浮游庵通信 5 WEB版 Communication & Journalism
2022年8月1日発行発行・浮游社 発行人・響トオル tohru@able.ocn.ne.jp
〒814-0023 福岡市早良区原団地11棟101号 電話・FAX 092-836-7735
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( 2022・7・24 福岡反戦集会で講演した原稿に加筆したもの )
私の反戦、反権力、護憲の源は、「石炭」と「長崎・佐世保・崎戸」です。
中西 徹(浮游庵通信・編集人)
私は、文章を書いたり、編集したり、印刷物やWEBサイトで通信を出したり、年に1,2冊、人から依頼されたり、私自身が企画して小さな本を編集・発行して、反戦・反権力・護憲・の立場を明確にしているだけですから、今日話をお聞きいただく皆さんには、私がごく狭い領域でお話しすることを予めご承知くださるようにお願いします。
その領域とは、〈「石炭」と「長崎・佐世保・崎戸」〉で、明治以来の約150年と、長崎県という狭いエリアです。かつて長崎県の主要な特産物は、石炭と鰯でした。現在、石炭を掘り出していた海底炭鉱は、すべて潮をかぶって死に絶えています。鰯(カタクチイワシ)も西彼杵半島から野母半島に至る海域からどこかに移住して去り、いりこ屋さんは軒並み廃業、過疎化が進む長崎です。
長崎新幹線は走っても、批判の多い土建県政が人権尊重の県政に変わらねば、過疎化と、本日のテーマの一つ「戦場化」は止まりません。
崎戸へ、伊藤ルイさんの足跡をたどる。
今日の本筋である〈「石炭」と「長崎・佐世保・崎戸」〉についてお話しする前に、私の故郷でもある崎戸について、ある女性の足跡を紹介します。
ある女性とは、当地(福岡市)で在韓国の朝鮮人被爆者・孫振斗さんの裁判の支援をはじめ様々な市民運動の中心で活躍した伊藤ルイさん(1922・6~1996・6)です。伊藤ルイさんの著書『必然の出会い』(1991・9 発行・記録社/発売・影書房)の『再会』(214~215頁)で、以下のように書いています。
~漠然と九州の西岸を歩いてみたいと思い、佐世保行きの列車に乗り、その(田添福市さんという西彼杵郡西海町の農協理事長の)向かい側の席に腰をおろしたことに始まる。何度も何度も地図を出したり入れたりしている私に(田添さんが)「あなた、どこへ行かるるとですか」と声をかけられたのがはじめだった~、と前置きして、田添さんの問いに以下のように答えて、田添さんから崎戸への行程を案内してもらったのでした。
~目的といってはないのですが九州の西の海岸を歩いてみたくて、と答えた。そのうち、国民宿舎の標しのある崎戸島に今夜は泊まりたいです、と言うと、それなら私といっしょに船でいくとよか、と言われて佐世保から船に乗り、田添さんは大島の一つ手前(面高)で降りられ私は次の大島で降り、バスで崎戸に行った。~と、書いています。
残念ながら、崎戸の印象記はありません。崎戸町(当時)は、蛎浦島と崎戸島が橋で繋がり、五島灘に浮かぶ江ノ島、平島を町域にし、炭鉱があったのは蛎浦島で、他の三島は漁村で、北緯33度でほぼ横一線に並んでいます。
崎戸炭鉱は、主力の一坑が1964年(昭39)、二坑(浅浦)が1968年(昭43)3月に閉山しました。
私の家族は閉山に先立ち、1968年1月19日、原子力空母エンタープライズが佐藤栄作政権の承認を得て佐世保に入港し、国家権力が反対運動を弾圧して騒乱状態となった市中を催涙ガスにむせびながら、暴力団も顔負けの警官・機動隊に追いたてられるように、佐世保駅に向かったのでした。
伊藤ルイさんが宿泊した国民宿舎は「御床島荘」という名で、崎戸炭鉱労組の委員長だった石川數夫町長が、閉山で島を追われた人々が望郷で訪れる際の宿泊施設として1972年(昭47・3)の開業し、2002年1月に閉店しました。だから、伊藤ルイさんが崎戸に行き、国民宿舎・御床島荘に宿泊したのは、1972年の春以降~1973年夏頃かな? と推測。
御床島は崎戸島の北側の、大潮の日は潮が引くと地続きになる小さな無人島で、筆者が幼少の頃には、アワビ、サザエ、ウニ、ナマコなどが海を埋め尽す豊穣の磯場でした。
伊藤ルイさん、なぜ九州西海岸へ?
ここで、大きな疑問。伊藤ルイさんは、なぜ「九州の西の海岸を歩いてみたく」なったのでしょうか。九州の西の海岸とはどこ? 佐世保駅で降りると、目の前は西彼杵半島です。
西彼杵半島の西側に点在する島の炭鉱を舞台にした二つの映画が伊藤ルイさんの心に作用したのではないだろうか、と私は推測するのです。
一つは、1970年1月公開の映画「地の群れ」(原作は崎戸に縁の深い井上光晴さん)です。
映画は崎戸にロケしたり、原作にはないエンプラの抗議行動もドキュメントしていました。新聞スクラップ80頁を作ったほどの伊藤ルイさんですから、崎戸の残像が伊藤ルイさんの心に投影したのではないでしょうか。
もう一つは、1970年10月に公開された山田洋次監督の『家族』です。
長崎港外の、閉山前の伊王島炭鉱から北海道を目指す炭鉱離職者家族が主人公です。炭鉱離職者の不安と外見は豊かそうな都市生活者、万博や公害の工場などをドキュメントして、炭鉱離職者という遺棄されるものと見せかけの豊かさや経済成長を対比させ、閉山という容赦のない国策で石炭と労働者の家族を遺棄した時代を浮き彫りにしています。国策閉山で棄てられた炭鉱離職者とその家族が再生を勝ち取るまでの感動的な映画でした。当時28,9歳の倍賞千恵子さんがとてもすてきでした。
西彼杵半島西側の海域に点在する島々
佐世保湾口は、北側が佐世保市域の高後崎で、南側が西海町(現西海市)域の寄船鼻で、湾口は2km余り。先の戦争中は、この湾口にはアメリカ軍の潜水艦の侵入を防ぐために広大な鉄のカーテンが降りていたそうです。もちろん、佐世保港と離島の間を通う定期船は通過させません。北側の相浦港に迂回させられました。
伊藤ルイさんは、1990年9月の佐世保訪問の際に、車で案内されて、奥深い佐世保湾に日米の軍事力がひしめく実態を見ています。
佐世保湾口で向い合う西彼杵半島(現在、ほぼ全体が西海市域)の西側を南へ、長崎・野母半島までの海域(角力灘)には島が点在し、その島には炭鉱がありました。
崎戸、大島、松島、池島、伊王島、香焼島、高島、端島など、これらの島の炭鉱のほとんどが1970年代の閉山です。
伊藤ルイさんは、西彼杵半島の西岸(国道202号線)を歩きながらから海を眺め、点在する島々を遠望し、島の炭鉱で暮らしていた人々を思い描いてみようと考えて、ふらりと旅に出たのでしょう。私は、そのように想像します。ほぼ当たっていると思います。
国道202号線
少し話の筋道を逸れます。国道202号線は福岡市に端を発し、唐津・伊万里・佐世保を経て、西彼杵半島の西側から長崎市に至ります。
202号線は、福岡市内では明治通りに重なり、天神、西新、室見(近場に姪浜炭鉱/早良炭鉱とも)、姪浜、下山門、今宿を経て、唐津、伊万里、佐世保など、周辺に点在した中小零細の無数の炭鉱の風景を通過して、西海橋を渡り、西彼杵半島を横断して、半島の西側を南下し、西方に広がる海を眺めます。
伊藤ルイさんが当時住んでいた福岡市早良区内野から西鉄バスで西新に出ると、明治通り/国道202号線、地下鉄は西新、藤崎、室見、姪浜(からJR筑肥線)、下山門、今宿・・・唐津へ。このように国道202号線が並走して、西彼杵半島に至る道はいつも日常にあったのです。想像をたくましくして、気が付いたら西彼杵半島の西側を歩いているような、憧憬のような空想旅行をいつもしていたのかと、私は想像するのです。
現実と空想がが符合するような崎戸泊・西彼杵半島へのぶらり旅に、私は驚き、心ときめきます。
なぜなら、「浮遊庵」も早良区、202号線のすぐ近くなのですから。
私は、体が動くうちに、このルートを折り畳み自転車とともに、行程を刻むようにたどろうと思案しています。
前川雅夫さんとの出会い
伊藤ルイさんが、1990年9月に佐世保を訪れた目的は、1972~3年頃(筆者が推測した時期)、「漠然と九州の西岸を歩いてみたい」と思って乗った列車の中で出会った、西海町(現西海市)の田添福市さん(大日本帝国が進めた満蒙開拓団を拒否した人)と再会することでもありました。
この時の案内同行者の一人に『炭坑誌』を上梓した炭坑研究の第一人者である前川雅夫さんがいました。伊藤ルイさんが『必然の出会い』の「再会」(216~217頁)で書いています。
~「私の田添福市さん訪問の話をきいて同行下さることになった人の中に、佐世保市早岐の前川雅夫氏がおられた。この人は1990年1月に20年がかりの『炭坑誌―長崎県石炭史年表』(葦書房)800ページを出された方」という人物紹介に続いて、「新聞記事や綿密な聞き書きの中に、炭坑そのものの盛衰はあっても炭坑の坑内で働く人とその家族には陽の目があたらなかったことが感じられ、閉山とともに四散していく人びとへの著者の想いが伝わってくる」と、著作『炭坑誌』についてふれています。
余談ですが、前川さんと私(筆者)とのことで一言だけPRさせてください。私は、前川さんの「炭坑誌」に感動して、続編の提案をしたり、『崎戸』本・Ⅰの「うち、おい達の『崎戸』という時代」の跋文を前川さんに依頼し、頂戴しました。『崎戸』本・Ⅱの「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」では、寄稿いただいた方々の一人です。現在、『炭坑誌』の続編の出版は進行中です。昨年の刊行予定でしたが、前川さんが抱える構想と一次資料の整理は膨大で、熟考に熟考が重なり、出版の進行が遅れています。乞うご期待です。
「今さら」炭鉱ではなく、「今だから」炭鉱!
本題の石炭に戻ってお話しします。
2006年に公開されたドキュメンタリー映画「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」の監督である熊谷博子さんの『むかし原発 いま炭鉱』という本があります。2012年3月の発行です。2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故の翌年の出版ですから、原発事故発生の頃は、最終稿の頃でしょうか、
この本の冒頭で熊谷博子さんは、原発事故に直面して「むかし石炭、いま原発」と書いています。しかし、熊谷さんは考えを進めて、末尾では「むかし原発、いま炭鉱」と逆転させました。「むかし石炭」が「むかし原発」に、なぜ変化したのでしょうか。
理由は、原発事故に至るこの国の近・現代史に目を向け、明治からの150年余を正しく見つめると、原子力以前の、「富国強兵・殖産興業」のエネルギーであり、敗戦後復興を支えた石炭、その石炭を地底、海底の奥深い所から採掘して運び出した炭鉱・労働者家族の実相に向き合うことになるからです。
だから、「今さら」炭鉱ではなく、「今だから」炭鉱なのだ、になったのだと思います。
私も体験的に、今だからこそ明治以来の石炭史、とりわけ支配と被支配の実態や、なぜ炭鉱王と名の付く経営者が何人も出現したのか、その炭鉱王と称される財閥の長が、労働者をいかに使い捨てにしたのか、炭鉱王の利益のために何千何万の労働者が傷つき死んだか、財閥が国の権力者や役人と癒着し、植民地や占領地から人々を連行し苛酷な差別的な労働を強いたか、その事実を記憶し、継承することが今を生きる日本人として大切だと考えています。あえて申し上げるなら、そのことが私の反権力・反戦です。
石炭は、「富国強兵・殖産興業」の原動力
石炭は、江戸期においては製塩に使われたくらいで、本格的に活躍するのは、石炭で稼働する蒸気機関が輸入された明治・大日本帝国になってからです。
石炭は、明治・大日本帝国政府の国策「富国強兵・殖産興業」の原動力でした。石炭を焚いて軍艦を動かし、兵隊と武器を積み込み、難癖をつけて西欧をコピーした軍事力でアジアの他民族の領土に侵入し、占領し、植民地支配するという西欧の帝国主義列強に続けとばかりに打ち立てた国家政策「富国強兵・殖産興業」でした。
朝鮮・中国への侵略は「松下村塾」の教え
「富国強兵・殖産興業」は、吉田松陰の著作、松蔭が松下村塾で教えたことが端緒になって、発想されています。
その教えとは、~急いで軍備を整え、艦船と大砲が充足したらカムチャッカ・オホーツクを奪い、朝鮮を攻め、北は満州、南は台湾、ルソン諸島を手に入れる~ という具合に、かつて大日本帝国が行ってきた侵略のシナリオが説かれています。
松蔭の松下村塾の塾生で、立身出世を目指した旧長州藩の下級藩士の子弟である伊藤博文や山県有朋らが継承し、その末裔が松陰・伊藤・山県の系譜を自認し、近代化が遅れていた朝鮮・中国の民族を蔑視し、朝鮮の植民地支配を橋頭保として中国と戦争し、領土を奪い、満州をでっちあげ、国をあげて侵略戦争を継続してきたわけです。
煽ったのが、福沢諭吉です。~朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を皆殺し(中略)我兵士は海陸大挙して支那に侵入し、北京城を陥れ~ と、露骨な侵略思想を主張しています。
*上記の吉田松陰、福沢諭吉の引用は高實康稔さん(岡まさはる記念長崎平和資料館・元理事長)の論考から(「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」に収録)
明治の初め、石炭で財閥の基盤をつくったのが、政商の三菱と三井でした。
三菱は高島炭鉱です。1874年(明7)に、官営から後藤象二郎に払下げ、経営に失敗し仲が良かった福沢諭吉が大隈重信に斡旋を依頼して、三菱・岩崎弥太郎に買収してもらいます。後に端島(軍艦島)を開発し巨利を得て拡大し、さらに崎戸を手中にします。島ですから、簡単に足抜けできません。「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」と日本中に喧伝された三菱の労務管理、圧制です。高島には、唐津の高取伊好(杵島炭鉱)が技術者としていました。大隈重信と高取伊好の縁は三菱・高島からでしょうか。
三井は三池炭鉱です。1889年(明22)に長州閥の伊藤博文・山県有朋・井上馨らが支援、長州閥と明治政府・三井という政官財癒着の成果で、三井に払い下げられました。三井と山県が手を組んで行った囚人使役は1931年(明7)まで続きます。
山県有朋は古河財閥と一体で、足尾鉱毒で困窮した地元民を踏みつけました。安倍晋三ともに「亡国の族(やから)」で、極悪人です。山県の国葬を取り消す時代がきてほしい。
三菱は日本郵船、三井は三井商船、インドや中国・上海をはじめアジアに進出していた西欧の帝国主義の国々の戦艦や商船に石炭を売って、と同時に産業革命後の新技術を取り入れ、コピーし、生産効率を高度化して行きます。アヘン密輸で儲けた英国の貿易商の代理人グラバーが暗躍し、多数の外国人技術者が招へいされました。西欧の産業革命の技術を取り入れ、今に残る残骸が「明治日本の産業革命遺産」です。
明治の日本が産業革命をやったわけではなく、あちらのものを上手に使いこなしただけなんですが。この「遺産」は当初、エリアは九州・山口でしたが、全国展開したのは、侵略戦争の色合いを薄めるためだろうと思います。世界遺産に指定されている「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産には、松陰の松下村塾も含まれています。
なんでやねん?
安倍としては、旧長州・山口発で松陰の思想と実践、成果を誇りたかったのでしょう。江戸期の松下村塾を「遺産」にすることは、松蔭の侵略思想を肯定し、伊藤や山県ら旧長州藩士によって実行された「大日本帝国の侵略戦争、植民地支配」の成果を誇ることですから、安倍晋三が侵略戦争、植民地支配についていかに無反省であるか、その証左でもあります。
明治の大日本帝国の侵略思想と成果を「明治の産業革命遺産」と名付けるというアホノマスクの安倍らしい世界に恥知らずなことをやって、あげくは、歴史改ざんと隠蔽の殿堂である情報センターを東京に設置し、世界遺産指定に際して世界に約束した歴史事実の展示説明を全く履行せず、嘘を吐き続けるということを平気で行っているのです。
安倍晋三やその仲間が「富国強兵・殖産興業」を誇るような現代人の犯罪性を記録、記憶することを通して、「明治の産業革命遺産」の世界遺産指定取消や、歴史改ざんと隠蔽の殿堂である同情報センターの廃止を求めていかねばと強く思っています。これも、私の反権力・反戦です。
「富国強兵・殖産興業」の原動力だった石炭ですが、敗戦で国民主権の時代となった戦後復興でも、唯一の国産エネルギーである石炭の増産に国内施策の一切を集中させる政策(傾斜生産方式)が実行されました。NHKラジオも「炭坑へ送る夕べ」(1946~1948)を放送し、日本中が石炭の増産一色。石炭の増産という国策を担わされたのが、復員兵でした。
「天皇と国のために死んでこい」と、補給も途絶えた戦線に送り出され、マラリア・チフス・赤痢などに罹り、負傷し、飢餓に苦しみ骨と皮になって、かろうじて生きて故国に帰り着けば、今度は地底の石炭を掘って経済復興に汗を流せと、戦争を遂行した大日本帝国の残党から「檄」とやらが飛んできたのでした。
「極度に窮迫せる国内の状況を黙視するに忍びず、平和日本建設のためここに再び諸君のお骨折りを要請せんとする次第である」
敗軍の将で、未だに兵を支配していると錯覚している陸相・下村定の檄に復員兵が怒った。
「いつも変わらぬ上官という物の身勝手な放言にはただあきれるの他はない。号令一本で、そんなに石炭不足で国家が困っているなら、まず自分たちが真っ先に裸になって炭坑に飛び込むべきではないか。それが国家に対する罪滅ぼしというもの」(毎日新聞1945年11月16日付投書「陸相炭坑へ行け」より)
以上(毎日新聞2005年11月16日付「戦後60年の原点」)より引用、抄録。
復員兵は、炭鉱しか職がないので、下村定に尻を叩かれるまでもなく、坑夫の安全確保より生産を優先する各地の炭鉱に入り、多くの坑夫が資本と国家に収奪されて、地底の坑道で傷つき、死んだのだった。
大日本帝国の残党と経団連とマスコミ人が
アメリカの手先になって推進した棄民政策。
このように敗戦後の一時期は石炭に頼り切っていたにも拘らず、復興に一息つくと、日本を占領したアメリカは直ぐに本音をだし、日本国内に高まっていた反米勢力を潰しにかかります。アメリカの支配に反対していた労働運動の中核だった石炭の炭労と鉄道の国労を潰す、反米勢力の労組潰しを、大日本帝国の残党と経団連とマスコミがアメリカの手先になって深謀遠慮で進めるわけです。
コストの高い国内石炭は不要であるとして、膨大な量の埋蔵石炭と炭鉱労働者と家族を遺棄しました。移住先は天国だと嘘を吐き、家族もろとも海外にまで追いやりました。炭鉱労働者と家族に幻想を抱かせた移民事業に加担した役人は許せません。遡って罰を加える時代が来てほしい。
昭和25年(1950年)に炭鉱を国家管理する臨時石炭管理法の廃止/1955年に原子力基本法を成立させた中曽根康弘、正力松太郎)、原子力の平和利用で世論操作(1955年の新聞週間の標語は〈新聞は世界平和の原子力〉) バカなことを!
1960年三池争議・総労働対総資本、労働者の生産管理を許すな!が資本側の合言葉。6月、新安保条約を岸信介が強行採決、成立、発効。大日本帝国の亡霊がアメリカの手先なって、日本の針路を決めました。1962年10月には石油輸入の大部分を占める原油の輸入自由化/1963年(昭和38年)10月、日本原子力研究所・東海村の動力試験炉で原子力発電/1968年、核を積み込んだベトナム戦争中の原子力空母エンプラが佐世保港に入って、日本の平和と理想を蹴散らした。岸、中曽根、読売の正力、朝日の緒方らがアメリカの走狗となって、日本のアメリカ属国化を推進したのです。
岸・佐藤・安倍という国賊に継承されて今に至りますが、さらにアメリカのお古の兵器を言値で爆買いしてアメリカに最大の貢献があった安倍晋三を国葬にして、岸田も安倍の権益を継承し、アメリカの靴をなめるのでしょうか。
あ~ぁ、長崎は、今日も戦場化前だった~
収集した資料を見ていましたら、2021年新年の長州新聞が「『沖縄化』する本土」という見出しを立てていました。
反射的に「『戦場化』する本土」と読み替えた私です。
そこで、「長崎・佐世保・崎戸」ですが、まさに「戦場化」前状況ではないでしょうか。
先ず、佐世保。54年前1968年、エンプラ寄港反対で反米・反戦が佐世保発で全国が盛り上がりましたが、現在は、アメリカ海兵隊と自衛隊が合同で演習する時代です。佐世保周辺にあった炭鉱が壊滅し、SSKも沈没し、ハウステンボスも迷走し不景気風が吹き荒れ、水需要を過大に水増しした石木ダム計画も自治体財政を圧迫しかねません。
文化庁が音頭をとる日本遺産、「日本近代化の躍動を体感できるまち 佐世保」…日本の近代化の躍動が軍港だ、海軍という軍事力だと、笑わせるな! ですが、「戦場化」前。軍港がなぜ、文化か? 平和産業都市と旧軍港を並列でキャッチフレーズした文化庁、地方自治体の頭の中味が狂っています。
*日本遺産35番「佐世保など4港・元鎮守府」
朝鮮特需の記憶が佐世保の商売人に強く記憶に残っているのか、商売人は「外国で戦争が起きて、佐世保港が忙しくなるといい」なんてことを平気で言う人もあるそうです。だから、19日市民の会のデモ行進を露骨に嫌う人もあり、無関心にうんざりします。この19日佐世保市民の会のデモは1968年1月19日から50年余、休みなく連続して行われています。良識ある佐世保市民の灯火です。ぜひ、一度ご参加ください。
今話題は、相浦駐屯地の・水陸機動団、日本版海兵隊です。5月下旬に、離島奪還を想定。陸上自衛隊水陸機動団が宇久島で訓練したり、6月下旬以降には、相浦駐屯地及び海上自衛隊大村航空基地において、オスプレイ飛行訓練を予定しているとか。
次に、わが故郷の崎戸ですが、こちらにも水陸機動団が、演習場の計画を住民にアプローチ。市役所に事前説明がなく、先に住民を押さえようと、あるいは一部住民が陸自に「来んね」「来んね」と誘いをかけたのか? 今年はじめ、崎戸に行ったら、「軍用車」3台に遭遇しました。下見か訓練か、日常化しているようです。
住民が反対の声を上げ、漁協がアメリカ海軍と海上自衛隊で使用されているエア・クッション型揚陸艇(上陸用舟艇/LCAC(エルキャック))の巨大な扇風機がうるさくて魚がおらんようになると反対し、現在は宙ぶらりといったところ。
この島は今もほとんどが軍需企業の三菱のものだから、土地を国に差し出てし、崎戸はいつでも戦場化するでしょう。オスプレイが着陸しやすい「さんさん元気ランド」という場所もあるし、LCACが上陸・訓練に適した場所も確保されています。気が付いたら、崎戸は、戦前が石炭で、いずれ戦争の前線基地で、「お国にご奉公」しているということになるかもしれません。
長崎は、石炭から造船、町全体が軍需工場化したから「富国強兵・殖産興業」の幕引きとなる原爆受難を担わされたのです。今、長崎・三菱は軍事装備品の製作にシフトし、長崎の基幹産業の労働者は被爆の遠因を忘れて、現憲法の平和主義を破壊し、戦争ができる国にするべく改憲を推進する自公国政権を応援する有様です。
長崎は、原爆受難の県ですから、受難の原因を作った国家の戦争責任を追及し、護憲をリードすることが当然のことだと、私は思うのですが、土建県政の象徴とされる石木ダムの杜撰な建設計画で、貴重な自然を破壊したり地域住民の生存と住む権利を奪おうとしたり、子ども達が目を輝かせた社会科授業を行った小学校教師を文書訓告にしたり、BSL4の施設を住宅地の中に作ったり、欠格条項を遡って適用して50代女性職員を免職処分したり、長崎では、統治主義の冷たい仕打ちが横行する。実に嘆かわしい。
長崎は故郷ですが、落葉帰根の場所ではなくなっています。官僚による統治主義がはびこり、戦場化した故郷には帰れません。とても残念なことです。
* * *
追っかけレポート/「公権力による教育への介入」
/「行政への関心や批判封じ」のその後
【既報】 2021年12月15日発行「浮游庵通信 3」
小学校教諭を市教委が「文書訓告」処分!
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【その後】2022年5月21日 中村教諭に経過を取材
中村教諭「公平委への審査請求を取下げ」て、「本人裁判を模索」とのこと。
文書訓告は懲戒に非ず(市教委の答弁書より)により、
中村教諭は、公平委の却下裁決を予測し、公平委への審査請求を取り下げ、本人裁判を模索中である。
【経過】長崎市立矢上小学校6年生社会科の校外授業を実施した中村幸博教諭に対し、文書訓告の処分。
2021年7月 長崎市教委は「児童の保護者の許諾を得ず、校長への確認がないまま、学校外に提供した。提供先が管理するブログに児童の感想文が掲載さた」「供述書の作成を命じた学校長の命令を拒否した」こと等を理由に、A教諭を文書訓告処分とした。
2021年10月7日 中村教諭は長崎市教委による文書訓告処分を不服として、長崎市公平委員会に審査請求、処分の取り消しを求めた。
2022年 1月7日 長崎市教委が提出した答弁書に対して、審査請求代理人弁護士が反論書を作成し、公平委員会に提出。
長崎市教委が提出した答弁書は、「本件訓告は、法令、規則に明文をもって定められている処分ではなく、職員が職務上の義務に違反した場合に、任命権者または上司が当該職員に対する指揮監督権に基づいて同義務違反について注意を喚起し、将来を戒めるための事実上の行為にすぎない。本件訓告は、制裁的実質を有せず法的地位に変動を生じさせるものではなく、何らの法的効果をも伴わない措置である」から、「本件訓告は、審査請求の対象となる『不利益な処分』(地方公務員法49条1項)にあたらない」と主張した。
以上「審査請求代理人弁護士が反論書」より
2022年2月7日 審査請求代理人弁護士が審査請求を取り下げる。
「本審査請求は,実質的な審査がなされずに却下裁決がなされる可能性が高く(反論書1/1頁2項),審査請求人は,不利益処分についての審査請求に関する規則10条に基づき,本審査請求の全部を取り下げる。」
【中村教諭の取材を終えて】
長崎市教委は、中村教諭に対して行った「文書訓告」は、中村教諭に『不利益』が伴なう懲戒処分ではないと答弁した。
その理由は、公開で処分の違法性を審理する公平委員会の場を開かせたくない、と同時に、中村教諭の処分にいたる事実経過の公表だけは避けたいのである。考えれば考えるほど、市教委の小賢しさが見えて来る。
疑問
①市教委の処分理由にある「職員が職務上の義務に違反した」事実とは何か。当該事実と過去の慣行・慣習を尊重しなかったのは制裁を目的とした作為ではないのか。
②市教委の処分理由にある「任命権者または上司が当該職員に対する指揮監督権に基づいて同義務違反」とは何か。その事実確認の経過を明らかにしないのはなぜか。
長崎市教委は、中村教諭の審査請求を公平委員会の俎上にあげたくないのである。なぜなら、上記①と②について公開の場で明らかにすることは、市教委の作為が白日の下に晒されるからであろう。
財務省が決裁文書改ざん訴訟で、突然主張を一転させて請求を全面的に受け入れる「認諾」という手続きをとったため、裁判は財務省側証人の尋問などが実現しないまま終わって、すべては闇の中に放置されてしまった。
この財務省が決裁文書改ざん訴訟を想起した。
長崎市教委は、財務省の「認諾」に学んで、中村教諭への文書訓告を「懲戒処分ではない」としたのであろうか。
文書訓告は市教委の中村教諭に対する「県の事業に批判的なことはするな」という「脅し」みたいなものか。
中村教諭は、本人裁判を模索中である。
主権者たる国民を愚弄する官僚の主権者に対する背任行為に類する一例ではなかろうか。 (以上、文責・中西 徹)
★ 浮游社 2022~2023年の新刊予告 ★
『炭坑誌』補遺(仮題)
渾身の炭坑誌 前川雅夫氏、
執念の書き下ろし作品❢
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「1968年
「崎戸・佐世保・長崎」
2018年刊の『崎戸』本・Ⅰ
「うち、おい達の『崎戸』という時代」&
2019年刊の『崎戸』本・Ⅱ
「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」を再編集、
最後の『崎戸』本・Ⅲです。
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大阪・維新の正体~虚勢の実録!~
震源地の大阪・塚本&
十三(じゅうそう)の現場から
板谷英夫・著
・・・・・・・・・【編集後記】・・・・・・・・・・・
*『崎戸』本・ⅠとⅡを編集したおかげで、福岡反戦集会に呼んでいただき、「『石炭』と『長崎・佐世保・崎戸』と題して話をしました。耳をかたむけていただけるような話の展開にもっと配慮して話せばよかったと反省しきりで、本通信5のように講演原稿に加筆したものを作成した次第です。伊藤ルイさんと国道202号線、現住所から佐世保・西彼杵半島・崎戸へ、現実と空想が符合する道。炭鉱棄民史をたどるような酷道を往く。(中西 徹)
*
*世界的な遺産である『日本国憲法』の平和理念が踏みにじられ、アメリカの下請けで戦争する国家体制への仕上げが行われようとしています。
安倍晋三の国葬は、平和憲法を呪詛する儀式です。
あのアホノマスクを作り、数々の嘘を吐いた安倍晋三の国葬を行わせてはなりません。 (発行人・響トオル)
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みんなで叫ぼう!
アホノマスクを作り、数々の嘘を吐いた
《自民党元総裁、元首相》の、安倍晋三の
国葬に絶対反対!!!
旧・統一教会の被害者救済は、自民党の責任!!
カルト宗教汚染の自公政権は国民に謝罪しろ!!
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