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葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

そのルールは不利。

2015-07-03 08:16:24 | 仕事
 もうずっと以前から、按摩やマッサージや鍼灸の効果について、エビデンスを構築しようという動きがあります。

 しかし…按摩やマッサージや鍼灸が、西洋医学のルールでバンバン結果を出せるようなら、とっくに同意書不要で保険適用になっていると思うのです。
 西洋医学のルールで…というより、ルールをもとに戦う、という体系ではないのです。
 按摩とかマッサージとか鍼灸って。

 闘病という言葉が端的に表しているように、西洋医学は戦いの学問ですから。
 ず~っとそれを追及してきた人たちの土俵で評価してもらおうなんて、無理があります。
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闘いません。

2015-06-28 09:50:50 | 仕事
 中医学の本を読むと、「正邪闘争」という概念が出てきます。
 人の身体は正氣によって活動していて、そこに侵入してきた邪氣と正氣の闘争が病気ということです。

 正氣が勝てば病気は治り、邪氣が勝てば死んでしまう。
 鍼灸や湯液や按摩は、この闘争における正氣の援軍というわけです。

 何ともはやファンタジーな設定です。

 でもこれって、理解のための方便だと思います。
 氣そのものに正も邪もありません。
 腐敗と発酵のようなもので、人間の都合で分類されてるだけです。
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リハビリ室のマッサージ。

2015-06-27 10:54:54 | 仕事
…リハビリ終了。
午後には退院なので、自宅で服用する薬(写真)をもらいました。
怪我人っていうか病人になった気分です。

さて。
筋肉や腱の状態が悪いというのもありますが、そもそも腫れてるせいでつっかえて動かないようです。
悲鳴が出る直前まで、ギリギリのストレッチ。
それとも案外、二十代の頃より我慢強くなったか?

それにしても理学療法士さんのマッサージは…う~ん、広い意味では認めがたいのですよ。
でも、ストレッチの合間に擦ったり揉んだりといった手技を挟むのは確かに有効だし、それをマッサージ師との分業にするなんて無駄が多いし、第一施術のリズムが悪くなる。

理学療法士さんのマッサージを認めるとしたら、それはストレッチの合間の繋ぎ、使える脇役という形ですね。

リハビリ室でマッサージを受けながら、他の理学療法士さんのマッサージを見ていても思ったのですが、動きや触り方が、すごく分析的で小さい。
対象が局所的で、伸びやかさに欠ける。
このマッサージでは、主役は張れない。

私はマッサージを分類するのは好きではないのですが、理学療法士さんのマッサージは「リハビリの効果を上げるための、それ単体では完成度の低い」マッサージだと思います。
そしてそれをリハビリマッサージというのなら、それはマッサージ師よりも理学療法士のものでしょう。
なぜならこのマッサージは、あくまでも(関節の可動域や筋力の緻密な測定を伴う)理学療法と不可分だからです。

確かに理学療法は名称独占ではありませんから、個人的に「自分はリハビリ主体のマッサージでいく」という人がいても、それは不思議ではありません。

でも、もしもマッサージの業界が全体の意向として「数値化しやすい、エビデンスを構築しやすい、世間を納得させやすい」という理由から「リハビリマッサージ(仮称)こそが医療としてのマッサージの本流」なんて方向に進み出したら、それはマッサージの可能性や特性を自ら放棄することに等しいと思います。
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本日、退院予定。

2015-06-27 07:41:18 | 仕事
今朝の腕です。
やはり外見はそうそう変化するものではありませんね。
ていうか顔がちょっと寝惚けてます。

昨日はリハビリ以外にも、あーだこーだと色々動かしたからでしょうか?触るとパッツンパッツンです。バンプアップというには少々不細工な感じ。
あ、それと痛いですね。
筋肉痛と怪我で痛いのが混ざった感じ。
でも苦痛はホドホド。

もうすぐ朝食と、その後リハビリなので、何とかしましょう。
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これはこれで安心?

2015-06-26 21:30:35 | 仕事

腕に何も着けてない方の写真は、夕食後に撮影。
朝方に撮影した時よりも、リハビリや腕を動かした分だけ、腕らしいというか機能的な形になっているような?
気のせいかな…。

シャーレは就寝前に装着。
少々窮屈だけれど、案外安心感もあるのは、怪我をしている以上自然なことかもしれません。

さあ、明日起きたら、またどんどん動かそう。
週明けには仕事したいし。
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ギプスが取れました。

2015-06-26 12:05:19 | 仕事
10時30分頃から、電動鋸でガーッとギプスを縦に二分割して外しました。
分割した片方は、就寝時のみ着用ということで、日中は基本的にこの状態で積極的に動かしていくそうです。
いやもうギプスが取れたと思うだけで、痛みが三割減です。
痛いことは痛いけど。

それにしてもスゴい色してますね。
自分で直接傷を見られないので写真に撮って初めて見ましたが、ちょっと寒気がします。

と、ここまで打ったところで、リハビリに呼ばれました。
では行ってきます。

…ただ今戻りました。
二十歳過ぎの頃に骨折した時のリハビリは、自分の意思とは関係無く悲鳴が出るような関節技…もといストレッチでしたが、今はもうちょっと手加減するのが主流のようです。
担当の理学療法士のお兄様の仕事ぶりは、とても丁寧で好感がもてました。
でも合間に行われるマッサージは、う~ん、ですね。
聞いてみると、やはりマッサージの授業や講習の絶対量が足りない。
それはそうでしょう。
理学療法とマッサージって、そもそも別の才能ですし。

そして勿体無いことです。
理学療法士とマッサージ師が、各々の特性を活かせるようなシステムを作れないものでしょうか。

ていうか、作らないとあちこちから軋轢と不満が噴出しそうな気がします。
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ちょっとオーバーワーク?

2015-06-25 22:54:32 | 仕事
今日の夕食です。
最初は右手で箸を使っていましたが、途中で疲れて左手にバトンタッチしました。
やはりギプスによる可動制限は侮れません。

ふと、ギプスが外れて怪我自体は回復しても、以前と同じように動くだろうか?と、不安になったりもします。

まぁ私がアスリートであれば、それは正しい?不安でしょう。
でも私はマッサージ師です。
マッサージ師が施術を通して伝えるべきことは、その時点での自分の心身と向き合うということです。
決して器用に動く手指を見せつけることではありません。
ただし、これは下手でもいいという意味でも、ベストを尽くせばいいという意味でもありません。
そういう勝負とか価値観とか…言葉が支配する世界からちょっと離れてみる、ということです。

例えばヨガのインストラクターは、難易度の高いポーズが出来ればそれに越したことはないでしょう。
でもヨガで一番大事なことは、ポーズを通じて心身と語り合うことであり、それを生徒に伝えられないのなら、どんなにポーズが巧くても、インストラクターとしては少々問題アリです。

私も右手をリハビリしながら、クライアントに心身と向き合う時間を提供できたなら良し。
できなければ、単に手指を器用に動かしていただけ、ということです。

いや、正確には右腕に少々ハンデを負ったことで、図らずもマッサージの本質(それは勿論、技術の低さを気持ちでカバーする、なんてことではありません)を証明する機会を得たというべきかもしれません。

まぁ消灯時間もとっくに過ぎてますので、今日はこの辺で。
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右手で打ってます。

2015-06-25 09:55:54 | 仕事

今朝7時30分頃、ギプスの交換をしました。前のギプスは手術後の腫れを防ぐために包帯でガッチリ圧迫していたのですが、今度のはかなり圧迫感も弛く、右手の自由度も高めです。
だからこの記事も右手で打ってます。

ギプスを交換して大部屋に戻ると、朝食が用意してありました。
本当はパンは二枚あったのですが、一枚食べてから撮影。
今までも食事の写真をアップしようと思っては忘れてました。
空腹だったのか、メンタル的に余裕が無かったのか。
私は食パンは基本的にトースト派なのですが、なかなか美味しいパンです。

それにしても。
手術後に内出血を吸い取るために、腕に取り付けていた片道通行の心臓みたいな道具といい、ギプスを交換する時の道具といい、テクノロジーに関しては西洋医学というのは本当にすごい。
何しろ私は高校生の時から、骨折はこれで三回目なので、進歩が皮膚感覚で分かります。
そりゃ人間の体自体はそう変わりはしませんから、骨折の治療の原理そのものだって、そう変化はしていないでしょう。
でも、治療をする方も受ける方も、なるべく負担がかからないように、ミスをしないように、少しでも早く回復するようにという工夫はすごいです。
それは結局、数字で表せるものは数字で表し、データを蓄積し続けたからこそでしょう。

翻って、鍼灸やマッサージは?
データに値するようなデータを集めているでしょうか?
それは難しいでしょう。
なぜなら鍼灸もマッサージも、数字で評価されることを目的としていないからです。
マッサージに至っては、その本質は「医療も慰安も含む、それだけではないモノ」ですし。

鍼灸もマッサージも、間を置かずに新しいメソッドが出てきます。
しかしそのほとんどは、目先を変えた料理のレシピ程度のものでしょう。
そのメソッドを覆す理論を待つまでもなく、飽きられたらそれでおしまいです。

やはり原始的な「手当て」には、進歩や発展はミスマッチでしょう。
いい加減に鍼灸師もマッサージ師も、「本に書いてあるから」「偉い先生がそう言っているから」ではなく、本当は自分達には何が出来るのかを、自分の頭で考えたいものです。

と、ここで担当医の回診が来ました。
「明日ギプスを外してシャーレにしてどんどん動かして、土曜に退院かな」だそうてす。
月曜から仕事出来るかな。
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明日から入院して、右肘の手術を受けてきます。

2015-06-22 08:10:40 | 仕事
 実は私、先週の6月17日(水)午後4時30分ごろに、バイクで転倒してしまいました。
 幸い私一人の事故で、巻き込まれた人や車はありませんでした。

 近くにいた親切なドライバーの方に助け起こしてもらったのですが、実際その時はそんなにひどいダメージを受けたとは感じていませんでした。
 まあ、よくある「怪我をした直後はアドレナリンが分泌されていて痛みを感じない」という状態だったのでしょう。

 しかしその後、じわじわと痛みが増加し、特に疼痛の激しい右肘を触診してみると、どうも尺骨の形がおかしい。
 肘頭が、あるべき場所に無い。
 しかも際限なく腫れ上がってくる。

 というわけで整形外科を受診し、XPによる診断の結果、右肘頭の骨折と判明したのであります。
 
 ↑今朝、洗面所の鏡に映して撮影。
 厄介なことに、折れた場所からそれぞれの骨片が2㎝ほど離れているため、ピンとワイヤーで固定するという手術が必要ということになりました。

 その手術&入院が明日からで、どちらも人生初体験なため、色々と雑念が渦巻いております。

 担当の先生は「まぁ肘頭の固定でくっつかなかったことってないから」と仰っておられます。
 しかし怪我した本人は「麻酔から覚めたら右腕が無くなってたらどうしよう」なんてことが脳裡を掠めたりします。

 ちなみにカミさんは「『麻酔から覚めなかったらどうしよう』って心配の方が先じゃないか」と仰います。
 確率としてはどうなんでしょう。

 いずれにせよ、曲がりなりにも医療に携わる者としては、入院して手術を受ける立場というのはそれなりに貴重な経験です。
 思うところも色々ありますので、このブログをメモとして使おうかと考えています。
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目指すは原点回帰。

2015-06-21 07:42:30 | 仕事
 一口にマッサージと言っても、様々な種類がある…ように見えます。
 スポーツマッサージ。リンパマッサージ。経絡マッサージ。もみほぐしマッサージ。タイ式。足ツボ。按摩。指圧。推拿。等々。
 そういった分類の中でも、もっとも基本的?なものが、「医療マッサージ」と「慰安的なマッサージ」ではないでしょうか。

 でも実は、こういった分類にはあまり意味はありません。マッサージはどこまでいってもマッサージです。
 一見、多種多様に見える分類は、ビジネスのために目先を変えて差別化を図ることが目的だったりします。
 きちんと学校で学んで国家資格を取り、普通に練習している按摩・マッサージ・指圧師であれば、どんなマッサージをしても一定以上の効果は出せるものです。

 マッサージの種類が増えれば、選択肢が増えていいという人もいるでしょうが、私はそうは思いません。
 新しいスタイルのマッサージが作られれば、その優位性を強調するために「あれも治せる、これも治せる」と誇大宣伝をして、混乱を広めることのほうが多いようにみえます。

 そんな無用な混乱に巻き込まれないためには、どうすればよいのでしょうか。
 そのためにはまず、そもそもマッサージには何が出来るのかを整理すること。
 そしてそれを踏まえて、マッサージの目指す方向を見据えることです。

 では、マッサージには一体何が出来るのでしょうか。
 私はマッサージに直接的に出来ることは、「凝りをほぐすこと」だけだと思っています。
 凝りがほぐれることで、心身は本来の機能を発揮し、ホメオスタシスの安定が深まり、QOLが内面から充実していくのです。
 そしてそれは分類するなら医療であり、慰安はその中に含まれるものです。

 マッサージは、揉んだり、圧したり、擦ったりといった手技を用いた、触覚を媒介としたコミュニケーションです。
 コミュニケーションという言葉には幅広い意味があり、現在では話し相手を説き伏せたり、自分の意見を納得させる技術という意味合いが大きいようです。
 しかしそれは、どちらかというとディベートやプレゼン能力というべきでしょう。
 ここでいうコミュニケーションとは、そういうものではなく、お互いの気持ちを双方向でやり取りする、ということです。
 それを触覚を通して行うのです。
 それはどんなコミュニケーションなのでしょうか?

 マッサージの原型は、まだ人間が猿だった頃の、仲間同士での毛繕いだという説があります。
 私はこの説を支持します。
 人間の文化や技術というものは、基本的には人間がその手で道具を持つようになってから始まり、ずっと発展を続けています。
 しかし例外もあります。例えば鍼灸は華蛇・扁鵲の時代に完成してしまいました。
 そしてマッサージに至っては、人間がまだ猿だった頃に完成してしまいました。
 この、言葉を持たない動物同士のコミュニケーションこそが、マッサージを通じて行われる「気持ちのやり取り」の原点です。

 それは言葉を使うようになる前からあったものなので、その効用や意味を言葉で説明するのは困難です。
 …と書くと、「猿は言葉を使わなくても、人間は使えるのだから、説明できるはずだ」と言われるかもしれません。
 しかし例えば、リンゴという言葉が無かった頃には、リンゴという果実は存在していても、リンゴという概念・価値観はありませんでした。
 だからリンゴという言葉が無かった頃のリンゴのことを、言葉で表現するのは困難です。

 言葉とは、人間の価値観によって何かを分類する必要がある時に生まれるものです。
 だから言葉によるコミュニケーションとは、その価値観に基づいた情報のやり取りということです。
 故に価値観というものを持たない動物のコミュニケーションについて、言葉で説明するのは困難なのです。

 が、何とか順を追って説明を試みましょう。

 言葉は脳で処理するものです。
 だから、受け手がその言葉を「聞きたくない、読みたくない」と拒否すると伝わりません。
 面と向かっての会話の場合は、身振りや手振りや表情の変化で、言葉以外のものも伝えられますが、そこには言葉と共通した特徴があります。
 それは「演技」です。
 視覚と聴覚は、人間が情報を得るための主要な感覚です。
 だから良きにつけ悪しきにつけ、視覚と聴覚を利用したコミュニケーションにおいては、自分の立場を有利に導くために、ほぼ間違いなく演技が含まれます。

 しかし、触れ合うことによるコミュニケーションは、脳だけでなく、ほぼ全身で情報のやり取りをするので、脳や理性が拒否しても、仮に眠っていたとしてもかなりの部分が伝わります。
 そしてそこには原則として「演技」はありません。また、脳が自覚しようとしまいと、脳以外の器官が反応することによって、双方向のコミュニケーションが成立します。

 このコミュニケーションが成立した時には、独特の感覚があります。
 自他の境界線が明確になると同時に曖昧になります。
 少し言い換えると、自分が自由な一個人だということと、集団の中で孤独でないことを同時に実感します。
 …えらく矛盾した表現だと指摘されそうです。この辺が、言葉による表現の(少なくとも私の)限界です。

 ちょっと表現の方向性を変えましょう。
 触覚を利用した非言語的なコミュニケーションが成立すると、心身は脳だけのモノではないと実感します。
 脳は心身を支配しているのではなくて、あくまでも心身の器官の一部だということです。
 当たり前だと言われそうですが、実際には多くの心身は脳の独裁によって疲労困憊しています。

 脳は心身の一部に過ぎないということを深く実感したなら、脳による心身の独裁状態も緩和されます。
 すると心身は本来の機能を発揮しやすくなり、ホメオスタシスがより安定します。その結果として、疲労や怪我や病気が回復に向かいます。

 さあ、それは、全身で病や怪我に立ち向かうということなのでしょうか?
 ちょっと違います。
 病も怪我も敵ではなくて、心身の状態の一時・一部の局面を切り取ったものです。
 しかし、言葉というのは価値観から作られるものです。だから価値がある・ない、つまり基本的に勝ち負けを決めるための道具という意味合いが強い(それが言葉の総てという意味ではない)のです。
 そこで、触覚による非言語的コミュニケーションによって、言葉の世界から一時的に脱け出すのです。
 勝負という概念で向かい合わなければ、勝ちも負けもありません。
 そこで心身は深くリラックスし、凝りがほぐれて円滑に動けるようになります。

 この、触覚による非言語的コミュニケーションは、施術者が一方的に伝えるものではありません。
 施術者と受け手が双方向のコミュニケーションの中で、一緒に治療の場を作り上げるものです。
 この「治療の場」を施術者一人で構築しようとするのは、悟りの境地を開くのと同じくらい困難です。
 ただ施術中に、言語的コミュニケーションの乱用で脳が独裁している世界に足止めされてしまわないようにリードするのは、施術者の大事な仕事です。

 勿論、施術中に「絶対に会話してはいけない」ということではありません。
 黙っていなければいけないと思い込み、緊張してしまっては逆効果です。
 例えば施術の導入部でリラックスを深めるきっかけとしての言語的コミュニケーションなどは有効でしょう。

 でも、最初から最後まで言葉の力に頼るのは考えものです。
 言葉の力・理性の力は普段から使っているから、「強い」。
 その力は、非言語的コミュニケーションで作られた治療の場を壊してしまいます。

 言葉や数字で表現できることが全てだと思っている人には、この辺りのことを実感するのは難しいでしょう。
 実際、手っ取り早く人を「その気にさせる」力は、大きな声や明瞭な言葉や勝ち負けを判定する数字のほうがずっと強いものです。
 だから癒しを「効率のいいビジネス」にしている人達は、大袈裟な言葉で誘いかけます。
 美容鍼灸。ダイエット。ガンなどの難病も治る等々。
 でも、少なくとも按摩やマッサージに直接的にできることは、「凝りをほぐすこと」です。そこから先の効果については、施術家は可能な限り謙虚になるべきです。
 そもそも凝りをほぐすだけでも大変なことなのです。

 世間には無資格マッサージの店舗がたくさんあって、凝りなんて手軽にほぐせるような印象がありますが、そう簡単な話ではありません。
 断っておきますが、整体もリフレクソロジーもアロマも足つぼも、身体を揉んだり擦ったりしているのなら、その本質はマッサージです。
 「医療ではなく慰安でやっているから、国家資格が無くてもいい」というのは、マッサージの本質を曲解しています。

 慰安を含まない医療は確かに温かみに欠けます。
 が、マッサージの原型を完成させた我らが先祖の猿人たちが、医療だ慰安だといちいち区別していたでしょうか?
 つまり、マッサージの原点は医療から慰安まですべてを含んでいると見るべきなのです。
 だから、慰安を「強調した」マッサージというならともかく、慰安「だけ」というのは妙です。

 …と、ここまでの展開で、マッサージの目指すべき方向が見えてきました。
 マッサージの原型は、言葉を持たない猿の、仲間同士の毛繕いです。その、触覚による非言語的コミュニケーションこそがその本質です。
 そう。マッサージが目指すべきなのは、進歩発展よりも原点回帰なのです。

 施術家は理性を必要最小限に保ちつつ、触覚による非言語的コミュニケーションで凝りをほぐしていきます。
 科学的、理性的な人は眉をひそめそうですが、これってある種のトランス状態に近い。かなり呪術師寄りなのです。
 按摩やマッサージが世間に正しく認められるようになるためには、エビデンスの構築が必要だと考え、真摯に研究を続けている方々がいらっしゃるのは知っていますし、そういった工夫を続けること自体は、立派なことです。
 でも、マッサージの効果を数値化することに夢中になって、原点を見失っては元も子もありません。

 ただ、按摩やマッサージがこういう方向に進むとなると、色々な問題も発生します。
 まず、西洋医学の人達と組むのは一苦労です。
 西洋医学をベースにしたチーム医療の一員としてマッサージを行うなら、施術の経過や成果を理性的に数値で表さなければなりません。
 でもそれは本来、理学療法士の領分です。
 非言語的コミュニケーションで凝りをほぐしましたなんて、カルテには書けません。
 これはもう按摩・マッサージ・指圧師と理学療法士が別の資格である理由のひとつと言えるでしょう。

 また、ビジネスの場でも不利です。
 マッサージがサービス業だというのは私も否定しませんが、今の世の中では、サービス業=エンターテインメント&コンビニエンスだと思われていて、その中心には「プレゼン」と「接遇」が鎮座しているからです。
 プレゼンは言葉や数字によって自分の価値を主張する技術であり、接遇は理性に基づいた礼という演技の体系です。
 どちらも非言語的コミュニケーションとの相性は良くありません。

 ついでに言うなら、マッサージの本質は触覚による非言語的コミュニケーションで凝りをほぐすことですが、非言語的な世界を感じること自体は、マッサージでなくてもできます。
 例えばヨガやランニングなどの、自分の内面と向き合う要素の強いエクササイズ(ひょっとしたらウエイトトレーニングも)とか。
 坐禅や氣功などの瞑想(ヨガもこちらに入れるべきか?)とか。
 太極拳の推手(競技ではなく、本来の意味で行われているもの)なんかは、非言語的コミュニケーションそのものに見えます。

 ではマッサージなんて受けなくても、ちょっと無理してでも運動すればいいかというと、話はそう単純ではありません。
 人類には一定の確率で、どうしても運動が楽しく感じられないという省エネ型の人がいるからです。
 だから「一週間で○○キロ痩せる」とか「この動きだけで筋力アップ」なんていう効率重視の情報が後を絶ちません。
 そういった、基本的に苦行であって、楽しくないということを前提とした、これだけやればもうやらなくていいですよ、といったノリでの運動は、数値に出るようなスピードやパワーは伸ばせるかもしれませんが、内面の充実には今一つ役に立たないのです。
 ならばそういう「運動が楽しくない」人や、病気や怪我や老化で動くに動けない人には、鍼灸やマッサージは有効とも言えます。

 それにしても、ヨガやランニングや坐禅もそうですが、非言語的コミュニケーションの効果って言葉では中々伝わりません。
 言葉にできる効果って、結局「痩せる」とか「ビジネスの場で役立つ」とか、目に見えるものばかりです。
 「凝りがほぐれます」とか「心身と向き合えます」とか「日常の動きが楽しくなります」とか「世界のリアリティが増します」なんて言葉にしても、地味過ぎて「で、だから何?」ってなっちゃいます。
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