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葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

「医」の中心にあるもの。

2015-06-18 07:32:06 | 仕事
 医学という大きな円があって、その中心には科学がある。
 医術という大きな円があって、その中心には慰安がある、と思う。

 医療という大きな円があって、その中心には何があるのか。考え中である。

 按摩やマッサージは、医術と慰安の狭間にある。
 「医」の中に慰安が含まれている。

 丈夫で健康な人にとっては、マッサージは慰安にしか感じられないかもしれない。
 医療保険を使ってマッサージの施術をしようと思ったら、医師に同意書を書いてもらう必要がある。
 でも同意書を書きたがらない医師は多い。
 仕事をバリバリできる医師は、基本的に丈夫で健康だから、体感的にマッサージが慰安にしか感じられないのかもしれない。
 でもどんな「医」にも慰安的な要素はある。
 科学だけで割り切る「医」は、ちょっと冷たい。
 慰安(もしくは接遇かプレゼン)だけの「医」は、ちょっと軽い。
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ファンタジーは好きです。でも。

2015-06-15 22:33:44 | 仕事
 マッサージや按摩や鍼灸の理論は、実は理論とは言えません。
 科学的な分析をせず、感覚的な分類しかしていないからです。
 科学というより、ファンタジーです。

 そもそも東洋の医術の核となっている「氣」という概念が、ファンタジーの権化です。
 氣を物理的な意味で解き明かそうとすると、かえってペテン師っぽくなってしまいます。

 そういう私は正直言って、ファンタジーやオカルト的なものにはそれなりに興味があります。
 呪文一つで怪我や病気を治癒させてしまう白魔導士にも憧れます。

 でも、霊能者やスピリチュアル業界の方々が語るような「あちら側の世界」は、全て方便です。
 言葉で表現された世界は、ドラゴンやグールがいようと、ダマスカスブレイドやオリハルコンソードがあろうと、緻密な多層構造に作り上げられていようと、「こちら側の世界」です。RPGのマニュアルに書いてある世界観の設定と同じです。
 逆にいえば、言葉で表現できない世界は、目の前の日常風景であっても「あちら側の世界」です。
 そして東洋的な医術にとって、「あちら側の世界」「ファンタジーの世界」は必要不可欠なのです。

 私は、東洋的な医術の原点は、按摩やマッサージのような徒手による手技療法だと思っています。
 そして、手技療法の原点(もしくは定義、もしくは手技療法にしかできないこと)とは、「触覚を利用した非言語的なコミュニケーションによる内面からのQOLの充実」だと考えています。

 例えば、マッサージのルーツは、猿の仲間同士での毛繕いだという説があります。
 猿は言葉を使いません。少なくとも、価値観によって作られた言葉は使いません。

 …さて、ここで価値観によって作られた言葉について考えてみましょう。

 例えばリンゴという言葉は、リンゴという果実を見て、触って、嗅いで、食べた経験のある人が、その果実に価値を見出したから出来た言葉です。
 そしてその言葉は、同じようにリンゴを食べた経験がある者同士が、価値観を共有するために使われます。
 だからリンゴを見たことも食べたこともない人にとって、リンゴという言葉は意味を持ちません。そういう人に「リンゴというのは、赤くて、皮を剥くと白い実で、甘酸っぱくて…」と、それこそ言葉を尽くして説明しても伝わりません。
 もし仮に、リンゴは見たことも食べたこともないけれど、苺は食べたことがあるという人に、言葉だけでリンゴの説明をしたらどうなるでしょうか?
 おそらく「ああ、リンゴというのは苺と似たようなものだな」と思うでしょう。
 それが苺ではなく、サクランボだったら?桃だったら?

 つまり言葉というのは、経験に基づく価値観から作られるのです。
 そして人間の社会は、言葉によって形成されています。人間ならではの思考や理性というのは、言葉を抜きにしては考えられません。
 それはいわば脳を中心に処理・構築された世界です。
 しかし、人間も動物の一種なので、言葉で世界の全てを表すことはできません。
 言葉を使わない動物にも、動物にとっての世界が存在するように、人間の中にもそういう世界が存在します。 
 便宜上(洒落も込めて)、この言葉によってつくられた世界を此岸、そうではない、非言語的な世界を彼岸としましょう。

 どんなに魅力的なファンタジー世界の設定も、言葉で表現されているなら、それは原則として此岸です。
 でもその行間に、言葉で表現し切れない世界が隠れていれば、それは彼岸です。
 彼岸とは、「価値観」とは相いれない世界です。だから言葉にならないのです。
 彼岸を言葉で表そうとするのは、虚数を実数に置き換えようとするようなもの(ただし、虚数は「あるということにしておくと話が早い」ということの例えとして便利ですが、概念として成立しているので、やはり此岸のもの)です。
 世界は言葉だけでは表現できません。

 例えば音楽をもとに譜面が書かれます。でも譜面に書き切れない部分が、実際の演奏には重要です。
 それと似たような感じで、言葉にできない部分に世界の核があるのです(もっとも、マッサージや鍼灸が上手くなるというのは、競技やコンテスト的な演奏が上手くなることとは方向性が違います。ポイントの取り合いや競争とは違うのです)。
 当然、音楽に限らず、ダンスでも絵画でも、詩でも唄でも、彼岸を含む世界を表現できます。

 でもおそらく、触覚によるコミュニケーションが、彼岸を表現する成功率が一番高いと思います。
 視覚や聴覚による情報処理は、普段から使い慣れ過ぎているので、言語的コミュニケーションの影響が大きいからです。
 味覚にもその傾向があるでしょう。
 嗅覚は逆に情動的過ぎるかな?
 触覚が一番、言語的コミュニケーションの手段として使われていないし、脳だけでなく全身を使うのもポイントです。

 マッサージの施術者は揉む・擦るといった触覚によるコミュニケーションで、受け手と共に彼岸(治療の場)を作り上げます。
 彼岸を感じることで、脳による処理に偏った世界のバランスを回復させ、ホメオスタシスの安定を図り、QOLを内面から充実させる。
 これがマッサージの目的・効果です。
 脳による処理に偏った世界とは、つまりは価値観を言葉やルールやポイントに置き換え、戦って勝ち負けを決める世界です。
 そういう世界・此岸から一時的に抜けて心身のバランスを回復させるには、「ファンタジーな、あちら側の世界」つまり、彼岸が必要なのです。

 彼岸は施術者と受け手が触覚による情報交換を介して作っていくものであり、施術者が一方的に伝えるものではありません。
 いや、そもそも、一人で彼岸を構築するのは、悟りの境地に至るようなものなので、一方的に伝えるものでは「ありません」というより「できません」という方が正しい。
 ただ施術の過程で、下手な言語的コミュニケーションで理性や概念の邪魔が入らないようにリードするのは施術者の仕事です。
 いわばガイドやインストラクター、それこそファンタジックに言うなら導師やシャーマンのようなものです。

 ちなみにこの時、「ああ、これが彼岸か」と感じたとして、その「これ」が具体的な言葉になるようなら、その言葉の数々は勘違いです。
 なぜなら彼岸は言葉にならないからです。
 基本的に彼岸についての理解は「ああ」で御終いなのです。

 ところで、氣功で動物の真似や演技で人為的に退行して、進歩・成長に偏った心身のバランスを取る、という発想がありますが、この場合の退行は彼岸を感じるというのとほぼ同じ意味だと思います。
 ただ、最初から最後まで動物の真似・演技では効果は低いのではないでしょうか。
 演技とは理性に基づいた言語的コミュニケーションだから(天才型・天然型・憑依型の演技は別かもしれない)です。それでは彼岸には行けません。
 かといって、演技を越えたリアリティを求めてイメージを具体的に作り過ぎ、神に会おうとか魔法力を身につけようとか何かを召喚しようなどと欲張ると、それこそ何かに憑依されてしまいます。
 それはいわば、演技をしていて役に取り込まれるようなものです。制御できない技術は技術とは言えません。

 氣功や瞑想をするなら、リラックスして心身の反応をただ丁寧に味わい、感覚を追いかけず囚われないようにしたいものです。
 もっともマッサージの場合は施術が終わればその時点で「こちら側」に戻れるので、内部感覚を一人で追及していく氣功や坐禅のような瞑想よりは、安全性は高いと思われます。

 ただ、こういう言葉に頼らないやり方はエンタメ性が低いので、ビジネスとしての旨味は少ないでしょう(だからマッサージをエンタメ&コンビニなサービス業と捉えている方々は、インテリアや接遇などの、目に見える・言葉にできるサービスに重きを置きます)。

 でも一度彼岸を実感できれば、世界が変わります。
 ゲームやアニメの中の異世界は確かに楽しいけれど、フィクション(だから安心して楽しめるのだけど)です。
 ところが彼岸を感じられるようになれば、剣も魔法もドラゴンもレベルアップも無いけれど、掛け値なしにリアルなファンタジー(矛盾した表現ですが)世界の住人になれます。
 いや厳密には、世界は最初からそういうものだったことを思い出せます。
 言葉を知らない赤ん坊にとって、世界はそういうものだからです。
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マッサージ師にしか出来ないこと。

2015-06-13 18:00:36 | 仕事
 医療的マッサージと慰安的マッサージ、という分類がある。
 でも私はこういった分類に大した意味は無いと思う。マッサージはマッサージだからだ。
 大体、医療的なマッサージというのがどんなマッサージかというと、理学療法士の真似事というのがどうにも歯がゆい。

 理学療法というのは名称独占ではないから、マッサージ師がストレッチや筋トレを施すこと自体は、少なくとも法的には問題は無い。
 そのことによるリハビリ効果だって確かにあるだろう。
 だがPT以上のことができるとは考えづらいし、第一、マッサージ師でなければできないという技術ではない。
 というより寧ろ、マッサージ師が行う理学療法は、PTの劣化版にしかならないのではなかろうか。

 例えば病院の求人(特にリハビリ系の)を眺めていると、PTの求人はあっても、マッサージ師のはあまり無い。
 マッサージ師にできることはPTにもできるが、PTにできることはマッサージ師には猿真似程度にしかできないと思われているのでは?
 事実その通りなのでは?

 それはつまり、マッサージ師がマッサージ師にしかできないことを追求してこなかったからだ。
 では、マッサージ師…マッサージにしか出来ないこととは?

 それは、触覚を利用した非言語的コミュニケーションによる、内面からのQOLの充実だ、と思う。
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見えない鍼、のような。

2015-06-06 00:23:32 | 仕事
 毎朝、指を慣らすために色々やっています。

 指を「鍛える」という感覚で取り組むこともあるにはありますが、ちょっと違うような気もします。
 「鍛える」感覚だと、拇指で床を按ずるなんてこともします。
 フローリングだと、指を強化している感じが強くあります。

 でももう、拇指圧迫の練習も、自分の大腿でやります。
 硬い物を砕くように抑え付けることと、柔らかい物に芯を徹すように按ずることは、やっぱり別なのです。

 その芯が細く、しなやかであればあるほど、鍼に近い…ような気がします。
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変化「させてる」のか、「している」のか?

2015-05-31 09:54:06 | 仕事
 私は今、出張で施術をしています。 

 ベッドの配置。
 部屋のレイアウト。
 そして、患者さんの姿勢。

 治療院に来てもらって施術する場合よりも、バリエーションがたくさんあります。

 上手く対応できるかな?…という不安は、実はあまりありませんでした。
 元々資格を取ってからすぐに、3年ほど出張で仕事をしてましたし。
 でもさすがに経験を積んだ分、対応も滑らかです(でなきゃ困るか)。

 ただ私は手技の引き出しが多いほうではありません。
 ごく基本的な手技を突き詰めていくタイプです。

 それでもその基本的な手技が、患者さんの状態に応じて変化するので、そう不自由はしません。
 で、その「変化」は「私がさせている」のか?それとも「状況次第で自然にそうなっている」のか?

 まあ両方なのでしょうが、配分がどれぐらいなのかは、私にも不明です。
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手当てで伝えるコツ。

2015-03-22 10:40:01 | 仕事
 脳や心理状態が作るのは痛みばかりではない。
 発熱や湿疹などもある。

 私はどちらも経験しているので、そういった不調から回復する感覚やそのための平常心、というのが何となくわかる。
 それを言葉で説明するのではなく、そのリズムを手当てで伝播させるのが施術の目的のひとつ。
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作り物、でも侮れない。

2015-03-18 07:30:09 | 仕事
 脳が作っている痛み、というのはある。
 一回の施術で痛みがスッキリ取れたなら、それは器質的な変化や炎症が原因の痛みではなく、脳が作った痛みである可能性が高い。

 ただ、だからといって自分一人の心の持ちようで治せるかというと、そうとは限らないのが厄介。
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ツボの形。

2015-03-09 07:33:34 | 仕事
 経絡、経脈といった氣の流れる通路があって、その要所要所に経穴がある。
 経穴には、駅だったり、踏切だったり、ポイントの切り替えだったりトンネルだったり停留所だったりと色々な役割がある。

 そして実はその形も点ばかりではなく、線だったり面だったりする。
 だから経穴を通してのコミュニケーションは、より豊かなものになる。
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ツボからつながる。

2015-03-02 07:30:16 | 仕事
 経穴、ツボ、には、治すためのスイッチのようなイメージがあるのではなかろうか。
 私はどちらかというと、ツボについては、スイッチというよりも、コネクタのようなイメージを持っている。

 ツボを通して施術者とクライアントが、触覚によるコミュニケーションをとり、心身と向き合い、バランスを整えることで治癒していくイメージだ。
 少々ロマンチックに言うなら、ツボというコネクタを通して氣の交流をする、という感じか。
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内から外から・端から芯から。

2015-02-23 07:25:52 | 仕事
 例えば肩が痛くて腕が上がらない時に。
 肩を庇って動かすと、かえって肩に意識が集中して、結果的に余計な力が入って痛かったりします。

 そんな時は、いかにして意識や力を全身に散らすか、です。
 体の中心(下腹部や丹田とか、背骨など)から動かしてみたり。
 あるいは、指先などの末端から動きを導いてみたり。

 どちらもやってみるとそれなりに効果があります。より相性がいい動きを適宜選択しましょう。
 慣れてきたら、末端と中心の両方で動きを導く、というのも面白いものです。
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