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葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

皮膚の不調。

2016-06-26 08:12:00 | 仕事
 ちょっと久々に皮膚の調子が悪いです。
 私は体調を崩すと湿疹が出やすくなるのですが、少々大きめに崩れているようです。

 なので、皮膚科で処方された薬を服用しているのですが、それはそれで副作用も出てきました。
 医師から「敏感だねえ」と言われましたが、嬉しくありません。

 しかし実際問題、この皮膚感覚の敏感さは、マッサージの施術をする上ではそれなりに便利なものです。
 ベタベタな話ですが、弱点は長所のすぐそばにあるということですか。

 とりあえず生活習慣を見直しつつ、色々と養生を試してみる好機?と思っておきましょうか。
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片膝を着く?

2016-06-12 07:36:45 | 仕事
 施術をする時に、患者さんがベッドではなく、床に寝ている場合。
 施術者はしゃがむ姿勢になります。
 こういったケースでの姿勢として、学生の頃、片膝を着くという基本から展開するやり方を教わりました。

 でもこの片膝を着くのって、見た目の問題が大きいのでは?
 居合の片膝を立てた構えとか、合気道の膝行とか、ああいう凛とした雰囲気に影響されただけなんじゃないのかと。
 ちなみに武術つながりでいうと、中国では跪くことは格下宣言だったり場合によっては敗北を意味するらしいから、なるべくしたくないらしい。

 背景となる時代や日常生活の習慣にもよるのでしょうが、地に膝をつく動きというのが、それほど合理的とも思えません。

 ちなみに私は数年間、片膝を着く姿勢で施術をして、膝(特に膝蓋靭帯)を痛めた経験があります。

 結局今ではなるべく片膝を着くようなことはせず、状況に応じて自然にしゃがんでいれば、十分にバランスが取れるということで落ち着いてます。
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鍼を打つ指。

2016-05-29 07:42:54 | 仕事
 もう二十年近く前に。
 学校の授業で、鍼を「トントン」と打つ時は「示指のPIP関節で鍼の頭を打つといい。固い部分だから、一息に打てる」と教わった記憶があります。

 私はマッサージの方が得意なので、マッサージと比べると鍼を打つ機会は少ない方なのですが、授業で教わったことが頭に引っかかっていたので、ずっとPIP関節を使って打っていました。

 しかし先日、カミさんの腰に鍼を打っていて、「何か違う」と思いました。
 いや、以前から感じていたのですが、PIP関節で打つとどうしても「パタパタ」という感じでキレがないのです。
 ちょっとでもタイミングが狂うと「ムニュッ」という感じになるし。

 鍼の頭を打つのなら、いっそ指先、指腹より指頭より、いっそ指端を使うぐらいの方がスカッと打てるのでは?
 体全体を柔らかく波のように使い、でも手首から指先にかけて、ほんの少しずつ鍼の一部になるようなイメージで、あまり振らずにカツッという感じで。

 ガッツンと打ち込んでしまうのは良くないのですが、いや、PIP関節でパタパタ打つよりも、むしろ手加減はしやすい。
 タイミングも融通が効くし。
 何と言ってもキレが違う。まさに「切皮」というにふさわしい感覚かと。

 まあ色々やってみるものです。
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手当てで得られる?感情。

2016-04-10 07:48:09 | 仕事
 実際に嬉しいと感じたなら、素直に喜べばいい。
 でも、マッサージなどの手当てによって凝りがほぐれると、感情はニュートラルな状態になる。
 東洋的な表現をするなら、中庸か。喜びとはちょっと違う。
 喜びに固執することは、新たな凝りにつながる。

 痛みや悲しみが「嫌」なのは自然だ。それが体の機能を落とすからだ。
 だから痛みや悲しみを回避するために、手当てを工夫するのが大前提だ。
 でもだからといって、その場限りの喜びや楽しみを痛みや悲しみの上に被せても、あまり意味は無い。
 大体、喜びや楽しみに固執するのは、苦いのや酸っぱいのが嫌だから甘いものだけ食べるようなものだ。

 痛みも悲しみも喜びも楽しみも、感じたならただ感じる。そこに固執しない。
 断っておくが、これは「期待し過ぎるとがっかりするから最初から幸福は期待しない」といった類のものではない。

 喜びにこだわるのは、一種のルール設定だ。
 喜びというポイントをゲットするゲームのようなものだ。
 それはそれで面白いゲームかもしれないが、手当ての本質からはズレている。
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私が無資格マッサージを認めない理由。

2016-03-20 07:54:00 | 仕事
 最初にハッキリさせておきますが、マッサージの資格を持っていると言えるのは、国家資格のあん摩・マッサージ・指圧師と医師だけです。
 その他の整体やカイロやアロマセラピーやらの有象無象の民間資格は、全てマッサージの資格ではありません。

 そしてマッサージというのは、手で人に触れて、圧す・揉む・擦るなどの手技を施し、心身の健康状態に影響を与えようという技術、つまりは手当てのことであり、マッサージというのは手当ての代表格としてつけられた仮称のようなものです。

 手当ての仕事に関わろうというのなら、まずはこういう基本的なことを調べるべきです。
 難しいことではありません。少し大きな本屋に行けば、立ち読みするだけでこういったことが解ります。私がそうでした。
 今ならネットでもっと簡単に調べられます。
 それをしないというのは、思慮が浅く、慎重さに欠け、人に触れることに対する危機感、危機意識が薄いということです。

 そんな人間が、他人の体に触れて健康状態に影響を与える技術の資質があるとは思えません。
 最初の一歩目から調べものの手間を惜しむ人間に、虚実ないまぜの情報から有用なものを選択する力があるのでしょうか。
 そんなことだから、整体やもみほぐしの「一生モノの技術が身に付きます」なんてコピーを鵜呑みにしてしまうのです。
 そんな人が「患者が、利用者が喜ぶから」という軽薄な理由で無責任な情報を流します。

 特殊なセラピーでも活法でも、やりたければやってもいいのです。でもその大前提として、資格を取るべきなのです。
 それがスタートラインだからです。
 車の運転免許でいえば、あん摩・マッサージ・指圧師の免許は、普通自動車第一種運転免許と同じなのです。

 無資格の人たちは、それこそ運転免許でいえば、手当てなんて自転車みたいなものだと思っているのではないでしょうか?
 でも今時、自転車だって実は結構危ない乗り物だと解っています。
 私も場合によっては、自転車だって免許があってもいいんじゃないかと思いますし。

 ましてや手当てです。リラクゼーションだからいい、なんてことはありません。
 成程、ほとんど摘発はされてないけれど、それはあくまでも温情とお金の問題です。
 怒られなければ、皆がやっているから、やってもいいなんてのは大人じゃありません。

 ちなみに運転免許を引き合いに出すと、「でも、マッサージは子供が親にすることもある。車と違ってとりあえず誰でもできるしやっている。それも規制するのか?」という意見もあるでしょう。
 確かに家庭で身内の体をほぐすのは、私有地で車を運転するようなものだから構いません。
 でも仕事となれば別です。お金が絡んでくるからです。
 お金が絡むと、人は簡単に越えてはいけない一線を越えます。
 そこで自戒するためには、資格のために三年間は勉強することで、冷静さや客観性といった裏付けのある矜持を持つことが必要です。

 するとこういう意見が出てきます。
 「でも無資格でも、本当に利用者のことを考えて仕事をしている人もいる。そういう人にも矜持は無いのか?」
 …厳密には、無資格の人に矜持が全く無い、ということはむしろ稀でしょう。
 ただ問題は、矜持の量というより質の問題なのです。
 せめて三年間、学生、アマチュアとして勉強する時間を持たなかった者が、独りよがりでない矜持を持つのは非常に難しいことです。
 それほど手技療法の世界というのは、自由と無責任が表裏一体であり、怪しい魅力に溢れ、だから未だに胡散臭さが抜けないのです。
 そんな世界でリスクを最小限にするためには、公的な資格による制限が不可欠です。

 ではこういう意見は?
 「私のクリニックでは無免許の人がマッサージをしているけれど、それはあくまでもサービスで、医療の一部として保険の請求はしていないからいいでしょう?」
 …駄目です。
 保険の請求をしていない、というのはあくまでも書類上の話で、マッサージのサービスは集客のためというのが本音でしょう。結局はお金のためなのです。
 その本音の上に、「お客様の笑顔のために」という嘘のラベルを貼り、その嘘は手技を通して患者の心身を歪めます。
 正に「一線を越える」良い例です。

 確かに無資格の施術者の中にも、利用者に楽になってもらいたいという「気持ち」がある人はいるでしょう。
 でも手当てで伝わるのは、その時その時の状況で変化してしまう「気持ち」というよりは、長い時間をかけて積み上げ、もしくは掘り下げてきた「哲学」のようなものなのです。
 無資格の人たちは、その軽薄で浅薄で不安定な哲学を、手技を通してクライアントに伝え、心身を歪めていきます。
 手当て、マッサージには、即興的な要素はありますが、決して即席ではないということです。
 ただ案外、こういった軽薄で浅薄で不安定な即席手技で、一時的な爽快感を得られる可能性はあります。
 でもそれは、スナック菓子やインスタント食品で得られる快感と同質のものであり、長期的に利用して健康にいいはずがありません。
 そして無資格マッサージは、健康に悪いということを自覚出来ない分、スナック菓子やインスタント食品よりもたちが悪いといえます。
 手当てに関わる仕事をしている人間は、手当ての良さだけでなく、恐ろしさもしっかりと認識すべきです。

 ところが。
 有資格者の中にも、無資格の施術で救われている人もいるとか(救われるどころか、悪化する人も大勢いるのに)、無資格の人たちの中にも学ぶべき技術を持った人がいるという人が結構います。
 でも私は、誰が何と言おうと無資格の人たちは認めません。
 私のような人間がいなければ、歯止めが効かなくなるからです。

 まあ折衷案が無くはありません。
 そうですね、現実には無資格の人を根絶するのが無理ならば、新しい国家資格を作るというのはアリでしょう。
 規定の講習・実習を数時間受ければOKという、「予備手技員(仮称)」
 仕事をする条件として…
 「あん摩・マッサージ・指圧師と違い、ちゃんと勉強していないから効果も安全も保障できない」ことを利用者に告知すること。
 一回の施術時間の上限は30分で、料金は千円未満であること。一日の施術人数の上限は6人まで。雇用される場合、時給は千円未満であること。
 これならいいでしょう。いや、真面目な話です。
 これなら本当に、条件がどうだろうと手当ての仕事がしたいという施術者や、不定愁訴で困っている人たちの力になりたいという純粋な業者・経営者だけが集まりますから。
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本物が肩身の狭い思いをする世界。

2016-03-06 18:32:54 | 仕事
 カミさんのブログの記事を読みました。
 で、クローズアップ現代の番組テキストを読みました。

 う~ん。
 番組に寄せられているコメントの中に、納得できる意見がポツポツとあります。
 そういったコメントと被る部分もありますが、以下、この番組に対する私の意見を書きます。

 とにかく、技術がどうとか勉強がどうとかいう以前の問題なのです。
 人の体に触れて、刺激を加えて、爽快になってもらおうとか健康状態に影響を与えようというのなら、ちゃんとあん摩・マッサージ・指圧師の資格を取りましょう、ということです。
 いくら運転が上手くても、無免許で車を公道で運転することはできません。
 それと同じで、いくら手先が器用でマッサージの真似ができたとしても、無免許でマッサージをすることはできません。

 しかしこう言うと「いや、私がやってるのは整体です」とか「リラクゼーションです」とか「お金を取ってませんから」とか「ほぐしマッサージとか、癒しマッサージとか、マッサージの前に○○ってつければいいんですよ」とか、もうあれやこれやと…。
 つまりですね。
 押したり揉んだり擦ったりといった手当てを、国家資格を持たずにやるのは止しましょうということです。
 マッサージというのは、そういう手当ての代表格として、仮称として使われているようなものです。
 …こんな事、本当はみんな分かった上で知らんふりしてるんですよね。
 まあ、資格無しでできるのは、ストレッチや筋トレの指導までですか。それも本当はPTの資格がある方がいいんですが。

 番組では柔道整復師も取り上げられてましたが、ハッキリさせておきたいのは、柔道整復師はマッサージをしてはいけない、ということです。だから、柔道整復師がマッサージをして事故(これは無資格者の事故)を起こしても、柔道整復師が整復技術(これはマッサージではない)を施して事故を起こしても、それは有資格者がマッサージの事故を起こしたことにはならないということです。
 番組内で、接骨師会のお偉いさんが、最近は修行不足の人が多い云々と言ってましたが、まずは法令遵守を厳格に指導して欲しいものです。
 まあそれを言い出したら、明治国際医療大学特任教授の矢野氏の発言だって、あん摩・マッサージ・指圧に何が出来るかを本気で考えたことが無いんじゃないかと思うようなものでした。
 なるほど、マッサージ師が低く見られるわけです。

 でも、「危害を受けた施術」の円グラフ。あれは酷い。
 何が酷いって、マッサージと○○マッサージが同じカテゴリーになってます。
 ○○マッサージって、つまり「癒しマッサージ」とか「ほぐしマッサージ」とか「足つぼマッサージ」とかそういうのでしょう。早い話が「無資格マッサージ」です。一緒にされたくないなあ。
 いや、正直言って事故を起こすのは無資格の人が圧倒的に多いと思いますよ。
 有資格者は単純に数が少ないですから。世間一般で思われている以上に、あん摩・マッサージ・指圧師というのはレアな存在なのです。
 無資格者の方が、数でいえばもう一大勢力ですよ。

 ボディワークとかいう無資格マッサージの団体の、人材育成の講習も紹介されてましたけど、こういうのは困りますね。
 肩甲骨内側の下部は、肋骨を折りやすいから圧迫禁止?
 効くツボがあるのに?折らないように圧を加減すればいいのに?
 ええ、解ります。そんな精妙な技術を持つ施術者を育てようと思ったら、時間もお金もかかりますから。
 しかもこういう技術は、施術者の才能に負うところが大きいから、教えても出来ない人には出来ません。
 だったら、最初から危険なところは触らないと決めておけばいい、ということでしょう。

 でもそれでは、その危険だけど効く部分を施術した方がいい、もしくはして欲しい患者はどうなるのでしょう?
 「そこは危険なので、施術出来ません」と、対応マニュアルを作っておくのでしょうか?
 それが患者さんのためになる施術、仕事なのでしょうか?
 で、そんな対応を受けて、そういうものなんだと思い込んだ患者さんが、有資格者の施術を受けて、その「危険だけど効く部位」を施術されたら、どう思うでしょうか?
 「あれ?この人、骨折するかもしれない所を圧してる?勉強してないのかな?」と思うかもしれません。

 で、何だかんだで「マッサージは危険」とか「マッサージでは治りません」なんて無責任な風評が広がったりする。
 有資格者のマッサージ師は何も悪くないのに?…いや、要領は悪いけど。

 あ、番組のコメント欄を読まれる初心者の方のために書いておきます。
 「○○で治った」とか「○○で治ることがある」みたいな、経験談的なコメントは、基本的にヤラセだと思った方がよろしい。
 治療をして患者が治ったとしても、その治療が効いたから治ったのかどうかという判断は、非常に難しいものです。
 少しでも医療を齧った者なら、「この治療で治った!」なんて簡単には言えません。

 それにしてもみなさん、頭だけで生きて、体を疎かにし過ぎなんじゃないでしょうか。
 これって私や、それから「うんうんそうだよね」なんて思ってそうな、この記事を読んでいるあなたも含めてです。
 だから世間は「体に触れる」マッサージやその免許について、こんなに鈍感でいられるのです。

 まあ基本的にはお金の問題です。癒し業界の市場規模は一兆円だそうですから。
 それだけの規模になれば、関わる人の数も半端ではありません。
 大幅な規制をすれば、大量の失業者を出し、納税額にも影響するでしょう。
 結局、少数の誰かが傷付いても、経済が循環するほうがいいというのが、大多数の本音ということです。

 いや、お金が一番ではない人もいるにはいますけど。
 私もそうです。だから私は、自分があん摩・マッサージ・指圧師であるということに拘ります。
 これは自慢にはなりません。
 資本主義万歳の日本で、本質的な意味であん摩・マッサージ・指圧師であることに拘るというのは、弱者宣言をするのに等しいからです。
 そして本物は肩身の狭い思いをするのです。
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税務署に行ってきました。

2016-02-21 14:46:43 | 仕事
 今日は朝からカミさんと税務署へ確定申告に行ってきました。
 私が勤め人で、カミさんがパートとちょっぴり自営もしていて、結局誰名義で申告するのかよく解らなくなってしまい、もう直接訊きに行こうとなったわけです。

 それにしても結構な人数でした。
 寒空の中、並ぶ納税者も誘導する職員も大変です。

 まあ、順番さえ回ってくれば、自分であれこれ迷いながら書くよりも、ずっと早く処理できるので、自宅で正否の不安を抱えながら愚図愚図書くよりはマシというものです。

 結局私名義で申告することになり、パソコンでポンポンと入力して終了でした。
 …20年ほど前に、一人でこの場所に来た時には、申告用紙にボールペンで書き込んでたんですが、ちょっぴり隔世の感があります。

 さあ、来年はもうちょっと要領よく納税できるでしょうか?
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伝えたいことは、単純。

2015-11-12 07:44:33 | 仕事
 このブログでは、マッサージや手当てについて色々な表現をしているが、要約すると単純だ。
 触れることで気持ちを安定させて、心身の機能をなるべくフルに発揮してもらおうということです。
 何だ、そんなの当たり前じゃないかといわれそうだが、これが中々難しい。

 例えばスポーツの試合で、コーチが選手に「肩の力を抜いて、リラックスしていけ」とアドバイスするのはよくあることだ。
 しかし「肩の力を抜け」と言われてすぐに抜ければ誰も苦労はしない。

 これが言葉の難しさだ。
 言いたいことが伝わるということと、実際にできるということは別なのだ。

 手当てとは、このアドバイスを言葉を使わずに行うのである。
 厳密にいうと、アドバイスというよりも、触れることによってリラックスした状態に誘導するということだ。
 これは結構な特殊技能で、その過程には様々な力が作用している。
 それを分かってもらいたくて、色んな表現を試みているのです。
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普通を目指す。

2015-11-08 09:42:54 | 仕事
 マッサージはリラックス系エンタメではない。

 触覚を利用した非言語的コミュニケーションによって、心身と向き合うという行為に近いものには、例えばカウンセリングがある。
 カウンセリングとは時に心の闇を覗く行為だ。
 楽しいとか気楽なだけでは済まないこともある。

 リラックスが基本なのは、ただ楽しいとかのんびりしたいからというだけではない。
 そうしなければ危険だからだ。

 作りこんだ美しい夢の世界で、臭いものに蓋をして、その時間だけは嫌なことを忘れられるエンタメリラクではなく、心身と向き合い、環境の影響を最小限にして、なるべく平常心でいられるようになることを目指そう。

 我慢強いのとは違う。
 辛い過程もあるが、鍛えるとか乗り越えるということとは違う。
 そうして得られた境地は、特別なものなのだろうか?

 いや、ただ普通になるだけだ。
 ただそれは無用な欲望に振り回されないということなので、資本主義社会では歓迎されない。
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普通は二物は持っていない。

2015-11-04 07:45:30 | 仕事
 按摩・マッサージ師が理学療法的な施術をすることも(その逆も)、勉強すればある程度は可能だろう。
 それはそれなりに立派な技術だが、生業として成立するほどかというと疑問が残る。そもそもそういう才能があれば、マッサージ師ではなく理学療法士になっているはずだ。
 そうではなくて、数字とは別の世界で凝りをほぐすという才能があったから、按摩・マッサージ師になったのだ。

 マッサージと理学療法は似た部分もあるが、基本的には別物だ。
 理学療法は、関節の可動域を増やしたり、筋力を増強できれば勝ちという勝負の世界の技術だ。
 マッサージは勝ち負けではない。
 凝りが解れたら勝ち?そういう取り組みでは凝りを解すのは難しいだろう。
 何故なら勝ち負けとはポイントの取り合いであって、数字を拠り所にしている。この拠り所とか支点とか基底面とかいったものに居着いてしまうことこそが、凝るということだからだ(但し、地に足が着いた日常を送るなら、こういった拠り所は必要)。
 マッサージは、そういう拠り所に居着いてしまった状態から脱するために、ふわっとした世界に一時的に避難するための技術だ。

 例えばヨガとピラティスが、見た目は同じような動きが多くても別物であるように。
 同じ公式を使っていても、数学と物理学の思考の方向性が真逆なのと同じぐらいに。
 マッサージと理学療法の本質は違うものだ。
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