ちょこっとGUM

今、自分が出来ること。やれること。それを精一杯やっていかなくちゃ!!

コラム記事【3/11】

2024年03月12日 01時26分01秒 | マリーンズ2024
≪3/11≫


「一軍という舞台でやっと対戦できたのはすごい楽しかったですし、親も観にきていたので、いい親孝行になったのかなと思いました」。

 ロッテ・東妻勇輔は3月6日のDeNAとのオープン戦で、プロ入り後初めて一軍の舞台で弟・純平と対戦した。

 純平がプロ入りした20年からの4年間でファームの公式戦では、3度対戦がある(教育リーグ、フェニックス・リーグ含まない)。20年8月5日のDeNA二軍戦で初対戦し空振り三振、21年5月13日の二軍戦でも空振り三振、22年9月27日のDeNA二軍戦では左安だった。

 初の一軍での対決はオープン戦。0-2の7回一死一塁の場面で、弟・純平が代打で登場し一軍で初の対戦が実現した。東妻は初球145キロの外角ストレートでファウルにすると、2球目の145キロストレートを捉えられ、打球はセンターへ。和田康士朗が懸命に追いかけキャッチを試みるも、グラブからボールがこぼれ記録は二塁打となった。

 東妻は「前回、前々回ぐらいから真っ直ぐでしか勝負していなかったので、真っ直ぐとわかっているんだったらホームラン打てよと言いました」と冗談まじりに試合後の弟とのやりとりについて教えてくれた。

 東妻は昨年の秋から“クイックで投げた時の平均球速を上げること”、“フォークの安定感を増すこと”、“左打者の内に食い込むボールを作ること”の3つを課題に掲げて取り組んでいる。弟の純平は右打者のため、左打者の内に食い込むボールについては確認ができないが、その他の2つは確認することができる。対戦後に打者目線で、弟から話を聞いたりしたのだろうかーー。

 「あいつは自分のことで手一杯というか、初めての一軍ですし、今が一番大事な時期だと思うので、その辺に関しては自分は自分なので、他の人に聞きながら。弟とは対戦と楽しんだくらいですかね」と弟の現在の立ち位置を考え、あえて聞かなかった。

 ちなみに兄弟仲については、「5つも歳が離れているので、正直一緒にプレーしたことはないですし、プロに入ってから3回、4回くらいしか対戦していない。歳の離れた可愛い弟ではありますけど、一緒に野球をやっているのは不思議な感覚ですね」と明かした。

 純平はセ・リーグのDeNAに所属しており、一軍での対戦となると、交流戦、日本シリーズに限られる。ただ東妻は交流戦、日本シリーズでの弟との対戦は「嫌ですね(笑)」と笑顔で回答。

 その理由について「そんなに真っ直ぐに自信のあるピッチャーではないので、やっぱり雰囲気が真っ直ぐで勝負しろという感じになっちゃう。シーズンだとそれは流石にできないですけど、余裕があるのでまだ真っ直ぐを投げていますけど、あんまり打たれちゃうから嫌だなという感じですね」と説明した。

 東妻の武器のひとつといえば、ツーシーム。ツーシームでゴロを打たせて打ち取ることは可能だ。弟との対戦でツーシームを投げないのかと聞くと「投げられないですね」と笑顔。可愛い弟と対戦する時は、どうしても力勝負になってしまうようだ。それでも、交流戦、日本シリーズで“兄弟対決”の実現を東妻の家族、マリーンズファン、ベイスターズファンは楽しみにしているはずだ。

取材・文=岩下雄太 

(ベースボールキング)

**************************************
≪3/11≫


11年3月11日の東日本大震災から13年がたつ。当時の少年たちは次々に、社会へ羽ばたいている。

ロッテ佐々木朗希投手(22)の大船渡(岩手)時代のチームメートの多くもこの春、社会人になる。4年間、神奈川・相模原市の北里大に通った村上泰宗さん(22)もその1人だ。

帰省し、大船渡市内の海辺に初日の出を拝みに行った。「その時、朗希も来ていて。『おめでとう』って言ってくれて。母親同士のネットワークで知ったんですかね」。同じ陸前高田市の出身。震災で父を亡くしたのも同じだ。

あいにくの曇り空で、三陸の海から上がった太陽はうっすら光が差す程度。その海に家族を、町を奪われた。でも憎んでいない。4年前に上京した村上さんは岩手県にUターン就職し、水産関係の仕事につく。
北里大の海洋生命科学部の研究センターが、大船渡市内にある。しかも“ロッテ朗希”の誕生を仲間全員で見つめたドラフト会見場のほど近く。そんな縁深い大学へ進んだ。上京の日の記憶はうろ覚えだ。

「新幹線の駅まで親に送ってもらって。そこから1人で新幹線、小田急線、相模大野からバス。あんまり都会に感動、とかはなかったですね」
上京して4年間、特に学んだことは。

「何ですかね。うーん、あんまり他人を信頼しすぎないことですかね」
良き友もできたし、そうじゃないことも。震災をやゆされることもあって、高校時代の仲間に愚痴ったこともある。「そんなの友達か?」。球友の言葉に胸が熱くなった。

人間関係で気がめいっていた時期に、成人式があった。陸前高田と大船渡の式典を「ハシゴしたい」と言った朗希と一緒に、ハシゴした。いろいろな仲間に「いま何やってんの?」と尋ねてみた。

「みんな、どういう生活してるのかなって。しんどいのか、ラクなのか。苦労してるヤツは苦労してるし、そういう話で気持ちを共有して。高卒で就職して楽しんで仕事してるヤツもいたし。俺も頑張ろっかな、と思いました」

東京で地元のような落ち着きを感じることはあまりなかった。たまに乗る満員電車はしんどかった。帰省するタイミングで地震が発生し、東北新幹線が運行休止になった。

「新幹線使えなくて、帰り方もよく分からなくて。みどりの窓口に入って『○○で行きたいんですけど』っていうのを続けて。それがだんだん北に行くにつれて、係員さんが優しく親切になっていって」

東北が好きだ。大学の研究室の仲間と、大船渡の研究センターを訪れたことも何度かあった。皆が震災遺構に言葉を失い、食事や景色に感動している。
「そういうのを見るとなんか、別に自分が作ったご飯を食べてるとか、自分の管理してる景色を見て感動してるわけじゃないですけど、でもなんかうれしいなと思います」

たぶんそれは「誇らしい」という感情だ。誇るべき故郷へ戻り、働く。

「震災の経験とかがあって、貢献じゃないですけど、地元に帰って自分の好きなことで復興とか発展とかに携われたら、やりがいがあるかなって」

楽しみ半分、怖さ半分で社会人になる。ひと足先に社会に出た朗希を、誇りに思う。飲食店で隣のテーブルが「佐々木朗希が…」と盛り上がっている様子も何度か聞いた。

「朗希、すごいんだなーって。でもあいつ、どこまで行くんですかね。メジャー行く前にもう1回見たいな…」

大学や就職先では、自分を「佐々木朗希の元チームメート」と知っている人もいる。でも。

「会話のきっかけになる面ではいいかなと思いますけど、でもこう、自分のことじゃないのに威張るのもなんか違うので」

そんなつつましい青年だ。どんな大人になっていきたいのだろう。朗希とハシゴした成人式で、行く道を思い描き始めた。

「あの時、周りの人たちに本当に元気をもらって…。めっちゃかっこ良く言うと『そっち側になれたらいいな』って、こっそり思ってます」
めっちゃいい顔をして、岩手に帰る。【金子真仁】

(日刊)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 備忘録【3/10】 | トップ | 備忘録【3/11】 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

マリーンズ2024」カテゴリの最新記事