YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

死海へヒッチで行こうとしたら・・・~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-28 14:11:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
   △ラクダ、ロバ、そして羊の群れが行き交う~ベエルシェバの郊外にて。

・昭和44年1月11日(土)晴れ(死海へヒッチで行こうとしたら・・・)
 昨日、仕事が終ってからエンディとDead Sea(死海)へ行く予定であったが、取り止めたので今日、私1人で行く事にした。
  6時半に起き、朝食を軽く取ってキブツ前からヒッチをした。キブツ前の道は、日中でもポツンポツンと車が走っている程度であった。この道の左方面はネゲヴ砂漠へ、そしてアカバ湾に面するイスラエルでも南の重要な港Eilat(エイラト)へ通じる道であった。20分位待って右方面の車をゲットし、ベエルシェバに着いたのは8時であった。                                                                           
 歩いて町の郊外へ出た。死海への道は未舗装(土漠の道)であった。イスラエルは人々、建物、社会生活、そして雰囲気も西洋的な感じがするが、ここは確かにアジア地域であり、アラブ、若しくは中東的な雰囲気が漂っていた。泥で出来ている家々、通りはラクダ、ロバ、羊の群れが行き交い、その糞の臭いが漂っていた。人々はイスラエル人の他に、パレスチナ人やアラブ系の人も多く見られた。
ヨーロッパ的環境(西欧社会)から急にアラブ的環境(アラブ社会)に変わると、私の感覚は付いて行けなくなり、チョッピリ不安な気持がした。おまけにヒッチを開始してから1時間過ぎても、2時間過ぎても、私を乗せてくれる様な車は、1台も通らなかった。
 私が街道に立っていると、イスラエルの軍人が近寄って来た。彼と2言3言、言葉を交わしたら、「シェルート(乗合タクシー)で行け」と2ポンド渡され、断る暇もないくらい素早く去って行った。私がお金を乞う仕草をしたり、言葉を発したり、或いはお金に困っている顔をしたりした訳でもないのに、如何して彼はお金をくれたのか、私は分らなかった。日本でも『困っている人を見掛けたら手を差し延べる』と言う道徳的観念がある。確かになかなか車が停まってくれないので、困っている様な顔をしていたかもしれなかったが、お金に困っていた訳ではなかった。ユダヤ教の宗教心やその教えからなのか、或はユダヤ人の道徳心からこの様な行為となったのであろうか。それともここから先は軍の監視が行き届かない危険な地域なので、「シェルートで行きなさい」と言う警告の意味であったのか。いずれにせよ死海へのヒッチの旅は、時間が経つにつれて『楽しみからチョッと不安、不安から心配へ、そして危ないかも』と私の心は移り変わっていた。
  街道に立ってから2時間半過ぎた頃か、乗用車が向こうから遣って来た。私は例の如く、ヒッチ合図をその車に送った。車が停まり、中に3~4人の男達(私はヨルダン人と見た)が乗っていた。彼等は、頭を布(クゥトラ)で覆って、体全体を純白な布を被ったアラビア風の格好(カンドゥーラ)をしていた。そんな恰好をしていたドライバーが車内から出て来た。
私は英語で、「死海へ行きたいので、乗せて下さい」と彼にお願いした。
「死海まで連れて行ってやるから、金を出せ」と言った。ヨルダン人にしては上等な車に乗り、英語が話せ、しかも身なりも立派そうであるが、「金を払えば乗せる」と言うのであった。
「私は貴方の車に乗りません」と言って、彼に行く様に促した。
「私の車を逃したら、この道は車が走っていないから行けないぞ。それでもいいか」と彼は言い残し、土煙を巻き上げて走り去って行った。
 あのヨルダン人の雰囲気は、イスラエル人やヨーロッパ人とは一寸違うのであった。アラビアン ナイトの強盗団ではないが、もし乗ったら有り金を全部巻き上げられ、砂漠の中に放り投げられる様な、そんな感じがした。そして私の心は、終に『危ないかも』から『危険』に変わった。時刻は既に11時を過ぎた。3時間経っても一向に前に進めなかった。こんな状態で、もし行けたとしても、今日中にキブツへ戻れるのか分らなかった。しかも、明日は私の最後の農作業日なので、100%戻りたかった。この様な状況や条件が、私の死海行きを断念させ、キブツに戻らしてくれた。
  午後、ナンシー、ジョアン、そしてエンディと写真を撮ったりして過ごした。


    △左から私、ナンシーそしてエンディ~私の部屋の前にて



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