古武術の甲野善紀師範と
韓氏意拳の光岡英稔師範
の対談本がある。
「武学探求
-その真を求めて」
甲野善紀/光岡英稔
著(冬弓社)
「武学探求 巻之二
-体認する自然とは-」
光岡英稔/甲野善紀
著(冬弓社)
この書の中で甲野師範は、
光岡師範を天才と呼び、
韓氏意拳を出会った武術
の中で最高のものと
最大限に評価している。
たとえば、
「光岡さんの動きの質が、
今まで私が縁あって
触れさせていただいた
方々のなかでも抜群の
ものがあった」
「韓競辰老師に
お会いしたことは、
私にとって
昭和53年(1978年)に
松聲館道場を建てて以来、
最も大きく自らの稽古を
見直すきっかけと
なりました」
とある。
また、光岡師範の言葉
として、
「僕が初めて中国で、
韓星橋老師と韓競辰老師
から教えを受けたとき、
僕は日本に帰国してすぐ、
これまで自分の教えていた
生徒たちに、
『今日まで学んだものは
すべて捨ててください。
今日からは韓氏意拳の
練習をします。
うまく説明できませんが、
その方が本質に近いように
思うんです。
とにかくこれからは
韓氏意拳をやります』
と伝えた」
と、
大東流の岡本正剛師範の
弟子で、
大東流合気柔術六方会の師範
であった光岡師範が
大東流を捨てて韓氏意拳に
帰依するようになったことが
書かれている。
なお、本書では、
宇城憲治師範や黒田鉄山師範の
名前も出てくる。
(なぜか、柳川昌弘師範の名は
出てこない。
甲野師範が柳川師範の
凄まじい突きを体験し、
両師範が対談したことは、
「続 空手の理」
(柳川昌弘 著、福昌堂)に
詳しい。)
上の2冊の対談本では、
決して、
宇城師範や黒田師範や
岡本師範をディスっている
わけではなく、
むしろ、高く評価している
のであるが、
甲野師範が韓氏意拳と
光岡師範を持ち上げすぎて
いるために、
読みようによっては、
韓氏意拳・光岡師範の方が、
心道流空手・宇城師範や
振武館武術・黒田師範や
大東流・岡本師範よりも
優れているかのように
読めてしまう。
このような表現がされている
のは、おそらく、
ある意味韓氏意拳に帰依した
立場である甲野師範としては、
バランスを取っておく必要が
あったのだろうと思われる。
それは、こういうことである。
甲野師範は黒田師範とも
対談本を出す親しい仲
であった。
「武術談義」
黒田鉄山・甲野善紀
(壮神社)
この黒田師範は、
フランスに振武館武術を
教授しに行っていた時期が
あり、
フランスでの合宿の内容を
まとめた
「消える動きを求めて
鉄山パリ合宿記」
(振武館 黒田鉄山 著、
合気ニュース)
という書がある。
この書の中に、
「フランス大成拳(意拳)
学会」会長
であった植村茂師範のことが
書いてある。
(フランス合宿は、元々、
植村茂師範と時津賢児師範の
ために行ったものであった)
植村師範は、意拳の世界では
著名な師範で、
北京で行われた意拳の世界大会
に招待されるような方であった
のだが、
(この書は、この書で、
植村師範の台湾での
エピソードなどを
出して、
植村師範のことを
天才的と表現している)
黒田師範の振武館武術に出会った
ために
意拳を捨てる決意をしたのだ。
そのときのことが上の書に
こう書いてある。
「いつもなら快活に冗談まじり
に話をする(植村)氏が
腕組みをしたまま眼を食卓に
落とし、何事かを思案している。
何度もため息をつき、
口を開きそうになっては
言葉を呑み込んでしまう。
何か言いにくいことでも
あるのだろうか。
宿代が足りないから
貸してくれとか、
私への講習会の謝礼を
使い込んでしまったとか。
いやそんなことではないだろう。
(中略)
そのうち、ふと植村氏が
何事かを決心したように、
口を開いた。
中国拳法をやめる
というのだ。
まだ、ようやく二回目の
合宿が終わったばかり
だというのに、
今回の稽古で何が
そのような気持ちの変化を
起こさせたのだろうか。
(中略)
空手一筋にやってきて
パリで生活できるように
なった時、
中国拳法に出会い、
空手を離れたこと。
そして、その中国拳法も
道半ばにして
振武館の武術に出会ったこと。
その結果、自分として
行くべき道をここでまた
大きく変えざるを得なく
なってしまったこと
などをぽつぽつと話された。」
「植村氏の手紙にあったとおり、
いま彼女は拳法のけの字も
やっておらず、
もっぱら剣、柔、居の稽古三昧
とのことであった。
それゆえ稽古を始めて間もない
彼女ではあったが、
居合の稽古において私の浮身を
眼をまるくして
はっきりと見て取った。
私が座構えをとり、浮身をかける。
だがその姿勢はまったく動いて
いないのだ。」
「植村氏は、『もう十年。
なぜもっと早く(黒田)先生に
出会えなかったかと
悔やまれてならない。』と答えた。
しかし、もう十年前の
私だったら・・・・・。
やはり出会うべくして出会う機会
というものがあるのである。
今回、氏は北京での意拳の
世界大会に招待されている。
あまり、乗り気ではないのだが、
やむを得ず出席するという。
22日にこちらを発った。」
すなわち、
黒田師範の上の書には、
意拳の著名な師範が
意拳を捨てて
振武館武術に帰依する
ようになったと
書いてあるのだ。
さらに、
大東流合気武術宗範であった
佐川幸義師範は、
意拳について。
次のように述べている。
「こんな格好で体が鍛えられる
わけないでしょう。
疑問を持たないのかね。
だいたい止まった形で
いくら鍛えても駄目なのだ。
動きの中で鍛えて
いかなければ意味がない。
あんなことをいくらやっても
何もできるようには
ならないよ。
それから、技は自然にやる
というようなことを
言っているが、
その一言だけで駄目だと
分かってしまう。
ただ、自然にやると
言ったって、
噛みつくか、抱きつくか、
蹴るか殴るか突くか位しか
思いつかないでしょう。
(中略)
先人の残したもの、
先生からヒントを得たり
していかなければ
思いつくこともできない。
そんなことが分からないのは
どうかしている。
ただ自然にやれば良いなんて
まるで理に合わない。」
(「透明な力」木村達雄
著(講談社)76ページ)
↑
P.S. 後日、実は、なんとなんと、
意拳の創始者である王薌齋老師
自身が、佐川師範のこの発言と
同じようなことを言っていたのが
判明した。
言っていた」を参照のこと)
黒田師範と親交のあった
甲野師範は、
当然、黒田師範の
上の書(「消える動きを求めて」)
を読んでいるはずである。
この書では、上に抜粋したように、
意拳の著名師範の行動を通じて
振武館武術の方が意拳よりも
優れていると読めるようなこと
が書いてあるため、
韓氏意拳に帰依した甲野師範
としては、
意拳を持ち上げてバランスを
取らなければという思いが
意識的にか、無意識的にか
出たのではないかと思われる。
また、
佐川師範の「透明な力」は、
武道界において結構な
ベストセラーになって
しまったので、
やはり、「透明な力」に
書かれていることを
放置しておくわけには
いかなかったのだろう。