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葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

腹七分目ぐらいの伸び具合。

2023-02-12 11:30:31 | 養生

 満腹で激しい運動をするのは難しい。
 ヨガや気功で、それほど激しく動かないような場合でも、満腹時の練習は推奨されない。

 私個人は、軽いストレッチや呼吸を整えるようなものであれば、少々お腹に物が入っていても、やらないよりはやった方が良いと思っている。

 だが、去年の年末あたりから、ごく軽い運動であっても、確かな効果を上げようと思ったら、やはり「まあ空腹」状態でやるに越したことはない、とも感じている。

 何故なら、私が就寝前にやっているストレッチに、夕食の量がかなりの影響を及ぼすと気が付いたからだ。
 就寝前だから、少々夕食を多めに摂ったとしても一時間以上は経過しており、特に腹が重いという感覚は無いのだが、それでも伸び具合とか、呼吸の安定性が違うのだ。

 まあ長く続けていれば、そんな当たり前といえば当たり前のことを再確認する機会が何度もあるということか。
 感覚的には、夕食は腹七分目ぐらいがストレッチも就眠もスムーズである。

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柔らかさとぎこちなさ。

2023-01-29 10:21:07 | 養生

 私の肩の可動域は、まあボチボチ狭い方だと思う。
 左肩はそこそこで、右肩はまあ固いといったところか。
 だが実際に動かすとなると、さすがに利き腕なので右肩の方がスムーズに動く。

 ところが一月の半ばごろから、左腕を振る時に、上肢帯から柔らかく動く感覚が出てきた。
 いや、以前から似たような感覚はあったのだが、ちょっと別物なぐらいの変化で、腕を振った時の指先のキレまで鋭くなっている。
 私は左手の中指が軽い弾発指なのだが、興味深いことに、それも改善しそうだ。
 やはり体の部分と全体は繋がっているのか。

 こうなると、右肩の固さが際立ってくる。
 際立つけれども、それでも利き腕なので意思は反映しやすい。

 なんて具合に観察をしながら、右は左を、左は右を参考にしながら動かしている。

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「アカン」からの脱却。

2023-01-22 09:58:58 | 養生

 私が住んでいる関西の方言において、「…せなアカン」というのは一種の定型句である。
 アカンというのは、否定形でありながら、どこか柔らかい雰囲気がある、と言えなくもないが、やはり否定形には違いない。

 となると、運動の必要性を考える時に「運動せなアカン」「運動せえへんからアカン」という感覚は効率が悪い。
 それはつまり、運動は辛くて苦しいということが前提になっている表現だからだ。
 では「アカンはアカン」と考えたなら?
 それが結局「とにかく気合と根性で辛くて苦しい運動を乗り切る」という感覚の上書きになるようなら本末転倒だ。
 更に「アカンはアカンはアカン」から「アカンはアカンはアカンはアカン」で無限遡行になってしまうのである。

 だから取りあえず、「運動せなアカン」という発想は「ちょっと横に置いて」欲しいのだ。
 「ボチボチいこか」がええのである。

 …といったような話を随分前にも書いたような気がするのだが、結構大事なことだからまあ良しとしよう。
 機能訓練指導員の仕事をしていると、本当に定期的に強く実感することなのだ。

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地に左足が着く。

2023-01-15 09:05:11 | 養生

 私は左足での片足立ちが苦手だ。
 苦手だがしかし、何とかならないかと色々工夫はしてきた。

 で、成人の日の前後あたりから、その左足に体重がかかる部分が少し後退して、すると足首の回り方とか膝の伸び具合とか股関節の載り方とか腰の角度とか腹の収まりがスイッと通って、片足立ちの安定性も増してきた。

 ここで具体的に「このメソッドでバランスが良くなった!」と書ければ非常にキャッチ―なのだが、残念ながら「これ!」とひとつに絞るのは無理そうである。
 何しろ左の片足立ちが苦手で何とかしたいと思ったのは高校生の頃からで、いや正確にはその頃は、馬歩の姿勢で左腰が決まらないとか左足で踏み切る飛び技がふらつくから何とかしたいとかで、とにかく左下肢の操作はここ四十年近くの課題だから、何が有効だったかは分からないのだ。

 ではせめて、「諦めずに、続けることが大事」とでも書いておこうか?
 それもちょっと違うような気がする。

 気合や根性よりも習慣化、というのはその通りだと思うし、そういう意味では「継続は力なり」だろう。
 だが、お約束のように唱えられる「続けることが大事」という言葉には、「辛いし苦しいし嫌なんだけれど、続けなければいけない、続けてさえいれば良いことがあるから続ける」という意味が内包されている。

 それは多分違うと思う。
 優先されるべきは、「辛くても苦しくても続ける」ことではなくて、「楽しむ」ことだ。
 辛くて苦しいことは、やっぱり続かない。
 楽しければ自然に続く。
 例えば運動なら、ただ辛くて苦しいだけなら負荷が大き過ぎるのだ。

 だから私の左下肢は勿論、右下肢の操作性やバランス感覚についても、まだまだ「遊び」の対象である。

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フクラハギとシモヤケと。

2022-12-18 09:59:09 | 養生

 私にとって足先のシモヤケは、冬の風物詩みたいなものである。
 小学生の頃からずっとなので、もうそういうものだと思い込んでいる節がある。

 ところで、運動における股関節の重要性は言うまでもないのだが、これは決して「股関節だけが重要」という意味ではない。
 そんなことは当然だと言われそうだが、どうも私は股関節に意識を向け過ぎて、足関節や下腿三頭筋をお座なりにしていたようである。

 というのは、先月出版されたみやすのんき氏のランニング本を書店で見かけて立ち読み(申し訳ない)して、アキレス腱や下腿三頭筋、特にヒラメ筋の重要性を再認識したからである。
 で、ここ一カ月ほど、歩行や走行や普段の立ち居振る舞いを見直して、随分と動きが整理出来たと感じている。

 その結果?と断じて良いものかは少々迷いがあるのだが、フクラハギにより積極的に働いてもらうことで足先への血流が増えたのか、シモヤケが例年よりずっと軽いのである。
 この一週間ほどは急に冷え込んできたので、いつもなら踵あたりまで症状が出たりするのだが、趾の先だけで済んでいるのだから大助かりだ。

 というか、アラ還になっても未だに「まともに歩けていない」とは。
 まあそこはまだ伸び代があるのだと思っておこう。

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主食の主役。

2022-11-20 10:15:15 | 養生

 例年通り、カミさんの実家から薩摩芋と柿と蜜柑が届いた。

 流通に回るような品物ではないので見た目に少々難があり、味にも多少バラつきがあるのだが、まあ見た目がそこそこ整っているものを選んで知人に配ったりして、それでもかなりの量が残った。

 なのでこれまた例年通り、私は米やパンを食べずに、芋や柿を主食として一定期間を過ごしたのである。
 で、こういう期間を設けると、やはり「米やパンは主食の王道」なのだと思う。

 腹持ちというか、血糖値の安定性というのか?
 それと、おかずとの味覚のバランスの取りやすさとか。
 あと、特に薩摩芋を多く摂ると、腸の動きにターボがかかる感じで、便通が良くなり過ぎたり。

 そして半月ほどの「主食変更期間」が過ぎ、米とパンが日常に戻るにつれ、その思いは補強されるのだ。
 まあ体重及び体組成に大きな変化は無いので、糖質の摂取量の帳尻はぼちぼち巧く合わせられたのだろう。

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結んで、伸ばして、また開いて。

2022-10-16 11:58:58 | 養生

 T字バランスをやっている。

 慣れないうちは、軸足の踝に指先でタッチするように両腕を下ろしていた。
 でないと、上体の傾きが甘くなってしまうからだ。

 で、動きに慣れてきたところで両腕を前に伸ばすようにした。
 ついでに、伸ばした両手を組むことを思いついた。
 両手を組むことで上肢の自由度を下げ、バランス調整の難易度を上げようと考えたのだ。

 だが、左のハムストリングスが痛むようになったのはその頃からのようにも思える。
 なので試しに先日から、手を組まない形でやってみたら、痛みが少しずつ減っていくではないか。
 どうやら両手を組むことで、負荷が極端に増えた、というか、バランスを無理矢理力で誤魔化すような動きになっていたらしい。

 心身としっかり向き合わずに、質の悪い動きをすることで故障するという、見本みたいな話である。

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もそっと消極気味に。

2022-10-09 10:35:05 | 養生

 左のハムストリングスが、いつからだったか、正確には思い出せない程度に長期間痛んでいる。

 十年来の左腰の痛みが、今年に入った辺りから順調に回復し、今はほぼ問題ないのだが、どうもそれと入れ違いにハムストリングスが痛みだしたようなのだ。

 私は基本的に、痛みは運動の量よりも質の問題で起こると考えているので、消極的休養よりも積極的休養に重きをおいている。
 動かさないことで痛みが引いても、動き方が下手なままならば、動くことを再開した途端に痛みが再発するからだ。
 なので、痛いなら痛いなりに、どう動けば痛くないかを工夫しながら動き、なるべく毎日同じ内容をこなすことを目指している。

 厳密には、メニューとしては毎日同じ内容を淡々とこなしつつ、心身との向き合い方や動きの質を深めていく、ということだ。
 そしてそれは未だに目標であって、その域には達していない。

 例えば今年の夏頃から、積極的休養日の運動負荷をより低くしたら、全体的な動きの質が上がってきたのだが、これはつまり、今までは負荷の調整が上手く出来ていなかった、ひいては心身との向き合い方がそれだけ浅かったということだ。

 というわけで、今はこの左のハムストリングスの痛みに対して、該当する筋トレ的な動きの頻度を思い切って下げる予定である。
 これで痛みが引いたら、また少しずつ負荷を上げていけば良いのだ。

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誰がために踊る。

2022-09-11 09:54:11 | 養生

 先日、夕暮れ時の帰宅中に数人連れの女学生とすれ違った際に、「正直いって音楽って顔だと思う」といった発言を耳にした。
 はて。
 これはその言葉の印象通り、いわゆるイケメンの歌や演奏こそが良い音楽という意味であろうか。
 それとも、ミュージシャンの音楽性は、何よりもその顔つきに表れるという意味なのだろうか。

 まあこの女学生の趣味はどうあれ、ジャニーズやK‐POPを筆頭にしたビジュアルメインのダンスユニットが昨今のヒットチャートを賑わしているのは事実だ。
 いや、それは今に始まったことではない。
 今時の流行歌は歌だけで勝負してない、衣装やダンスで格好をつけるばかりで、肝心の歌はサッパリだ、といった類いのことを言う人は私が子供の頃から、いやいやもっと以前からいたであろう。

 さあそれならもっともっと昔はどうだったかというなら、それこそ本来音楽と踊りは不可分だったのではなかろうか。

 そういえば、AKBのパフォーマンスをカウントダウンTVで観ていたカミさんが、隣りにいたチーコさんに「あんな風に踊れるか?」と訊いたらしい。
 で、チーコさんの返事は「あんな古い音楽では踊れない」「よくあんな音楽で笑顔で踊れるものだ」だったという。
 …ほう。
 その時オンエアしていたのは、AKBのナンバーでも古い方だったのだろうか。
 それともその音楽性自体が古いと感じられたのだろうか。
 ではチーコさんにとって、新しいとはどのような音楽なのだろうか。
 いや、多分それは訊くだけ野暮というものであろう。

 ちなみに私は古いか新しいかより、窮屈かそうでないかの方が重要である。
 そして世間にあふれているダンスのほとんどは、カッコいい反面、それなりに窮屈さを感じてしまう。
 恐らくそれは、多くの人の目に触れるダンスは、勝ち負けやビジネスやエンタメを優先しているからだと思う。

 先に「本来音楽と踊りは不可分だったのでは」と書いたが、その原初の行為は、全くただ単純に身心から湧き上がるモノが、身体の動きとして表出したものだったのではなかろうか。
 それは宗教的な、奉納に近いようで、実は宗教から遠いものだとも思う。
 分かりにくいなあ…。
 競技でも健康のためでもなく、ただ身心と向き合うことを楽しむために体を動かす習慣がある人には、心当たりがあると思うのだが。

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積むか、広げるか。

2022-08-21 09:58:28 | 養生

 「笑わない数学」を録画して観ている。
 8月17日は「虚数」がテーマだった。

 ちなみに私は「氣」というのは虚数と似ているな、と思っている。
 件の番組を観て、やっぱり似てるんじゃないか、と感じた。
 もっとも、どこがどう似ているかを上手に言語化できないのが、いかにも素人である。

 現在、虚数が当たり前のように使われている理由は色々あるのだろうが、ちょっと捻った言い方をするなら「多くの人間が、虚数を使える世界に価値を見出した」からであろう。
 「価値」という言葉を「理想」と置き換えてもいい。
 理想は実現不可能な妄想ではなくて、実現に向けて進むべき目標なのだ。

 虚数はその具現化のために、多くの人が知見を積み重ねてきた。
 広い裾野の上に、ピラミッドのように、一つずつ根気よく。

 氣(氣に限らず、東洋の医術や養生の多く)と虚数(虚数に限らず、西洋の自然科学の多くの発見)の違いは、氣を語る多くの人はその知見に関して、裾野を広げることには熱心だが、積み上げることには無頓着なことに由来していると思う。

 だから氣がどうこうという話は、簡単にオカルトの落とし穴にハマってしまうのだ。
 なので私はこのブログでは勿論、同業者との会話でも迂闊に「氣」の話題には触れぬよう気を付けている。

 気を付けているけれど、たまにはこうやってガス抜きもしたくなるのである。

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