はるか昔のことはいざ知らず
昭和50年代には、
中央大学法学部の偏差値は
早稲田大学法学部の偏差値より
若干低かった。
しかしながら、
中央大学は、1989年(平成元年)
に早稲田大学に抜かれて以降に
司法試験合格者数万年3位になる
までは(旧司法試験の終盤には、
4位、5位が定位置になったりも
したが)、
東京大学と1位、2位の合格者数争い
をしていた。
昭和50年代の半ばに、大学入試偏差値で
慶應義塾大学法学部に抜かれてからも、
約14年間は、司法試験の合格者数で
慶應大に抜かれずに万年3位の座を
守った。
既に、昭和50年代には、
大学受験偏差値では早大法に負けて
いた中央法が
なぜ司法試験でこれだけの実績を
残せたのかを考察する。
考 察
その1
まず慶應義塾大学についてだが、
慶應義塾大学法学部の偏差値は、
昭和50年代半ばまで低かった。
当時の慶大法は、大学受験で
数学が必須であったので、
偏差値的に低めになるのは
仕方ない面があったが、
そのことを考慮しても早大法、
中大法に比べると偏差値が
低かった。
私が通っていた河合塾で渡された
偏差値ランキング表(「栄冠を
目指して」だったっけ?)でも、
慶大法の偏差値は、明治法や
同志社法と同等で、
受験生の意識としても、
慶大法は、東北大や名古屋大などの
地方旧帝大の滑り止めには最適だが、
東大や京大の滑り止めにするには、
ちょっと不足感があった。
東大、京大、一橋大などを目指す
上位受験生には、
慶大法学部は、アホウ学部などと
言われて揶揄されていた。
大学入試での偏差値が低かったの
だから、
慶應が、司法試験合格者数で中央や
早稲田に負けていたのは当然のこと
だった。
その2
次に、昭和50年代、偏差値的に
早大法に負けていた中大法だが、
明らかに偏差値で負けていたのは、
学生のボトム層であって、
トップ層の学生を比較すると、
中大法の学生は、早大法の学生と
同等か、学生によっては、それ以上
だった。
まず、当時、偏差値的には早大に
抜かれていた中大法だが、それでも、
早大などの合格を蹴って中大法に入学
する学生がいた。
私は、学生時代に2つのゼミに所属
し、いずれのゼミも、教授が司法試験
委員経験者で、
(一人は、現役の司法試験委員だった)
中大法の中では入るのが相当に難関な
ゼミだったのであるが、
(私の学年の中大の首席卒業は、同じ
ゼミの仲間だった。)
この2つのゼミのいずれにも、当時、
慶應の看板学部だった慶大経済を
蹴ったり、早大政経・法を蹴ったり、
上智法を蹴ったりして中大法に入学して
きた者が何人もいた。
(駿台や代ゼミでは、慶應経済・商
・法や、早大商・教育などは、
そもそも偏差値自体が中央法より
低かったし。
P.S.
当時の偏差値ランキングについては、
を参照のこと〈2022.11.21〉)
同じ語学クラスや、大学時代に知り
合った友人の中には、
北大、東北大など旧帝大の合格を蹴って
中大法に入学してきた者もいた。
また、法曹志望の地方の高校生が
東京の大学の法学部を受験する場合、
国立は、東大文1か一橋法、
私立は、中大法を受験するという
パターンも多かった。
(一橋大は、司法試験合格者の
絶対数は少ないが、
合格率が高いと言われていた。)
私と同世代(同い年?)で社会人
になってから司法試験に合格した
佐藤泉氏(東大法学部卒)も、
著書である「女・35歳と司法試験」
の中で、金沢の高校生時代に、
「是非とも弁護士になりたい。
そのためには大学は、東大法学部
か中大法学部でなければならない。」
と考えていたと書いている。
「女・35歳と司法試験」佐藤泉著
(早稲田経営出版)
更に、早大法に落ちて中大法に
入学した学生であっても、東大、京大
などの国立大学が第一志望だった者も
多かったので、
私立大学文系専願(当時は多かった)
で、早大法に合格した者よりも
ポテンシャルが高い学生も当然にいた。
実際、私より成績が悪かった者で、
私大文系専願にして早稲田の文系に合格
した者は数多くいる。
(当時は、今ほど、東京の私大入試が
激烈ではなく、東海高校の文系A群の
生徒が私大文系専願にすれば、
早稲田大学の昼間部(当時は、社会
科学部は夜間部だった)のどこか(最
悪でも第一文学部とか、教育学部とか)
に受かるのは当然という感じだった。
文系A群で、東海時代に、私より成績
の良くなかった同級生が二浪して
東大文1に入ったのを聞いたときは、
「ようやるわ」と思ったが、こいつも
東大文1は二浪したが、現役のときに
早稲田政経に合格していた。)
このように、偏差値的に早大法に
抜かれていた時代でも、
昭和50年代の中大法の学生のトップ層
は、早大法の学生のトップ層と同等か、
あるいはそれ以上の学力があった。
どの大学も、トップ層の学生で
なければ司法試験に受からないので、
トップ層の学生のレベルで早大と遜色
がなかった、あるいはそれ以上だった
中大が司法試験合格者数で実績を
残せたのは当然のことだったのだ。
(旧司法試験は、東大でもトップ層の
学生でなければ合格できなかった。
荘司雅彦弁護士(東大法卒)の著書
「超合格法」には、東大理3生で、
医学部進学から旧司法試験に転向し、
旧司法試験に受からないまま10年以上
経過して行方知れずになった人を
2人知っていると書いてある。
当時は、東大理3に「理系の最高峰
を制覇したのだから、文系の最高峰
も制覇しよう」という趣旨で、
旧司法試験を目指すサークルみたいなの
があった。
その中には、旧司法試験にのめり込んで
しまう理3生がいたのだ。
難関大学医学部の学生なら、本気で
勉強すれば、ほぼ確実に現行司法試験に
短期合格できる現在とは様相がかなり
異なる。
また、
灘校から現役で東大理3に
合格したオウム真理教のI氏は、
東大を自主退学した後、中大法学部に
入学し、旧司法試験を目指したが、
難しくて合格しそうになかったので、
あきらめ、
九州大学医学部受験に転向して、
九大医学部に合格した。)
その3
それに、偏差値が早大法より若干低い
とは言っても、
東洋経済の記事に、
「MARCHの中で1980年代に偏差値70
を超える学部は、
中央法学部しかなかった。」
とあるように、当時は、なんだかんだ
言っても、
中央法は、マーチの中では突出した
偏差値であり、偏差値表によっては
早大法と同等だったり、
早大法より上になっているものすら
あった。
たとえばこれ(なんとこれは2013年
の偏差値表だ)
↓
当然、中央法に落ちて、早稲田法に
受かる受験生も相応にいた。
私が時々見ている塾経営者YouTuber
の某氏も、1990年代の大学受験生
だと思われるが、私大文系最難関の
早稲田政経には合格したものの
中央法には落ちたと述べている。
(昔は、同志社法の偏差値も
高かったんだよな~)
以上のような理由で、昭和50年代には、
大学受験偏差値では早大法に負けていた
中大法が、司法試験で東大と1位、2位を
競うという実績を残せたわけなのだ。
だが、時代が下るにつれて、
早大法の合格を蹴って中大法に入学する
学生が僅少になり、
慶大法が受験科目から数学をはずして
偏差値的には早大法をも凌ぐように
なったため、
司法試験合格者数の大学ランキングも
大学入試の偏差値を反映した数字になり、
中大は、早大だけでなく、慶大や京大
にも抜かれ、平成の旧司法試験では、
万年4位か5位が定位置になってくる
このような状況の中で、
第1回の新司法試験(現行司法試験)の
合格者数で、中大が1位に返り咲いたのは
中大関係者にとって快挙だっただろう。
(最近は、またちょっと苦しい状態に
あり、中大法学部の都心移転によって、
良い方向に戻れるかが期待される
ところだが、私はやや悲観的である。)
P.S. 2022年11月19日追加
中央法と早稲田法のそれぞれの上位
学生の学力・質に差が無かったこと
に加えて、
その4として、
昭和50年代の早慶の法学部教授陣が
あまりにもショボすぎたということ
も挙げることができる。
そのことについて記事をアップした
ので、そちらを御覧いただきたい。
はショボかった」)
当時は、平成時代ほど、司法試験予備校
に頼り切るということができなかった
ため、大学に所属している法学部教授陣
の優秀さが、その大学の司法試験合格者数
に直結する要素があったのだ。