デンカの宝刀(一男二女の父、元政府系金融機関職員の資格八冠王)

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愛知・東京出身の化け物じみた武術家

2024年06月24日 | 武道・武術

【この記事は、2024年6月22日

 「名古屋 対 東京」カテゴリー

 に掲載した名古屋 対 東京(80:

 最高・最強のアスリート対決)

 と全く同じ内容の記事です。】

 

愛知東京、それぞれの出身で

最高・最強のアスリートと言える

人の対決

(だが、東京の方は、実は、生まれは

 東京ではない)

2人とも化け物クラスのアスリート

だ。

 

星野勘左衛門 VS 真里谷円四郎

 

星野勘左衛門は、寛永19年(1642年)、

現在の愛知県西尾市吉良町に生まれる。

尾張藩士で、日置流尾州竹林派

長屋忠重に師事して弓術を学び、

徳川光友の代に弓役に任じられた。

氏名は星野茂則であるが、一般には、

星野勘左衛門の名で知られる。

寛文2年(1662年)、京都三十三間堂

で大矢数に挑み、総矢数1万25本の

うち、通し矢6,666本を記録し、天下一

となった。

寛文8年には、紀州藩の葛西園右衛門

が通し矢7,077本(総矢数9,000本)を

達成し、記録更新されたが、

寛文9年(1669年)、総矢数1万542本

のうち通し矢8,000本で記録更新し、

再度天下一となった。

残り約6時間となったところで、余力

を残していたが、

後進に挑戦の余地を残す意味で、

切りの良い8,000本で打ち切りにした。

「まだやれるが、後に続く者の気を

 くじかぬために八千本でやめる。」

と告げたと言われる。

(実際17年後に、紀州藩の和佐範遠

 総矢数13,053本のうち通し矢8,133本

 で記録更新した)

あと6時間も残っていたのだから、

やめるまで1時間に586本の割合で

射ていた星野がもし、

残りの時間も射続けていたら

どのような記録になったのか

計り知れないところであるが、

この記録達成によって、

星野勘左衛門は、300石の加増を受けた。

映画「三十三間堂通し矢物語」(1945年)

では、長谷川一夫星野を演じた。

また、「弓道士魂」(平田弘史)、

「天を射る」(原作:西荻弓絵、漫画:

飛松良輔)などの漫画にもなっている。

「弓道士魂」平田弘史 著

(ガイドワークス)

 

「天を射る(1)」原作:西荻弓絵、

 漫画:飛松良輔(小学館)

 

真里谷円四郎は、万治3年(1660年)

又は寛文2年(1662年)に生まれる。

生まれは、上総国真里谷(今の千葉県

木更津市)とも、野州駒場村(今の

栃木県・群馬県の一部)とも言われる。

若い頃、江戸に出て、無住心剣術

二代目・小田切一雲に弟子入り。

25歳のときに小田切一雲と2度試合を

して、2度とも勝ったことから、

免許皆伝を得て、無住心剣術三代目

となる。

以降、生涯に千回を超える他流試合

行ったが、ただの一度も負けることが

なかった

これだけ強かったために、

門弟の数が約1万人にも及んだが、

無住心剣術を継ぐ者は現れず、

真里谷円四郎の代で途絶えた。

宮本武蔵は、五輪書に、60余回の

勝負を行い全てに勝利したと記述

している。

真里谷円四郎の試合は、宮本武蔵

時代とは異なり、真剣にて生死の

勝負をしたわけではないが、

剣道の達人で「昭和の武蔵」「闘う

に敵なし」と言われた中倉清師範が

公式戦69連勝であったことと比較すれば、

千回以上の試合をして負け無しという

ことが、いかに物凄いことだったか

ということになる。

ヒクソン・グレイシー400戦無敗

 はるかに凌駕している)

真里谷円四郎については、甲野善紀師範

の研究が詳しい。

「剣の精神誌 無住心剣術の

 系譜と思想」

 甲野善紀 著(ちくま学芸文庫)

 

 

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