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葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

生きたリズムの味わい。

2015-11-01 10:40:54 | 仕事
 人間も動物だから、動くのが楽しいと感じるように出来ている。
 だから、適度な運動をすると心が晴れ晴れとする。
 健康のための運動で大事なことは、闇雲に鍛えることではなくて、動きを味わうこと。
 心身は深いつながりがあるから、身体の動きを味わうことは、心の動きと向き合い、本来の活動を取り戻すことにつながる。

 ただ、寝たきりの人や高齢者は運動をしたくてもできない。
 そういう人たちに、運動の代わりに自分の心身と向き合ってもらうなら、鍼灸やマッサージのような触覚を媒介とした非言語的コミュニケーションは有効な手段のひとつだ。
 触れるということで、触覚を通じて自分の身体の実在を感じ、味わってもらうことで、情緒面の安定を図る。QOLを内面から充実させるというのはそういうことだ。

 マッサージは手で触れることで、鍼や灸は道具を介して触れる。
 触れ方のバリエーションが多いほど、コミュニケーションにも幅が広がるから、鍼は刺すだけでなく、提鍼のように特殊な形状をしていたり、触れるだけのこともあるし、灸も高熱とは限らない。
 患者との相性や施術者によって得手不得手があるので、マッサージも鍼灸も全てできればいい、というものでもない。
 大事なのは、人の手を介して触れることで、生きたリズムを伝えること。
 機械では効果が薄い。

 ゲームだってこれだけAIが進歩した現在ですら、CPU戦より対人戦のほうがずっと面白い。それと同じことだ。
 チェスや将棋では、人間より強いAIが完成しつつあるようだけれど、強いとか勝てるとかということと、面白い勝負ができるということは別だ。
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甘い、ということの力。

2015-10-30 07:42:19 | 仕事
 ブドウ糖溶液は、元気な人にとっては甘いだけの毒にも薬にもならない水だ。
 だが、カロリー不足で危険な状態にある人にとっては、薬と同等の意味を持つ。

 同じように、鍼灸やマッサージは、心身が思い通りに動く人にとっては、慰安もしくは調整の意味合いが強く、動かせない人にとっては、医療の意味合いが強くなる。
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数字にならない感覚。

2015-10-28 07:44:22 | 仕事
 マッサージのエビデンスというと、理学療法的な手法をテーマにすることが多い。

 確かに関節の可動域や筋力を測定して数値で評価するといった理学療法的な手法のほうが、エビデンスを構築しやすいだけでなく、チームとして情報を共有しやすく、治療計画を立てやすいというのは分かる。
 だが数字にできるという時点で、それはやはり理学療法の領分であって、マッサージの本質ではない。

 触れ方ひとつとっても、どこそこにどの角度でこういう接点でこれだけの圧力でと分析すれば、数値化できると思うかもしれない。
 でもそれはやはりただの数字だ。
 触れたときの、その感覚が重要なのだ。
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能動的に受ける。

2015-10-25 09:44:04 | 仕事
 マッサージなどの手当てそのものは、いわば手掛かりだ。

 もちろん手掛かりとして扱いやすいに越したことはない。
 だがしかし、受け手が手掛かりをもとに、自らの心身を探ることをしなければ、早晩効き目は薄くなる。

 最初のうちは効くものだ。新鮮な刺激に体が勝手に反応してくれるからだ。
 でもただ任せっきりでは、体が刺激に慣れてしまう。

 難しいことではない。
 手当てをする側もされる側も、必ず変化していく。
 その変化を、ただ感じ取ろうという意識さえあればいい。

 稀に、施術家に依存してしまうことで、効果を持続することもあるが、依存が癖になると抜け出すのは困難だ。
 だから、施術家にお任せください、というのは少し違う。
 受ける側が完全に受動的だと、リラックス「させられている」笑顔を「作らされている」だけになってしまう。
 それでは一時しのぎの効果しか得られない。

 施術をする側と受ける側が、お互いに自分と相手、自分と自分の両方のネットワークで情報交換をする中で、より能動的に心身を整えていくのが理想だ。
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まずは、振り回されない。

2015-10-22 07:48:15 | 仕事
 施術をする側も、受ける側も、アンチエイジングとかデトックスとかダイエットとか痩身とか体質改善とか、その根拠を、もっと真摯に考えてみませんか?
 安易に喜びとか笑顔とかを前面に出すのって、不味いでしょう。
 よく効く施術は、悲しさや怒りなどの感情を引き出す可能性があるし。

 ただ、そういった感情と立ち向かうのではなく、振り回されないために、ただ向き合う。
 施術者はそのために、どっしりとした錨でありたい。
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伝わるのは物理的な力?

2015-10-20 07:33:11 | 仕事
 ある手技によって筋肉がほぐれるとか、リンパの流れが良くなるとか、興奮した神経を鎮静させるとか、そういった理論は当てになりません。
 手技が直接的に、物理的にどんな効果があるかは、まだわかっていません。

 手技は、コミュニケーションです。
 例えば、誰かがかけてくれる言葉によって、余計な力が抜けたり、気持ちが落ち着くことがあります。
 でも、言葉を伝える音声自体には、そんな物理的な力はありません。力を抜くのも落ち着くのも言葉を聞く側の力です。
 言葉はその力を引き出すための信号です。

 手技が凝りをほぐしたり、血行を良くしたりするのも同じようなものです。
 ただ、触覚によるコミュニケーションは、言葉によるものとは根本的に違います。
 面倒なことに、ではどう違うか、ということを言葉で説明するのは非常に困難なのです。

 乱暴な例えですが、施術者がリモコンで、被施術者はテレビだと考えてみましょう。
 リモコンは信号を出しているだけで、実際に電源を入れたりチャンネルを変えているのはテレビです。

 ただし施術者と被施術者の場合、その関係は操り・操られているのではありません。
 リモコンとテレビほど自由自在ではありません。
 施術者が出した信号にどう反応するかは被施術者次第という部分は大きいですね。
 その誤差をなるべく小さくするのが施術者の技術とも言えますが。
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自費治療とオカルトの距離。

2015-10-18 09:55:25 | 仕事
 マッサージに保険が適用されるのを良しとしない人たちは、「自費でなら自然淘汰されるから、何をやってもいい」とする傾向があるが、それは甘いと思う。
 
 自費で施術するとなると、否応なしに無資格マッサージやサプリメントや偽美容や嘘トレーニングといった、いわゆる癒し業界、健康産業の人たちと同じ土俵で仕事をすることになる。
 そういう人たちは、骨盤矯正や不妊治療やアンチエイジングや宿便といった怪しいサービスを、科学的根拠ではなく、エンタメ系サービス業のノウハウをもって、顧客(患者ではない)に甘い声で売りつける。
 その声の力は強大で抗いがたく、聞いた(聞かされた)人たちは、自分で判断したつもりで、まんまとその術中にはまってしまう。

 マッサージ師や鍼灸師が自費で仕事をするとなると、こういった要素を取り入れずに患者を集めるのは非常に難しい。
 そういう仕事が嫌だという良心的な治療家や施術者ほど儲からないのが現実だ。

 そういう仕事とはつまりオカルトであり、顧客から科学的・合理的な判断力や、自分の心身と向き合う機会を奪うということだ。
 奪われたのが健康な人ならまだ救いがある。取り返す機会もあるだろう。
 でも本当に何らかの病気を抱えていて病院に行くべきなのに、儲け主義の癒し業界や健康産業の罠にかかって、適切な医療を受ける機会を逃すようなことがあれば、これは冗談では済まない。

 自費での治療、というより、健康に関わる諸々の産業を、自然淘汰されるから認めるというなら、あくまでもサービスを提供する側から発信される情報が、自然科学の手法に則って作られているということが絶対条件だ。
 でも民間企業というのは売り上げこそが正義だから、フェアに情報を発信するのは難しい(難しいというのは控え目な表現で、本当は無理と言い切りたい)。
 健康というのは公共の利益に関わるのだから、少なくとも広告においては厳しい審査が必要だろう。
 「効果・効能を謳わない」なんていうお約束では、それこそ効果が無いことは、もう分かり切っている。

 癒し業界や健康産業がこのまま大声を上げ続けたら、それに比例して、真っ当な医学のほうが「頭が固い、レベルが低い」と評価する人が増える続けるだろう。
 既にその傾向はあると思うのだが、それでいいのだろうか?
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医療という歯止め。

2015-10-11 09:33:06 | 仕事
 マッサージは医療技術として開発されてきたのだから、本来なら通常医療の範疇だ。
 しかしその特性上、マッサージの効果をダブルブラインドで証明することは困難だ。
 そのうえリラクゼーションと称する無資格マッサージが目立ちすぎるために、むしろそちらが本来のマッサージと誤解され、マッサージはほぼ慰安(アメニティーなんて横文字で誤魔化すのは狡い)と位置付けられている。

 マッサージを通常医療と認めていない人たちは、当然マッサージに医療保険が適用されるのはおかしいと考えている。
 だから例えば、「保険で請求される金額の内、往療費がそのほとんどを占めているのは不自然だ、不正だ、違法だ」と糾弾することがある。
 これは無茶な言いがかりだ。なぜならそもそもシステム自体が、往療費で利益を出すように制度設計されているからだ。
 施術費が一部位275円、5部位全部でも1,375円なんて、下手をすれば子供の肩たたきの小遣いではないか。
 それともマッサージなんて、子供がやっても大人がやっても同じだというのだろうか?

 ちょっと脱線気味の例えで考えてみる。
 プレーンオムレツという料理がある。シンプルだが、調理する者の技術が直接的に反映されるメニューだ。
 でも、ちょっと器用で普段からちょこちょこ料理をしているような子供が1~2時間も練習すれば、素人目にはプロが作ったのと見分けがつかないようなオムレツが焼けるだろう。
 でも分かる人には分かる。マッサージにもそういうところがある。
 そして面倒なことに、無資格マッサージをしているのは大人であり、無資格の施術者でも顧客(患者とはいえない)との信頼関係を、施術以外の接遇で築くことで、それなりの効果を上げてしまう。
 だがそれは、どんなに快くとも手当て本来の効果とは別物だ。
 なのに無資格の人たちの方が声が大きい(何しろ広告制限が無い)から、医療関係者でさえマッサージを「ただのリラクゼーション」と認識する傾向が止まらない。

 いや、どうしても医療と認められない、マッサージはリラクゼーションだというのなら、もう諦めるしかないのかと、つい弱気になることもある。でもそれなら、広告制限を外してほしい。
 本物が声を上げることを許されず、無資格マッサージの声ばかりが大きくて、そちらのほうが本物であるかのように誤解・認識されてしまうというのはどう考えてもおかしい。

 こういうと、マッサージを保険の適用から外したいだけの人たちは、「いや、我々はマッサージの医療効果について議論しているのであって、広告がどうこうということについては知らないし関係ない。それについてはそっちの専門家と協議してくれ」と言うだろう。
 ではそのように、そっちの専門家と協議したとしたら?「我々はマッサージを医療と認めているから、そのことについては…」以下同文。

 みんな、自分の立場だけで好き勝手なことを無責任に言っているわけで、これでは売り言葉に買い言葉にしかならない。
 ならばマッサージ師も医師や保健所の立場など関係無い、好きにやらせてもらう、ということになりかねない。
 そんなに医療費を削減したいのなら、とりあえずは無資格の人間が、少なくとも保険適用のマッサージに関われないように法整備をするというのはどうだろう?
 大手の訪問マッサージの業者は、数字を上げることにしか興味の無い無資格者が営業に奔走していることが多い。
 本来小商いにしかならない制度で事業展開なんて発想で仕事をしたら、それは不正請求につながりやすくなるだろう。

 もっとも、マッサージを慰安と言い切ってしまうのは流石にマズいだろうなと、医療関係者なら分かっているのではなかろうか。
 そんなことをしたら、ますますトンデモ科学・オカルト理論の治療家の活動に歯止めが効かなくなるだろうから。
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静か、ということに焦点を合わせる。

2015-09-23 07:40:54 | 仕事
 マッサージや手当ての本質である、言葉を介さない、非言語的コミュニケーションを理解するのは難しい。

 これは、沈黙するということとも違う。
 なぜなら非言語的コミュニケーションが当たり前だったころは、言葉が存在しないからだ。
 存在しないものを使うも使わないもない。当然、沈黙という概念も無い。
 いや、動物であっても、鳴かない、吠えないということはあるだろうが、それは人間が言葉を使用しない「沈黙」とは、やはり意味合いが違うだろう。

 また、体育会的なノリのアイコンタクトとか、ツーと言えばカーとか、以心伝心とか、そういったものとも違う。
 こういうのは、ある集団が一定以上の時間を共有することで、お互いの行動パターンを学習したからこそ成立するものであって、その本質は言語と同じだ。

 かように理解しづらい非言語的コミュニケーションに取り組むよりは、とりあえず言葉を使うほうが手っ取り早い。
 だからつい言葉かけをしてしまう。

 いや、「痛くありませんか?」的な確認が、禁じ手とまでいうつもりはない。
 だが例えば、座禅やヨガの最中に、導師と弟子、もしくはインストラクターと生徒が、いちいち微に入り細に入り言葉で確認しあっていたら不自然だろう。

 マッサージや手当ての理想は、体に手で、肚で、体で聞いて、訊いて、聴いて、情報を交換し合うことだ。
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不愉快な広告。

2015-09-13 10:03:15 | 仕事

 中学生の時に、「暮らしの手帖」という雑誌でスティーブ・マックイーン氏が日本の企業を相手に訴訟を起こしたという記事を読んだことがある。
 その時に、私の広告というものに対するイメージは固まってしまった。

 ここはマッサージに関する記事が多いブログだからか、セラピスト関係の広告がよく掲載される。
 例えば「誰でも簡単に覚えられて、お客様に喜んでもらえるハンドセラピー(他にもアロマとか整体とか)の講座」といった類いで、つまりは違法行為である無資格マッサージを教えます、というもの。
 もちろん、「こういう新しい(医療関係者も注目しているとか、どこぞの団体の公認とか)セラピーを受けませんか、というのもある。
 こんな広告を、あろうことか鍼灸師が発信していたり、図々しくもマッサージという言葉を堂々と使用しているケースさえある。

 こういった広告を平気で掲載するGOOも、どういうつもりなのかと思う。まあどういうつもりかって、儲かれば正義なのだろう。
 実際のところ、ブログに多用されているキーワードに応じて、似たようなカテゴリーの広告を掲載すれば、書き手も読者も興味を持つ確率が高いということか。
 広告を選んでいるのは人間ではなく、プログラムに従って割り振られているだけだということも想像がつく。
 だが、クライアントが掲載を申請しさえすれば、大した審査もせずにネット上に流してしまうというのは、正直不愉快だ。

 公の機関が無資格マッサージの違法行為を一斉摘発しないのは、いたずらに失業者を増やさないようにという温情からであって、違法行為そのものを認めているわけではない。
 経済効果の観点から考えれば、無資格マッサージの摘発は必ずしも割に合わないということもあるだろう。
 それを「お上は私たちを認めている」と拡大解釈するセラピストの人たちは、正直言って狡いと思う。

 「だったらマッサージ師も、リラクゼーションに負けないように派手な広告をすればいい」という人もいるだろうが、そうはいかない。
 国家資格を持ったマッサージ師や鍼灸師には、医業に関わる者として厳しい広告規制が課せられているからだ。

 まあ無資格マッサージについて理解していない(いや、もしかしたら理解した上でやっているのかもしれないが)のはGOOに限った話ではないが、だからと言ってGOOの広告に対する態度を認めてしまうのも癪に障る。
 ただ、ブログの書き手の好みに応じて気の利いた広告を配信している、喜んでもらっている、いい仕事をしていると思われたら心外なので、そこははっきり書いておきたい。
 私は自分のブログにセラピストという仮面を被った無資格・違法マッサージ関連の広告が載ると非常に気分が悪いということを。

 何にせよ「とにかく儲かれば何でもいい」という歪んだ本音が如実に表れるのが広告だ。
 スティーブ・マックイーン氏が存命の時と違い、日本も今では肖像権については厳しい取り組みをしているだろう。
 だがそれは、法的な面倒を避けたいからであって、儲かるなら責任も道義も無視ということに関しては変わりはない。
 だからすべての広告は、とりあえず疑うという基本を忘れないようにしたい。

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