浮游社の『崎戸』本・Ⅰ・Ⅱ & 浮游庵通信 

炭鉱に生きた人々を、国家が遺棄した時代を記録し、記憶する。
1968年、「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」

浮游庵(ふゆうあん) 通信 1 浮游社は、1月18日に、九州・福岡市に移転!

2021年06月14日 12時01分41秒 | 記録
 浮游庵通信  1 (2月12日発行)    
現地レポート ●○●○●○●○●○●○●○●○●○● 山口県宇部市の長生炭坑 
1942年2月3日、長生炭鉱で坑夫が溺死(朝鮮人136人、日本人47人)し、遺骨は今も海の底に。
長生炭鉱水没事故79周年の犠牲者追悼集会が1月30日、現地で開催。

 宇部市の長生炭坑追悼広場から床波海岸沖眺める。この海底の坑道に183人の遺骨が放置されている。撮影時は満潮時。海面に突き出ている二本のピーヤ(排気・排水筒)は、あたかも墓標だ。79年の潮風に耐え、佇んでいる。
日本人の反省の中身と倫理が問われる風景・・・
長生炭鉱の二本のピーヤ
 かつて、九州北部と山口県では多くの炭坑が拓かれました。搾取と圧制のもとで生産された石炭は、大日本帝国の侵略戦争を支えました。その一つが長生炭鉱。宇部市床波海岸から沖に坑道が延びる海底炭鉱で、「朝鮮炭坑」と呼ばれました。
 昭和17年2月3日午前6時ころ、海岸の坑口から約1100mの沖合の坑道で異常出水(水非常)が始まり、午前8時ころには水没するという大惨事が発生し、坑内の労働者183人(朝鮮人136人、日本人47人)が溺死を強いられたのでした。当時、日本は帝国主義国策で侵略行為を継続し、さらにはアメリカに戦争を仕掛け、自滅への道を進んでいました。
 侵略戦争の原動力は、唯一の国産エネルギーである石炭でした。皇国の為、天皇の為に命を捧げろ、が国策の時代です。侵略戦争を遂行するため、坑内の保安と人命尊重を無視した採掘が行われました。熟練坑夫は負け戦の戦線に駆り出され、穴埋めを多分野に勤労報国隊を義務化しても足りません。産業団体からの要請もあり、植民地・朝鮮から皇国臣民とされた人々が日本の国策によって渡日を余儀なくさせられました。低賃金の外国人労働者を求める現在と同じです
 募集、官斡旋、徴用と形式上の違いはあっても、実質的には騙しの強制連行で、日本各地の炭鉱をはじめ兵器工場等に送られ、差別と過酷な労働環境の中で労働を強制され、あげく万余の朝鮮人が死傷したのです。
 明治日本の帝国主義は、萩の松下村塾の吉田松陰の教え通りに、朝鮮侵略を第一の目的としました。下層の日本人労働者より下の差別される階級であり、安価な労働力としての植民地・朝鮮人を日本人の差別意識に植えつけました。日本国家は主権在民の民主国家へ変貌し、帝国主義時代の悪行を反省したはずですが、日本への隷属を強いた1910年の韓国併合を「合法」と開き直ったり、長生炭鉱の海底坑道で眠る朝鮮人遺骨を未だに放置しています。日本の植民地支配によって行使された朝鮮人への差別と加害、夥しい死者は厳然とした事実です。日本人の反省の中身と倫理が問われています。(浮游庵主・響)
 注記 浮游庵通信第1号をブログにアップしていませんでしたので、遅まきながらの掲載です。
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