カミさんが「アストリッドとラファエル」を録画して観ていて、私は時々それを横で眺めている。
このドラマは、アストリッドとラファエルのやり取りが見どころのひとつなのだろうが、これがもう絶妙に適度な匙加減でイライラさせてくれるのだ。
ちなみに私は断然ラファエルにイライラしている。
彼女は大らかというよりは不用意で危機意識が低過ぎて、自分の正義感だけで突っ走りがちで、アストリッドを含む周囲の人間との向き合い方もかなり雑に見えるからだ。
ラファエルと比べたら、自閉症ということで「才能はあるけどどこか普通とは違う」キャラ設定されている筈のアストリッドの方が、ずっとマトモである。
いや、アストリッドがマトモに見えるということは、私には自閉症の傾向があるのだろうか。
いやいやテレビドラマを見てそんなことを考えるのは、自閉症より中二病を疑うべきであろう。
だが、そんなにイライラするのなら見なければ良いものを、ついつい観てしまうのは何故なのか。
それは恐らくラファエルが、アストリッドとの相互理解を試みているキャラとして描かれているから、ではなかろうか。
大人が周囲の人間との相互理解を図るのは当然のことだと言われそうだが、これは意外と?難しいものだ。
例えば、「他人のことを理解しよう」という努力や工夫は、まあまあ誰でもやっているか、少なくともやるべきだと思っているだろう。
いや、口では「所詮人間は分かりあえないのさ」なんてニヒルなポーズを取っていても、圧倒的大多数の人は他者を理解したいと思っているはずだ。
その動機は愛情から承認欲求から恐怖から多岐にわたるだろうが。
だがその反面、自分を他者に理解してもらうことに関しては、相手が「若者だから」「老人だから」「男だから」「女だから」「理系だから文系だから」…自閉症だから、etcの理由をつけて、その努力や工夫を怠りがちになる。
年齢や性別や得意分野や自閉症というのは、あくまでもその人を構成する多くの要素の内のひとつでしかないのに、だ。
まあ実際、他者を理解するのは困難である。
自分のことでさえよく分からないのだから。
それでも他者を理解したければ、他者に自分を理解してもらう工夫は不可欠だ。
他者を理解することと、他者に自分を理解してもらうことは表裏の関係にあり、そのどちらに偏っても理解は深まらないからである。
その「理解する・してもらう」ことの完成形のひとつが相互理解なのだから、簡単なわけがない。
アラン氏はまごうことなき善人であり、アストリッドのことを理解しようと努めているが、自分のことをアストリッドに理解してもらおうとは思っていなさそうである。
というより、アストリッドには自分のことは理解出来ないだろうと思い込んでいる節さえみられる(役者さん&声優さんの演技とは大したものだ)。
だからアラン氏は「紙の部屋」に「入れてもらえない」というより、「入ろうとしていない」のである。
ラファエルは「紙の部屋」に、形としては「入れてもらった」わけだが、実は既に「入っていた」のである。
ラファエルはアストリッドのことを理解しようとしているし、アストリッドに自分のことを理解してもらおうとしている。
だからついつい観てしまう。
ただそのやり方が雑過ぎるのでイライラするのだ。
ただ実際、他者との相互理解というのは正に神業であって、自分が周囲の人間と「分かりあえている」と思うのなら、常にそれを疑い、点検した方が良かろう。
特に心地よい言動に基づく、安易な同意や協調は落とし穴になりやすい。
ラファエルがそういうキャラだったなら、とっくに観る気は失せていそうだ。
学生の頃に自閉症=発達障がいの一種だと学んでいたのでTVを観つつ昔を思い出しながら観ており、「あーあ、これは絶対また障がい者団体がシュプレヒコールを上げるぞ」と危惧していましたが、よくあるフランスの刑事ドラマみたいな展開で淡々としていたのは面白かった。
ただ別にデコボココンビなら、あぶない刑事の様にタカとユージでも良かったし、わざわざ自閉症と指名する必要も無いような気がしました。
ちなみに私にとって凸凹刑事といえば「噂の刑事トミーとマツ」です。