、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫は無かった。
 家主は、イタリア系の夫婦と10歳位の女の子が一階に住んでいた。2階にはどんな人が住んでいるのか、私がロンドンを去る4日前まで知らなかった。もっと早く気が付けば、もっと早く彼女(名はマリアン ワッツ)と仲良くなっていれば私のロンドン生活は、もう少し潤いがあったかもしれなかった。4階はアメリカ人夫婦が住んでいたが、顔はアメリカ系ではなく、ラテン系の感じであった。
 トイレは、2階と3階の中間にあり、不便を感じたが、2階と4階の人とかち合った事は一度もなかった。
 バス ルームにバスとシャワー設備があったが、暖かいお湯は栓を回しても出て来なかった。ガスの元栓は家主の方にあって、家主へ申し出て使用する事になっていた。そんな理由で週3ポンドの他、バス使用料は別途に取られた。1度バスを使ったが、湯の量が少なくバスにゆったり浸かれなかった。余りにもバスの湯が少ないので、家主に言ったら、1階から洗面器でお湯を持ってくる始末なので呆れてしまった。お金を使いたくないし、そんな事もあってバスを使わず、時々ガスで湯を沸かして頭を洗い、身体を拭いて済ませていた。  

私が見た事・感じた事 in London~ロンドンのバスの話

2021-10-09 14:24:37 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                    △ロンドンのダブルデッカー バス(PFN)

・ロンドンのバスの話
 ロンドンにはアンダーグラウンド(地下鉄)の他に、もう一つ足の便がある。それは例の「ダブルデッカー バス」と言って、赤い二階建てのバスの事です。
古い歴史的な建造物の間を縫うように走る赤いバスは、一際目立ち、正に絵になる様な光景であった。私は10数回程度しか乗車経験がないが、ロンドン名物の赤い二階建てのバスについて、その感想を書いて見る事にした。
 地下鉄と違って、私はバスの乗車はいつも不安であった。行き先が分らず、例え分っていても自分の降りる停留場が分からなかった。叉、日本の様に車掌の案内もなかった。地下鉄すら放送をしていないので、バス車掌の案内などあり得ないのだ。
私の場合は、地理不案内の為、いつも車掌(大柄のアフリカ人男性が殆どであった)の傍に座って、「どこそこへ行きたいのですが、着いたら教えて下さい」と言ってお願いをしていた。車掌にお願いしたからと言って、不安は解消されなかったし、2階へ昇って景色を楽しむ余裕など全く無かった。2階へ昇ったのは、シーラの友達のジャネットの所へ行った時に乗っただけであった。
 不案内の乗客に対して車掌は、親切であった。私が不安になって、「どこそこはまだ着かないですか」と聞くと、「着いたら教えてやるから、ゆっくり座ってなさい」と言ってくれたり、身振り手振りで合図してくれたりしてくれた。それでいて大勢の他の乗客を扱って忙しいのに、着いたらちゃんと教えてくれた。私はこんな時、有り難く思うし、職務を全うしているのだ、と感心させられた。    
 バスの切符は、乗ったら車掌に行き先を言って買うのだ。すると車掌は、腰に巻いた切符発行機をキリキリ回して切符を売ってくれた。それは、車掌にとって大変な仕事の様であった。バス停から乗った乗客の一部は、切符を買わずに1階や2階の席に座ってしまう。車掌は今乗った客を目指して、「只今乗った方は申し出を、切符を発売します」と言いながら、階段を上り下りして切符を素早く売りまくっていた。
『申し出しないで無賃乗車しよう』と思っても周りの眼があるし、又そんなケチな了見を持っているロンドン子はいないのだ。常に2階へ行ったり下へ降りたりして、切符を売り廻る車掌の仕事は、私は重労働に見えた。
 このダブル デッカー バスは、『定員数』を越えると乗せてくれないが、特に車掌権限で定員を超えて、乗せてくれる時もある。朝のラッシュ時は満員の場合、停留場で降りる人がいなければ、乗る人がいても通り過ぎてしまう。私もその様な状況に出くわした事があったが、誰も文句を言う人はいなかった。
 バスの乗降口は、一番後ろでステップが一段低く広くなっていて、乗客はそこから乗り降りする。人によっては、バス停留所でない場所で、例えば信号が赤で止まっている時、曲がり角で速度が落ちた時等で、平気で乗り降りしていた。又、車掌は危ない行為をした人に、注意もしなかった。乗客の責任に於いての行為は、万一怪我をしても乗客の責任なのだ。個人の権限と責任、車掌の権限と責任がはっきりしているようであった。
日本の交通労働者は、守備範囲は広く、権限は誠に不明瞭で、責任だけがどっしりと圧し掛かっていた。乗客が危険な乗車や降車して怪我をすると、車掌又は運転手に大きく責任が掛かり、時には業務上過失致死傷罪で逮捕される事もある。
 「交通の主体は交通労働者にあり」の概念は、やはりイギリス特有なものであろう。

私が見た事・感じた事 in London~女性の社会進出の話、接客の話、そして最近の社会情勢の話

2021-10-07 14:59:25 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                    △市民の憩いの場のハイドパーク(PFN) 

・女性の社会進出の話
 ロンドンの街には、多くの婦人労働者が目立った。駅員、バスの車掌や運転手、店員、事務員、マネージャー等々、女性達が色々な分野で活躍していた。彼女達は労働が好きなのであろうか。
 日本では結婚すると主婦業に専念するが、イギリスは社会機構が違って女性に働き易い環境になっているのでしょう。社会福祉と男女同権が確立され、家に閉じこもる必要がないのであろう。しかし、現実は一般労働者にとって共稼ぎをしないと生活は楽ではないから、と私は感じた。    
 いずれにしても、彼女達の働いている姿を見ていると、頼もしさを感じた。

・接客の話
 イギリス人は、ソ連人程ではないが接客は眞にスローモーであった。
レストラン(ウィンピー ハウス レストランの従業員はテキパキとやっていた)へ入って何か注文してもなかなか持って来なかったり、商店で先客の人がいると、その人の用が終るまで次の客の面倒を見なかったりした。先客に割り込むなら、「後で」と言われ、注意されるのがおちであった。
 イギリス人は1人1人の客には親切に対応するが、纏めて、或いは適切な接客サービスが出来ない国民の様であった。
イギリスでは、レストランに入り注文しても、なかなか料理が出されなくても又、店に入って先客がいる場合、相手にされなくても時間や順番が来るまで待つのが心得(マナー)であると承知すべきである。

・最近の社会情勢の話
 今日(1968年10月25日)のDaily Mirror(大衆紙)の紙面は、『学生達がLSE(London School of Economicsロンドン経済大学)を解放』と大きな見出しでトップを飾っていた。
「これは来る27日(日)、このLSEを本拠として、ベトナム戦争とウィルソン政府の対アメリカのベトナム戦争援助に反対して、学生・労働者達を中心に大掛かりなデモが予定される」と掲載されて、それらのデモに関する記事で賑わっていた。
 このディスガスティングなベトナム戦争とアメリカ援助反対デモの計画は、2ヶ月前から予定・準備され、かなり荒れるのではないかと報じられていた。そして結果としてかなり荒れ、大勢の学生・労働者が逮捕されてデモは収束した。
 シーラやレストランの人々の意見は、「彼等は戦争反対、平和と言っていながら、自分達自身が勝手に〝戦争〟(デモによって警官隊と衝突し、大勢の負傷者を出していると言った意味)を起こし、一般市民を巻き込んでいる。ナンセンスである」と言って、このデモには賛成していなかった。
 その他に新聞紙面を賑わしている記事は、ジャックリン ケネディさんとオナシス氏の結婚に関する記事、ローデシア問題、そしてメキシコ オリンピックの話題であった。そうそう半月前、Mrs. Sheila(私のシーラと同じ名前)と言う婦人が6子の赤ちゃんを産んだ、と言う事でも話題を呼んでいた。
 毎日、新聞を読んでいた訳ではないが、火事、殺人や強盗事件、或いは自殺の記事について、殆んどお目に掛かった事はなかった。そして、あれだけ自動車が街に溢れ、時には車も人も信号を守っていないのに、それらの交通事故の記事、或いはあれだけダブル デッカー バス(赤い二階建てのバス)が走って多くの人々が飛び乗り、飛び降りしているのに死傷事故の記事等がないのが不思議であった。イギリス人の交通道徳の高さが証明されているのか。 
 今日10月25日現在、メキシコ オリンピックで日本とイギリスは、仲良く金メダルを4個ずつ取った。最近どうも米ソが余りにもメダルを取り過ぎて、このオリンピックの世界に於いても二極化が激しくなっているようだ。私は、「日英ともがんばれ」と応援したい心境であった。

私が見た事・感じた事 in London~「私はイギリス人か」の話とギリス人の質素・経済的(ケチ)な話

2021-10-06 21:28:40 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
    △タワーロンドン

・「私はイギリス人か」の
 日本での異国人(この場合、白人を指す)は、見立つ存在であった。しかしロンドンに於ける日本人である私は、そんなに目立つ存在に感じられなかった。
 ロンドンには色々な人種が住んでいた。特に目立ったのがアフリカ人(どこのアフリカ人分らなかった)、インド人、パキスタン人等であった。やはり多くの植民地を獲得していた、或は、七つの海を征服した過去の栄光の影響なのであろう。
 そのお陰か、私に対し最初から、「何人か」と聞かれた事は1度もなかったし、私も意識して日本人である、と言う事もなかった。
 そんな理由からか街を歩いていると、私の顔、意識も自分自身イギリス人であるかの様に錯覚する時もあった。部屋に帰って鏡に映る自分の顔を見たら、どことなくイギリス人の顔に成りつつあると感じられた。

・ギリス人の質素・経済的(ケチ)な話
 イギリス人をケチに感じたのは、間違いであろうか。パブでの彼等はビールを飲むのではなく、時間をかけて舐めるように少しずつ飲んでいた。彼等はビールを飲みに来るのではなく、安く時間を潰せてお喋りしに来ている、と私は判断した。
それから、イギリス人のタバコの吸い方だ。彼等の吸い方は、「もう吸えません」となる様な根元まで吸って、半分程度なら捨てずに元の煙草入れに戻し又、後で吸うのであった。その証拠に、街を歩いていても半分程度吸った吸殻は、落ちていなかった。落ちているのは、殆ど根元まで吸った吸殻であった。タバコが高い所為か、ケチな吸い方をしているのであった。中には刻みタバコを買って、自分で紙を巻いて吸っていた。
 まだある。彼等の買物は念が入っていた。高い物を買う訳ではないのに品物選びに時間をかけていた。イギリス人は安くて良い物を選ぶ、経済的な国民でした。
 又、買うお金がないのならいざ知らず、ヨレヨレのコートや服を着ている人がやけに多かった。一部を見て全体的な判断は良くないが、何となく質素倹約的、悪い言い方をすれば、ケチの様にも見えた。イギリス経済は斜陽化し、服も買えなくなってしまったのか。


私が見た事・感じた事 in London~テレビの話と酒場の種類の話

2021-10-06 08:35:05 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・テレビの話
 イギリスのテレビ(TV)は、3チャンネルしかなかった。その内の2チャンネルは国営放送である。従って民間放送は、1チャンネルだけであった。
それに引き換え日本は、1~12チャンネルまでの間に6~8チャンネルもある。選択幅が出来て見たい番組が多くなったその分、視聴者にとって有益になっているのであろうか。否、逆になって来ているように私には感じられた。  
 私が会社の寮に入った当時(昭和38・9年)は、食堂に1台TVがあっただけで、そのTVを皆で仲良く見ていた。当然、個々のチャンネル権はないので、現在映し出されている番組を皆で見て楽しんだ。しかし個人的に夜7時から○○がある場合で是非見たい時は、「皆さん、7時から○○があるのでチャンネルを回したいのですが、宜しいでしょうか」と他の寮生にお伺いを立て、皆の意向でチャンネルが変わった。そして、皆でTVを楽しみ、その番組を通して寮生同士の会話がそこに成立していた。
 しかし私が寮を出る昭和43年頃は、部屋に各自がTVを置き、個々で見るようになった。当然、食堂での寮生同士の会話がなくなり、食事が終るとサット自分の部屋に引き上げ、閉じこもるようになった。公休日になっても、朝から晩までTVにかじり付いている寮生が多くなった。食堂での寮生同士の触れ合い、会話もない、殺伐とした感じの寮に変わってしまった。
 本題に戻るが、チャンネルが多いから良い番組も多いという訳でなく、多い分くだらない低俗番組が多くなって来たのも事実であった。私を始め、多くの日本人は分っているのだが、「その気安と手短に時間が過ごせる」と言う事で、それら低俗番組から逃れられないでいた。
 イギリスのTVは、自分の見たいチャンネルや番組が少ない所為か、シーラの家族は殆どTVを見ていなかった。シーラの家に滞在中、一番見ていたのが私でした。
テレビでしか時間を過ごせない日本人(私)は、テレビに喰われてしまったのだ。イギリスにいると、くだらない情報と低俗番組を見て楽しんでいる日本人の末が、思いやられそうな気がして来るのだから不思議でならなかった。

・酒場の種類の話
 ロンドンには飲み屋がパブしかないが、東京には養老の滝の様な大衆居酒屋から、赤提灯、小料理屋、割烹料理屋、バー、サロン、キャバレー、スナック等色々な店がたくさんある。飲み方、酒の肴、雰囲気、色気、値段等で我々は飲み屋の行き先が変わる。要するに選択幅が広いのだ。
しかしその反面、歓楽街はサロン、バー、キャバレーの赤い灯青い灯の看板やネオンで、けばけばしさがあった。そしてそこへ行くのは若い人やサラリーマンが結構多かった。
 ロンドンの若者がパブで飲んでいるのを殆んど見掛けなかった。何故ロンドンの若者は、酒で憂さを晴らす事をしないのか、不思議であった。飲む金がないのであろうか。ビールなんて安いから金ではない、と思うのだ。 
 そして、彼等の飲み方(スタイル)は、ワンパターンで酒のツマミも無く地味であった。


私が見た事・感じた事 in London~トイレの話と交通マナーの話

2021-10-04 11:46:42 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
    △ロンドンのハイドパークのアヒル

・トイレの話
 ロンドンでは、街の中、地下鉄の駅や国鉄のターミナル以外の駅、又はレストランでもトイレが無かった。私が働いていた有名で客席が多いいウィピー ハウス オックスフォード店でもトイレは無かった(でもスタッフ用のトイレはあった)。従って街に出かけた場合は実に不便であり、出たくなってからのトイレ探しはもう大変であった。
イギリス人はおしっこ、うんこをしない国民なのか。そんな事はない。それでは必要がないのか。
 日本では公共的施設はもちろん、デパート、レストランやラーメン店さえ必ずトイレはある。だから日本人(私)は出掛ける際、出そうな感じがしなければトイレへ行かないが、出たくなったら辺り構わず、動物的にその辺りのトイレへ駆け込む。
 シーラにこの件について話をしたら、彼女は「私達は出そうな感じがしなくても、出掛ける前に必ずトイレへ行っておく習慣がある」と言っていた。成る程と思った。イギリス人は出掛ける前に、『自己防衛』をしているのであった。

・交通マナーの話
 イギリス人は、礼儀や守るべき事は守る国民であるが、交通信号の赤信号を守らない国民の様であった。
例えば、信号が赤の時で車が来ない場合、歩行者は平気で信号無視して道路を横断していた。又、ドライバーも、歩行者や他の車がない場合、当たり前の様に信号無視して進んでいた。
 交通ルールを守らないで、新聞、TV等に交通事故のニュースがないのが不思議なぐらいであった。彼等は安全が確保されれば赤でも行ってしまうが、決して無理な横断や運転はしていないのであった。
 イギリスだけでなく、私はヨーロッパ各国の車をたくさん乗った経験がある。ヨーロッパの人々は、決してスピードを出さず、安全運転に徹していた。だからこそ赤信号でも時には、『進め』になるのであろう。
 信号を守って道路横断や車を運転して事故が起きている日本の国は、いったいどうなっているのであろうか。益々、交通戦争が激しくなっているのが現状であるのに・・・。


私が見た事・感じた事 in London~女性優先の話と老夫婦の話

2021-10-04 09:36:31 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
  △タワーブリッジ(PFN)

・女性優先の話
 ロンドンの男性は、女性にとても親切にしていた。バスや電車内では優先的に女性を座らせるし、乳母車を引いた婦人がバスに乗車する時、或は街の中の階段を利用する時等、見知らぬ男性がサット乳母車を持って手助けしていた。なるべく婦人を労わるその立ち振る舞いは、立派であると感心した。
 ある時、私は乳母車を押して階段を利用しようとしている若い婦人を見掛けた。サット手を差し伸べ、彼女と一緒に乳母車を運んだ。「Thank you」と言われ、何か良い事をした様な、爽やかな気持になった。

・老夫婦の話
 公園でも、街の通りに於いても、老夫婦が仲睦まじく手を取り合って歩いている姿をよく見掛けた。その姿は若い男女がしているよりも、何かお互い人生を生き抜いて来た安らぎさがあり、人々に仄々(ほのぼの)とした印象を与えていた。
 もし日本で、(老)夫婦が手を繋いで、或いは腕を組んで街を歩いていたら、なにか様似ならないのはどうしてであろうか。江戸時代の武士は、絶対に妻や女性と一緒に歩かなかった。昭和になっても妻は人前では決して夫と手を繋いで、或いは腕を組んでデレデレして歩かないのが普通であり、又「妻は7尺下がって夫(師)の影を踏まずに後に付いて行く」と言う風習があるからか・・・。


私が見た事・感じた事 in London~心のゆとりと感謝の心の話

2021-10-03 07:27:00 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・心のゆとりと感謝の心の話

 Londoner(ロンドン人)は、駅構内、列車内、バス車内、或は街を歩いている時、日本人と違って人を押し退けてでも先に行こう、と言ったせせこましさはなく、時間的余裕を持った人々の様に見うけられた。
 
 又、感謝の言葉を常に発していた。例えば、肩等が触れ合った時、彼らは素早く「Excuse me」と言っていた。それに引き換え、我々日本人は肩をぶつけても、知らん顔で行ってしまう。無礼千万が罷り通っているのが現状であった。
 
 感心する事は、乗車券を発売・改札してもらった時、バスを降りる時、乗客が駅員や車掌に「Thank you」とお礼を言っている点であった。それから買物した時、レストランで注文の料理が出た時、お金を払って去る時、道を尋ねた時、人に何かをしてもらった時等、ロンドン人は自然と感謝の言葉を店員さんやウェイトレスさんに表していた。日本は私を含め「ありがとう」の言葉は無かった。

 『ロンドン人の心の広さ』、『相手の立場や人権を尊重する国民』だとつくづく感心させられた。


私が見た事・感じた事 in London~制服とイギリス紳士の話

2021-10-01 14:30:53 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・制服とイギリス紳士の話

 イギリス人は制服好きな国民のようであった。衛兵を始め、警察官、鉄道係員、バスの運転手や車掌、ウェイトレス、そして無断駐車を取り締まる婦人係員(女性警察官ではない。無断駐車をしている車に違反切符を発行している婦人)まで制服を着用していた。
衛兵でも制服は異なるが、バッキンガム宮殿の衛兵、ホース・ガードの衛兵、そしてロンドン塔の警備兵(ビーフィーター)の制服は、特に格好が良かった。
 日本でも制服が統一化、平均化している様であるが、イギリスの彼等の制服の方が、何となく似合っていた。制服の本場、発祥地はイギリスであるから、それは仕方がなかった。
 「イギリス紳士の制服」と言えば、背広に山高帽子、そして手にステッキ(小雨が多い所為か、ステッキの変わりにコウモリ傘を代用)を握っている。そんなイギリス紳士のスタイルを映画等で何度も見た事があった。
 そしてロンドンに於いても、私は背広に山高帽子そして手にコウモリ傘の紳士を何度か見掛けた。しかし伝統と歴史を重んじるイギリスで、しかもロンドンのシティ(商業経済の中心地)や繁華街に於いても、彼等と出会う(見掛ける)事は難しい確立になっていた。
 ビートルズやヒッピーの時代になってしまい、これも時代の流れなのか、ステッキを持った背広に山高帽子の紳士達は、何処へ行ってしまったのでしょう。