YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

モスクワの旅~置いてけぼりになる

2021-07-18 07:57:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月18日(木)晴れ(置いてけぼりになる)
  
           △赤の広場にて

 今日も観光バス(愛称カモメ号)で市内観光をした。案内役は昨日の女性であった。市内観光が終り、午後0時30分頃に赤の広場の指定集合場所に戻ると私と橋本さんを残し、バスは既に行ってしまった。2人で如何しようか話をしていたら、暫らくしてJTB現地付添人の清水さんが戻って来た。そして3人は市内循環バスでホテルに戻った。お陰様で私はモスクワのバスに乗車する事が出来て、良い体験をした。ホテルに戻った後、私と橋本さんは遅い昼食を取った。グループの仲間は、日本とソ連の社会の仕組みについて話し合っていた。
  「ソ連は車に優先権があるので、車に轢かれないように十分注意して下さい」と出発前の説明会で注意を受けていた。従ってこの国では、歩行者が車に注意を払うので返って事故率が低いらしい。車優先とは、如何にも社会主義国ソ連らしいが、歩行者優先とどちらが良いのであろうか。それにしてもモスクワの道路の整備状況は、日本と段違いであった。歩行者専用路(歩道)は自動車専用道路とはっきり分けられ、しかも広すぎるほど十分取ってあった。広い国の社会主義国だからこそ出来る事なのだ。そして自動車台数も東京と比べてモスクワは少ないので、日本と逆な制度も可能なのであろう。


 △アルハンゲリスキー大聖堂にて~日本人が珍しいのか「ヤポンスキー、ヤポンスキー」と言って私に群がるウクライナから来たピオネール(ソ連共産主義同盟少年少女の組織)の子供達。
 
 今夜、モスクワからレニングラードへ行くので、午後は日記を書いたり、友達、家族、そしてシーラに手紙を書いたりして過した。その後、ウクライナホテルで最後のデナーを楽しんだ。食事はいつもフルコースであった。スープ(ボルシチ)で始まり、果物、ティーで終った。船上で初めてロシア料理を口にした時、口に合わなかったが、今では美味しくいつも楽しみであった。同行仲間の話しによると、街のレストランは注文してから料理が出るまで2時間近くかかったそうだ。そしてウェイトレスの接客も悪かった、と悪評であった。それに反してここのホテルのレストランは、料理を始め、ウェイトレスの態度、機敏な仕草等には感心するほどで、全く不満は無かった。多分、『外国のお客様に不快な思いをさせないように、ソ連の良い印象を持って貰おう』と言う政府、或いはインツーリストの計らいなのであろう。お陰で私は楽しいモスクワ観光やホテル滞在が出来てインツーリストに有難う、と言いたかった。                                                           
 午後10時55分、モスクワのレニングラード駅からレニングラードのモスクワ駅に向けて列車は出発した。楽しいモスクワの思い出を乗せて・・・。不思議な事に、ソ連では出発地の駅名が到着地の地名になっていて、到着地の駅名が出発地の地名になっていた。初めての旅行者はまごつくであろう、と思った。


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