・昭和44年3月21日(金)晴れ(病院と保険会社へ行った)
今日は抜糸の為、病院へ行く日で、美人ナースに会えるのを楽しみにしていた。しかし今日はあの美人ナースに会えなかった。他のナースから包帯を取り替えながら「大分良くなって来たから、もう来る必要はありません。」と言われ、私は美人ナースに2度と会えなくなってしまった。
病院から治療証明を貰って、保険会社へ休業補償手当の申請に行った。「来週の水曜日に支払われる。」との事であった。
私の滞在期間は4月7日まであるが、何にも出来ないで半月が過ぎてしまった。滞在期間延長して貰いにダーウィンの政府移民局へ期間延長しに行った。もっと長い滞在期間をお願いしたのであったが、1ヶ月間延長のみの『5月7日まで』であった。それでもダーウィンで期間延長が出来て一安心、まずは良かった。でもダーウィンに滞在していては、安定した職を得られず、駄目である事がヒシヒシと感じられる今日この頃であった。
・昭和44年3月24日(月)晴れ(小言を言われ、ばか呼ばわりされての大工仕事)
傷も癒えたので早々、エイジェンシィへ行ったら大工仕事があった。大工と言っても私の仕事は、その物真似の様な仕事であった。仕事中、彼等の話す言葉が良く理解出来ず、仕事の手順・方法が上手く行かず、文句を言われたり、ばか呼ばわりされたりした。金が欲しかったので我慢したが、それにしても悔しいー○△□×‼。
外国生活も長くなって来て、それなりに英語は上達したが、オーストラリアの田舎者が話す英語は、イギリス人やアメリカ人が話す英語と違うので、理解出来ない言葉が多くあった。暑い中バカだ、チョンだと言われたが、昼に業者から奢って貰ったビールは旨かった。一日の仕事が無事に終わり、今日は12ドル貰った。
ダーウィンの町は、人口や町の規模が小さい割に臨時労働者が多い為、競争率が激しく、エイジェンシィの就業斡旋率は悪かった。仕事が有ったり、無かったりのその日勝負の毎日では、落ち着いて居られないし、金も貯まらなかった。そんな理由で、『ダーウィンを去ろう』とこの前からそれを考えていた。
それに、ここダーウィンは大使館や領事館が無く又、アメリカや日本を結ぶ海路・空路が無いので、次の旅や帰国の準備地にもなり得なかった。シドニーへ行かなければ、何にも手続き、行動が出来ない町であった。