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葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

やっぱり全身を手当てしよう。

2015-09-09 07:32:48 | 仕事
 最近ブログで話題にしていないが、まだ左腕の肘頭骨折は完治していない。
 現在は週一回のペースで病院のリハビリ科に通っている。
 骨を固定しているピンとワイヤーはまだ抜いていない。

 で、先週からリハビリの担当のPTさんが変わった。
 そのPTさんの手技というのが、患部の右肘だけでなく、胸椎や仙腸関節など、あちらこちらを姿勢を変えながら操作するというもので、どうも学校の教科書通りとは思えない。
 そこでこの手技は何?と質問してみたら、「AKA(関節運動学的アプローチ)です」という返事だった。

 ああ、これがAKAか。
 書店でよく教則本を見かけたし、カミさんが病院勤めをしていた頃に覚えさせられたとか言ってたけど、実際に受けるのは初めてでした。
 このAKA、効き目については賛否両論がある。
 だが実際に受けた感想としては、その理論がどうこうというより、患部だけでなく、より全身に近い広範囲を手当てしてもらったという単純な事実が効いていると思う。

 マッサージは、患部だけを施術して、操作して治すのではない。
 なるべく全身に触れることで、異常な部位と正常な部位の感覚の違いを自覚し、その感覚を揃えるようにすることで回復を促すのだ。
 それはマッサージ(実は鍼灸を含めたほとんどの手技、手当ての本質)が、身体を機械的に操作するものではなく、心身に働きかける非言語的コミュニケーションだからだ。
 やっぱり腕だけ脚だけの施術なんて、中途半端だ。
 なるべく全身に触れよう。
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心地よい、は医に通じるのか?

2015-09-06 07:54:00 | 仕事
 日本では混合診療は禁じられています。
 だから保険での治療と自費治療が、同時に請求されることは建前としてはありません。

 ただ、例えば入院したときに、個室とか寝心地のいいベッドを選んだら、差額を請求されます。
 これは自費です。
 でも、個室や寝心地のいいベッドは、医療とは関係ないから、自費にして保険での治療と一緒に請求しても混合診療にはならない、ということです。

 しかしよく考えてみれば、落ち着いた個室や寝心地のいいベッドが、治療効果に影響することは十分にあり得ます。
 まあ今時、入院したら安物のベッドでひどい寝心地だったなんてことはまず無いでしょうから、現実問題としてベッドの良し悪しが治療効果に大きく影響することは考えにくいでしょう。

 でもこれがマッサージなら?
 怪我や病気で入院している人が、適切なマッサージを受けるか、受けないかでその回復力や情緒の安定、ひいては治療効果に影響があるか、無いか。
 これはおそらく、まず間違いなく明確に差が出るでしょう。正直言って誰でもイメージできると思います。

 で、問題になるのは、それ(マッサージの施術)を医療ととるか、単なる慰安ととるかです。
 どんなに高価なベッドでも、寝心地がいいというだけでは医療とは認められない。
 どんなに美味しくて、食べるだけで元気が出るような料理でも、栄養成分が同じなら、味はそこそこの料理と医療的には意味は同じ(東洋的な医食同源という考え方だと、料理の味や見た目も治療の内だと私は思う)。

 マッサージは、ただ気持ちいいだけの慰安だから、医療ではない、という評価をされています。
 医療保険を使ってマッサージを受けられる制度があるにも関わらず、それが非常に利用しにくくなっている理由のひとつがそれです。
 …ま、他にも色々と理由はあるようですが。

 リラクゼーションと称する無資格マッサージの人たちが、その傾向に拍車をかけています。
 でもそれでは、マッサージは自費でしか受けられない=お金に余裕のある人しか受けられないもの、になってしまいます。
 マッサージって、そういうものなんでしょうか。

 ちなみに私はマッサージは、狭い意味(日本の法律に則れば)では医療、広い意味では医療や慰安や体操や瞑想などの全てを含む、「手当て」に仮に付けられた名前のひとつ(按摩もそのひとつ)だと解釈しています。
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手当てはここから。

2015-08-30 07:36:57 | 仕事
 マッサージなどの手当ての起源はお猿さんの毛繕いだという説があります。
 私もそう思います。

 猿に進化する以前の動物も、負傷したら傷口を舐めるといったことはあったでしょう。
 それは自分の心身の状態をなるべく正確に認識しようとする行為であり、ひいては回復力を最大限に引き出すことにつながるわけですから、本質的には手当てと同様です。
 でも手当てというからには、舌ではなく、手(前足?)を使うのがポイントだと思います。

 猿以前の動物のほとんどは、純粋な四足歩行ですから、前足も後足も移動のための器官です。
 でも猿は、前足(手?)で、木の枝や食べ物や石をつかむようになりました。
 この時から、猿は自分の体重を移動させるということだけでなく、自分以外の何かを操作するという力を(その前足に)持ったことになります。
 そんな前足(手?)だからこそ、触れることで他者とコミュニケーションを取るための器官足りうるのです。

 もちろん後足も必要です。
 繊細なコミュニケーションのためには、豊かな語彙が必要です。
 手当てにおける語彙とは、圧の強弱や、接触時間の長短など、色々な要素があります。

 手先だけでチョコチョコ触るだけでは、文字通り小手先だけの貧しいコミュニケーションにしかなりません。
 だから足でしっかりと地面や床をグリップして力を出し、体幹を通して、手先へ伝えるのです。
 ちょうど会話する時に、声を口先だけでなく、腹から(心身両面の意味で。肚から、とも言える)出すほうがよく伝わるようなものです。
 そうすれば、手技の奥行きがグッと広がります。
 前足と後足(手と足?)は、その用途が明確に違うのです。

 言葉を持たないお猿さんや猿人は、だからこそ、触れ合うことによるコミュニケーションを当たり前のように完成させました。
 今、コミュニケーションといえば文字や音声などの言葉によるものが当たり前になっている人間が、触れ合いによる非言語的コミュニケーションについて理解するのは、難しいだろうなと思います。

 いや、これはちょっと、それこそ「言葉が足りない」。
 非言語的コミュニケーションを言葉で理解するのは難しい。
 でも、実際に経験して感じ取ることなら、十分に可能です。
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「一生、勉強は続く」という言葉の重さ。

2015-08-16 13:52:21 | 仕事
 「一生、勉強です」というフレーズ。
 あまりに頻繁に耳にするので、どこまで本気なのかと思ったりします。
 いや、実際その通りだと思います。でもこの言葉って、本当に重い。

 いわゆる「癒し業界」を見ていると、余計にそう感じます。
 整体やセラピストや柔整のセミナーのお題を見たら、もう見事に「どうやって儲けるか」というテーマの揃い踏みです。
 「どうやって癒すか、治すか」というセミナーなんて、ごく少数です。

 いわゆる「新しいメソッド」なら見かけますが、そういうのは大概眉唾ものです。
 RPGの設定と変わりません。

 何しろマッサージでさえ、「なぜ効くか」という機序についてはほとんど解明されていないのです。
 それなのに、つい最近思いつきで始めたようなメソッドが、「これこれこういう理由で体を治す」なんて理論体系を披露しても、裏付けなんてあるはずがありません。

 本当は「手当て」というのは、ある意味がっかりするぐらい地味なものなのです。
 坐禅の本質が、「ただ坐ってるだけ」なのと同じぐらい地味です。

 按じて、擦って、揉みほぐして。
 それだけのことを、一生かかってもやり切れるかどうか。そういうものです。

 それなのに、「顧客を引き付けるには、他のサロンとの差別化が必要」だの、「顧客を逃がさないオプションメニュー」だの、「心地よい空間を演出するための接遇」だの、そんなことにばかり熱心になってどうするのでしょう。

 クライアントに不快な思いをさせないように、振る舞いに留意するのは良いことです。
 でも、振る舞いで顧客を捕まえようというのなら、それは順序が逆です。
 経営ノウハウや接遇にばかり意識が向いてしまうなら、それは本業の手技に自信が無いと宣言しているようなものです。

 「いや、そんなことはない。技術は充分に磨いている。だが、それだけでは経営が成り立たないから色々工夫しているのだ」
 …という声が聞こえてきそうです。
 でも正に、その「技術は充分に磨いている」という感覚が問題なのです。
 技術を磨き、勉強することに「これで充分」ということはありません。
 技術は「お客様に笑顔になっていただくために」という気持ちひとつでどうにかなるようなものではありません。

 技術にも色々あります。
 ルールや目標が明確に設定されている技術ほど、修得や上達の道筋がハッキリしています。
 競技スポーツや、学校の勉強や、筋トレなどがそうです。
 そこへいくと、「手当て」の技術というのは、どこか雲を掴むようなところがあります。
 上達の手がかりを掴むことさえ困難です。

 でも、現金収入は必要…となると、もっと顧客に分かりやすい「数値化(何センチサイズダウンとか)」「見える化(ほうれい線が消えたとか)」、あるいはインテリアや接遇による演出で顧客を引き付けなければ、となってしまいます。

 断っておきますが、私は数値化や見える化やインテリアや接遇が悪いとは思っていません。
 むしろ数値化などは、できることに関しては可能な限り数値化するべき(勿論、根拠をハッキリさせた上で)だと思っています。

 ただ、「技術が同じなら、サービスの提供の形や接遇で差別化を」という発想が問題なのです。
 技術レベルが全く同じ施術家なんて、いません。
 一人ひとりが、バラバラの技術を持っています。
 
 100メートル走ならタイムで。バッターなら打率で。受験生なら偏差値で。
 それぞれのレベルを測定することができます。
 でも、施術家にはそういう指標がありません。
 クライアントを治せれば、レベルが高いと言える?
 いえ。たとえどんなにクライアントが不快な症状から回復しようと、それが施術のおかげだ、と証明することは困難です。
 だからこそ、施術家は自分の仕事に謙虚でなければいけないのです。

 が、地道に自分の仕事を検証しようという施術家が、どれほどいるのでしょうか?
 検証できる環境でないのなら、せめてもっと謙虚でいられないものでしょうか?
 だから世間から怪しい業界だと軽んじられているのです。

 まあ、こういう傾向が「癒し業界」限定の話であれば、まだ救いがあるのですけど。
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薬物と違って安全です。

2015-08-05 23:01:55 | 仕事
 マッサージなどの手当ての効果とは、地味なものです。

 溢れるアドレナリンが巻き起こす興奮と感動?いやいや。
 流れるセロトニンが誘う静謐?一応あります。

 でもそういう効果は、薬物でも得られます。
 そしてそれは、上手にコントロールしないと危険です。

 では不動心?それとも平常心?
 いい線です。

 でも更にそれよりも、体験した瞬間に黙り込んでしまうような感覚。
 素晴らしいからとも言えるし、言葉にするとしょーも無いからとも言えます。
 いやそれ以前に、言葉にすることが無意味に感じられます。

 この感覚を言葉にしようという意欲のある人は、よほど饒舌な、天性の評論家でしょう。
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出来る、出来ないに一喜一憂しながら。

2015-07-19 09:54:03 | 仕事
 右肘を骨折してから、ほぼ一か月が経過しました。
 やっと、かなりまともに顔を両手で洗えるようになり、嬉しいと思いました。
 それは、やっと顔に指先が届く程度だったのが、どうにか掌全体が顔に付くようになったということです。

 顔に指先を付けることも出来なかったのが、顔に付くようになった時は、やっぱり嬉しいと思いました。
 でもすぐに、掌が顔に付かないことに不満を感じるようになりました。
 だから多分もうすぐ、顔の前面は触れても、側面は上手く触れないことに不満を感じるようになるのでしょう。
 できるようになった喜びを忘れて、できないことに不満を感じる。
 向上心があるとも言えるし、身勝手とも言えます。

 そして、そんな気持ちの揺れを冷静に観察している自分がいる。
 冷静でありながら、患者の心理を正にダイレクトに覗けることに、どこかで興奮している。

 怪我したことを、心のどこかで「これもいい経験だ」と感じているような節がある。
 それはまずいだろう、と思う自分がいる。
 そういうのは、ポジティブとは言わない。
 怪我や病気そのものは、しないに越したことはないのだ。
 それをさも「いい経験」にして求めるような気持でいたら、いずれはもっと大きな怪我を招くかもしれない。

 これって一種の自傷行為なのでは?

 …自分自身の心身でも、こんなに混沌として御しかねるのに、他人の心身なんて推し量れるものだろうか?
 ましてや能動的な調整など?
 徒手による治療に携わる人間は、よくよく自戒するべきだと思う。
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癒す術を学ぶのに。

2015-07-16 07:42:05 | 仕事
 医療と医術と医学。
 言葉にしてしまうと、みんな別物になってしまう。

 そして、それが言葉の利点であり弱点でもある。
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理学療法士のマッサージに疑問が。

2015-07-13 07:36:18 | 仕事
 少し前に、PTのマッサージについての記事を書きました。
 あの時点では、リハビリのための他動運動の合間に、揉む・擦るといった手技をはさむぐらいならアリかな、というニュアンスで書きました。

 しかし、病院で何度もリハビリを受けている内に、ちょっと疑問が湧いてきました。
 骨折した腕のADLを回復させるためのリハビリで、他動運動の合間にマッサージ的な手技をすることは、本当に必要なのだろうか?

 患部やその周囲の状態を触診する、というのは理解できます。
 でも、揉んだり擦ったりはどうでしょう。
 ストレッチの動きを、大きくしたり小さくしたり、速くしたり遅くしたりといった、スピードやリズムに変化をつけるだけで、リハビリに必要なリラックス効果は十分に得られるのではないでしょうか?

 その昔、ストレッチをする時は、伸ばしている筋肉を叩くと(股割をしながら内転筋を叩く、等)効果が上がりやすいという俗説(根拠も効果も無いようです)がありましたが、ちょっとそれに近いような気がします。

 断っておきますが、リハビリそのものについては、PTさんはマッサージ師より広範囲な知識を持っているようですし、適切なアドバイスもしてくれます。
 ただ、リハビリというのは真剣にやるとそれなりに苦痛を伴うことが多いので、心身のバランスを取るためにリラックスしてもらうなら、やはり短時間サッと流す程度でも、マッサージ師が全身を施術するほうが効果的なのでは?
 …というのが週二回のリハビリを半月ちょっと受けた時点での感想です。
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たかが傘、されど傘。

2015-07-09 19:03:25 | 仕事
本日奈良の夕方はチョイと曇り空です。
持っていった傘の出番はありませんでした。

でもせっかくだから、右手でぶら下げて持ってリハビリしながら帰ろうと思いました。
いや、甘く見てました。
歩を踏み締めるごとに、反動で揺れる傘の重みで痛いの何の。

まぁ動きが回復してきたからこそなのですが、こう痛いと治ってないんじゃないかと不安になったりもします。

ああ、患者さんはこんな風に不安になるんだよな、と再確認。
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痛いとか、怖いとか。

2015-07-06 08:28:23 | 仕事
 右肘は鋭意リハビリ中です。
 今朝は何とか両手で顔を洗えました。

 まだ骨がつながっていないわけですから、当然動かせば動かしたなりに痛みます。
 が、感覚的には、「痛い」というより「怖い」というほうがしっくりきます。

 そういえば、「怒、喜、思、憂、恐」の五情は、それぞれ「肝、心、脾、肺、腎」の五蔵(この場合、五臓とはちょっと違うのです)に対応しています。
 東洋医学の基本というやつです。

 右肘が回復するほどに、つい無意識に普段の動きをしようとして、現在の右腕にできる以上の動きをしてしまい、「痛い」と同時に「怖い」と感じることが増えています。
 「怖い」という感情は腎を損ない、腎を損なえば体力や元気が削られます。
 …ああ、それでここしばらく、妙に疲れるのかな?

 …などといった理屈を考えるのは面白いものです。
 でも、こういう理屈に「囚われて」しまったら本末転倒です。
 東洋医学に関わる人間が陥りがちな罠です。
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