先日、私とカミさんとチーコさんがリビングに居た時に、テレビからアイリスオーヤマの洗濯機のCMが流れた。
吉沢亮さん扮する要正直が、彼女から飲み物をかけられるバージョンと、彼女がゾンビになってしまうバージョンの二本が続いたのだが、これにカミさんとチーコさんがユルく反応した。
カミさん「何だか気持ち悪い」
チーコさん「でもこういう面白いイケメンは好き」
カミさん「え~そう?でもCMとしてどうよ」
チーコさん「いやイケメンが面白いからええねん」
細部は脚色しているが、大体こんな感じである。
人はそれぞれ見ている世界が違うものだが、こうも見事に論点がすれ違うものか。
お互いの認識の溝を、少しずつ言葉を擦り合せて埋めていく努力というのは、多くの人が必要だと感じていると思う。
しかし我が家でのんびりしている時に、そんな余力がある人は少数派だろう。
言葉という道具の限界を感じるのは、こういう時である。
だがひょっとしたら、問題は認識の溝があることではなくて、その溝に何が流れているかではないか、と思ったりもする。
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