ナカナカピエロ おきらくごくらく

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overdose

2010-12-26 11:22:21 | 日記
overdose

私は鬱病患者である。
正確には躁鬱病と言うべきかもしれない。

2004年に発狂して以来、現在まで治療中の状態である。
会社に復職しては何度も失敗し、やっとこの一年間、鬱になる前の状態に戻れたと安心していたが、3ヶ月前に再び発狂。現在休職中で、来年また復職する。

overdose。
友人から言われた言葉。確かに私は全10種類ぐらいの薬を朝・昼・晩・就寝前に分けて飲んでいる。それでも何年も苦しい時をかけて薬を変えては調合してもらい、最小限度に留めて”これ”なのだ。ここまでくる過程で、私は様々な副作用に悩まされた。舌が乾く、便秘する、視力が落ちる、健忘症になる。でももっとも苦しかったのは、手足の震え。アルコール中毒者のように手足が震えて、キーボードが打てない。階段が下りられない。自分の名前すら書けず、私は何度も自分の名前を書く練習を毎日した。
ようやく副作用が消えたとき、雲が晴れるように私の頭は覚醒し、元に戻ったのである。
それでも病は完治せず、2010年に再び発狂し、休職の事態となり、静養を余儀なくされた。多分、一生、私はこの病と付き合っていかなければならないのだろう。

そこで、私はこの病と対峙することにしたのである。

まず私は内面的な観点から、この心象風景を捉えたいと思った。世の中には、鬱病に対する数多の本が存在しているが、その殆どが外側から見た精神病理的な症状の説明に終始し、内面的な”鬱”という現象の本質が見過ごされていると感じたからだ。私は、この心象風景を詩に託した。「屋上の幻想」に収録されている「雑記」がそれだ。多分これを読んだことのある人は、誰もが不愉快な体験をするだろう。まさしくそれが狙いなのだ。この詩によって誰もが鬱に直面している精神的鬱の描写を読者の内部で体験する。”鬱”の疑似体験なのである。

そしてもうひとつは、人生のライフワークとなるであろう人間の精神構造の追究を掲げたい。それには哲学的なアプローチが必要だ。発狂するということはどういうことなのか。そこでは、まず存在そのものを追究するところから始めなけえばならない。学生時代、ハイデガー、ラカン、ニーチェ、ビィトゲンシュタイン等の原書や解説本等を好んで読んでいたが、再び手に取る日が来たのである。

私はここである本と出会う。
その本は、NHKの「私の1冊 日本の100冊」という番組で、玄侑宗久という作家が紹介していた「時間と自己」(著者:木村敏)である。そこに記載されている「鬱病者の時間」の節には、見事なまでに的確な表現で内部的な”鬱”の深層を紐解いている。

そして私の探究は今日も続くのである。
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