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Life Together...

命のこと、自然のこと、地球のこと、共生について。。。

一息

2010-11-13 12:21:03 | 日記
少し一息つこうと思います。心の中を整理するという意味で です。

先日、「動物実験反対。死刑囚で実験をすればいいんだ」とインターネット上で発言している人がいました。

どう思いますか?

尊厳ってなんでしょうか?
人権ってなんでしょうか?
差別ってなんでしょうか?
愛護ってなんでしょうか?
民主主義ってなんでしょうか?

こういう声も聞きました。
「えん罪がなければ、死刑囚で実験すればいい」
それに賛同する声も聞こえました。

どう思いますか?

私は、ただただ驚きました。


脊髄小脳変性症との日々

2010-11-11 09:37:59 | 日記



先日、母の古い友人のAさんと一緒に食事をしました。
Aさんは、70歳ほどの老婦人でもう10年ほど前にご主人を亡くされています。
私がまだ中学生や高校生のころは、時々ご夫婦で遊びに来たりして、私の記憶にも十分残っている方です。

今Aさんは、私の実家から車で10~15分ほどの市営団地に一人で住んでいます。
子供はもともとおらず、弟さんが遠方に住んでいらっしゃいます。

ここ数年は、Aさんと私の両親の生活環境なども変わりほとんどお会いすることがなかったのですが、数ヶ月前に別の友人から連絡が入り、Aさんが病気のため人手を欲しがっていることを聞きました。

「脊髄小脳変性症」という難病をご存知でしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/脊髄小脳変性症

10万人に5~10人の割合で発症すると言われている運動失調を主な症状とする神経疾患です。
小脳および脳幹から脊髄にかけての神経細胞が徐々に破壊、消失していく病気で、Aさんの場合は、昨年の秋頃に変調を自覚しだし、今年の1月に病院で検査をし、この病気であることが判明しました。

Aさんの今の症状は、腰から下がほとんど力が入らない状況で、車いす、または歩行器に頼る生活です。
また手についても、お箸をもったり字を書いたりすることはできるものの、ときにはカップに入ったお茶などをこぼしてしまったりすることもあるようです。
手すりがあれば、今のところ、ご自宅の中の移動はなんとか可能ですが、重いものを出してきたり、床に落ちたものを拾うなどは、大変苦労されているようです。

ですが、お話していて思ったのは、(失礼な言い方ですが)頭はまったく健常で、自分の伝えたいことははっきりと話をすることができますし、(Aさんはもともと書いたり人に言葉で伝えたりすることが得意だったこともあってか)とてもなめらかに知的な言葉がたくさんでてきて、聞いていても楽しく、興味深く感じました。

ただ、一人暮らしで体が不自由です。
団地は2階で、エレベータはありません。
古い団地なので、バリアフリーではありません。
駅や病院からはとても遠いところです。(病院へは介護タクシーを利用しています)

本当はこの12月に新しい団地に入居する予定(今の団地を取り壊し、その近くに新しく立て替えています)でしたが、工事が長引き、来年の春先にならないと入居ができないことになりました。
このことはずっと前からAさんの楽しみで、「12月になったらエレベータ付きでバリアフリーできれいな家に引っ越すことができる!それまで窮屈でも今のところでなんとかがんばろう」とおっしゃっていました。
ですので、この工事延長の話はどれだけ彼女を落胆させたか…

遠方に住む弟さんは、仕事などの都合でなかなかAさんのお見舞いにくることはできません。
医者は、早めに特別擁護老人ホームに入居することを勧めているそうです。本人は、できるだけ長く、今までの生活を保ちたいという気持ちがあり、入居を先に伸ばしています。





実は、Aさんの病状の知らせが私たち親子の耳に入ったのは、今年の夏前でした。
認知症の祖母が亡くなってしばらく経ってのことです。

Aさんがそのような状況にあったことを知った母は今では週に2回ほど食事を届けがてら、2時間ほどおしゃべりをして帰ってきます。
私は時間があるときは、母の運転手です。車の中でおしゃべりが終わるのを待っています。

2時間のおしゃべりが終わり、私と帰宅するとき母は、その日のAさんの様子を私に話します。

そしてたいてい、こう言います。
「最初顔を見たときは、なんだか疲れている感じだったのよ。でもおしゃべりし始めるとね、顔が生き生きしてくるの。やっぱり人間は誰かと会話しないといけないのね」と。

先日、一緒に食事をしたときも、Aさん自身、おっしゃっていました。
「あなた(私)のお母さんがいらしてくれるときね、疲れていたりすると、正直おっくうだなって思うときもあるの。でもね、おかあさんが顔を出しておしゃべりしていると楽しいのよ。疲れていることをすっかり忘れてしまうの。」


今の私の、Aさんへの思いは、祖母のときと同じです。
残りの人生を、Aさんが「こうしたい」と思うことをすればいいと。
それをするのに誰かの助けが必要だったら、私や母や近所のみんなが少しずつ時間と力を出し合えばいいと…
世界中の同じ状況の人に、同じようなことをすることはできないけれど、現実に目の前にAさんがいるのだから、私はそうすればいいと思います。
そして「こんな難病になってしまったけれど、私の人生はまあ楽しい人生だったな」と思ってほしい。そう思います。









坂本龍一 北米ツアー

2010-11-04 15:57:35 | 日記
ただいま、坂本龍一さんがソロピアノ北米ツアーを行っています。
もう後半で、本日のコンサートが終わると、残りはロスのみになります。

http://www.skmtcommmons.com/tour/index.html

このコンサート、日本にいながら見ることができました。
USTREEMによって、配信されているのです。(アーカイブはないので、まさにライブのみとなります)

http://www.ustream.tv/channel/skmt09

次回は日本時間11/6 13:00~配信予定だそうです。


このツアーでの音源はすべてitunesからダウンロードできますが、やはりライブは臨場感があって格別です。(USTREMとはいえ、臨場感は伝わってきます)

↓シアトル公園
http://itunes.apple.com/jp/album/ryuichi-sakamoto-playing-piano/id401836271

ほかの公演分もあります。


今日はサンフランシスコからの配信でした。
11/2には、カナダ バンクーバーからの配信でした。

それはそれは、美しく、圧倒的で、荘厳で、静寂で、心揺さぶる、あたたかい、優しさに満ちた、すべてを包み込むような、体中の緊張をほぐす、柔らかい、すべてを洗い流すような、心の奥底に誰でもが持っている本能的な思いやりや優しさの部分を駆り立てる、そんな音楽でした。

私はこの年代(!)にしては、「坂本龍一」というと、ラストエンペラーとか戦場のメリークリスマスとか、坂本美雨さんが歌う「The Other Side Of Love」くらいしか頭に浮かんでこない人でした。
芸能の世界の音楽については、本当に無頓着で、子供のころはちょっと引いてみているような子供でした。
坂本さんの音楽を意識し始めたのは、だんなさんの影響は大きいです。ということで、本当にここ数年のことです。

坂本さんは、よく知られているとおり、音楽活動をされながら、原発や地雷、森林環境、ペット動物など、おもに環境問題に対して行動を起こされている方でもあります。

今回、坂本さんの音楽を聴き、私は今自分が行っているいくつかのこと、また日常に起こるさまざまなことは、この音たちによってすべて浄化される と感じました。
坂本さんの音楽をバンクーバーで聴いている聴衆や、USTREEMを通して聴いているたくさんの人の心には、間違いなく、「浄化」が起きていたと思うのです。
そして、その浄化によって、現実の出来事、特に怒りや争いや力みや緊張などが、いかに陳腐で些細なことか…
この、みんなで共有した浄化、浄化から沸き起こる心の豊かさ、静けさ、優しさ、あたたかさこそが、人間が本来持っている心なのではないかと強く感じた方はたくさんいたのではないでしょうか。

今、地球上ではたくさんの問題が山積しています。
すべての解決法は、心の浄化、そして人間が本来持っている壮大で荘厳な優しさなのだ そう思います。

それを呼び起こしてくれた坂本さんの音楽。
もっと多くの人に聴いてもらいたい。
ただただ感動するだけでもいいと思います。
涙を流すだけでもいいと思います。
坂本さんや音源について調べてみるのもいいかもしれません。
それは個人個人の自由です。

ただ、そのときの感動や沸き上がる思いを一人一人がなるべく長く持続できたら、その瞬間、その人の周りは何かあたたかいエネルギーに満たされるのだと思います。



『いのちの選択』 本の紹介

2010-10-26 23:12:29 | 日記


「いのちの選択 今、考えたい脳死・臓器移植」
岩波ブックレットno.782
生命倫理会議
 小松美彦
 市野川容孝
 田中智彦  編


この本を読んで、私が感じた脳死の問題は、「脳死は人の死か?」という世の中で騒がれている問題とともに、「脳死が人の死であると法律で定められた経緯」や「差別や人権問題」や「科学技術と法と倫理」などの問題が、多くの人々に知られていないのではないかということです。
2009年7月に改定された「臓器移植法」について、また「脳死・臓器移植」について、他人事でなく、どんな死であろうと、それを免れない私たちは、知っていなければならないことであり、考えなければならないことであると思います。

「いのちの選択 今、考えたい脳死・臓器移植」では、そもそも脳死・臓器移植とは何か?どのような状態か?、「臓器移植法」改定の経緯やこの改定によって今後起こりうるできごと、また、実際に家族を脳死により臓器移植した方の経験談などが掲載されています。


そもそも脳死とはどのような状態のことか?
脳死は、脳機能の不可逆的停止と定義されます。脳の働きが機能しなくなり元には戻らないものの、体のほかの部分はそのまま生きているとされる状態です。この状態は人工呼吸が普及されることで知られるようになり、当初この状態は「超昏睡」とか「不可逆的昏睡」とかと呼ばれており、必ずしも人の死として理解されていませんでした。
また、臓器移植とは、病気などでうまく働かなくなった臓器を他の個体の臓器と置き換え、臓器の働きを回復しようとすることです。

2009年の法改定では、「脳死=人の死」と定義されました。ようは、脳死と判定されれば、死人となるわけです。死んだ人への治療は(基本的に)なされません。当然保険も(基本的には)効かないわけです。たとえ、体が温かく、首や手足などに反射運動が起きようと、死人として扱われます。
このような例もあります。
2008年3月アメリカで、バイク事故で脳死判定された青年が、社会復帰後、自分に対する死亡宣告や臓器摘出の準備の模様を把握し、医師が何をしゃべっていたのかも、証言しました。そのときその青年は、自分が生きていることを伝えられず心は張り裂けんばかりであったことを話しています。(この青年は、移植手術が行われる直前に家族から拒否の申し出があったため、回復することができました)
脳死者には意識がないとされていましたが、このような例もあるのです。
そしてこのような例は、ほんの数例にとどまるのか、多数の脳死者が経験することなのかは分かりません。なぜなら、脳死と判定された時点で、人の死と見なされ、それ以降は回復のための治療がほとんどなされないためです。
さらに、長期脳死者の存在です。長期脳死者は、1週間以上に渡り生き続ける(た)方です。脳死・臓器移植を推進する人々は「脳死者はどんなに長くとも1週間以内で心停止を迎える」と言明してきましたが、日本にも1年9ヶ月生き続けた少女がいます。2歳のときに脳死と診断されましたが、歌を聞かせたり、兄弟がお見舞いに来たりすると心拍数があがったり、見た目も薄桃色の血色の良さであったり、まるでただ眠っているだけのようだったと編者は言っています。(この少女の記録は、2009年「長期脳死 娘、有里と生きた1年9ヶ月」中村暁美著 岩波書店から出版されています)

また、従来、医療は、医者と患者という1対1で行われるものでした。その場合医者は、治療する患者は一人しかいませんから当然のことながら、その一人の患者と向き合い、治療に専念するわけですが、脳死・臓器移植となると、医療は、同時に二人の患者を相手にすることになります。
これは、脳死患者(この言い方は今ではおかしい言い方ですね)を優先すべきか、臓器を待つ患者を優先すべきか、という患者(人間)に対してプライオリティを付けざるを得ない状況になります。
医療とは?という根本問題も生じてくるわけです。

そして現時点で、脳死者から臓器を提供するかどうかは、本人の、「臓器を提供しない」という意志か、家族の拒否がなければ、臓器は提供されるシステムになっています。
今までとは逆です。「提供するかしないか、どちらとも意志の表明をしていなかった=臓器提供する」なのです。臓器摘出手術をしたあとで、「提供しない」と表明した書面が出てきたら、どうするのでしょうか。。。。これは脳死判定から数時間以内に起こることなのです。

そしてこのシステムは非常に恐ろしい考えに繋がる可能性が出てくると思います。
たとえば、身寄りのない人が脳死と判定されると、本人が「提供しない」という意志を表明していなかったら、その人の臓器はそのまま提供されてしまいます。回復するかもしれない人の命を、今のシステムは、ベルトコンベア式に臓器提供へとまわし、その人を本当に死に至らしめるのです。
また、こういう考えも出てくることはないでしょうか?
移植するしないの表明をしなかった患者が脳死と判定された時点で、移植医が家族に移植を迫ります。そのときのことを想像してみてください。
「臓器を待っている患者さんがいるのです」と。「あなたのお子さんの臓器を提供することで、助かる命があるのです」と。家族は困惑します。目の前の、まだ血色の良い脳死判定された子供を目の前にして、医者からそう告げられるのです。「まだ生きているような気がする」と思いながらも、医者は脳死(=死んだ)と診断し、「臓器を提供すれば、臓器を待つほかの患者の命が救われる」と促される。おそらく移植医からこう言われたら、(当然脳死者の生前の態度や会話もあると思いますが)家族は、困惑しながらも「ほかに助かる命があるのなら…」と臓器提供に同意する可能性は多々あると思います。
何かに似ていると思いませんか?「英霊」に似ている。私はそう思いました。私は、臓器提供に犠牲はつきものではないと考えます。残された家族の悲しみは祭り上げられることで癒されるはずがないと思うのです。

すごく直接的なものいいで、かつ主観的にここまで書いてしまいましたが、これは明日にでも私たちの身に起こるかもしれないことです。
ですが、逆に、臓器を待つ患者さんがたくさんいることも確かです。
この本では、レシピエント(移植を受ける患者)についても、いくつかの視点から言及しています。
けっして臓器移植を否定してはいません。
ただ、医者の「臓器移植でしか助からない」という言葉について、確かなものなのかどうか、また「そもそも助かるとはどういうことなのか」、「移植手術後の生存率」「臓器移植を待つ(=脳死の人が出ることを待つ)ことが、レシピエントに与えるストレス」についても伝えてあります。

最後に、私が「脳死・臓器移植」の問題を通して私たち一人一人がきちんと向かい合わなければいけないと感じたことは、「科学技術と法律と倫理」の問題です。
これは、「脳死・臓器移植」の問題だけでなく、さまざまな問題にも通じることだと思います。

科学技術は、「できる/できない」という論理です。「できるけれどもしてよいか」という問いの答えは出ません。「原子爆弾は作れるか」の答えは出せても「作ってよいか」の答えは出せないのです。
法律は、「してよい/してはいけない」「合法/違法」の論理です。科学技術で答えられなかった答えを出すことはできます。してはいけないことについて法律で罰することができるのです。科学技術で原爆は作れるが、法律では作ってはいけない、作ったら罰せられる ということです。
しかし、人間が社会で生きていくのには科学技術も法律も、不十分であると考えられます。泣いている子供がいたら、声をかけてあげなさいという法律はないのです。法律さえ守っていれば、隣の人が苦しんでいようが罰せられることはありません。
ようは、法律として合法であっても、倫理として行ってよいかどうかということです。法律さえ守っていればそれでいいのか??

「脳死・臓器移植」の問題は、この倫理について十分話し合いがなされていないまま、行われています。

私たちは、自分自身や家族についてはもちろん、現在の「臓器移植法」やこれからのことを見つめる必要があるのではないかと思います。

こちらの本、600円+税です。とても分かりやすく書かれていますので、どうぞ。。。





脳死臓器提供について思うこと。

2010-10-15 01:07:05 | 日記
http://www.asahi.com/science/update/1013/TKY201010130223.html

「家族承諾のみ」15例目 脳死臓器提供 asahi.com より

脳死による臓器提供のニュースを読む度に思うことは、提供する側の本人や家族と、病院側の思いについてです。
私自身、脳死による臓器提供が良いことなのかどうかは判断がつかないし、自分が提供する側/される側になったことを想像してみても、なかなかイメージが浮かびません。

そして、なぜニュースを読むたびに、提供する側と病院の思いを考えるかというと、ニュースには、なかなか彼らの本音が書かれていないからです。

心から提供したいと思ったのか、病院側から言われて提供しようと思ったのか、とか、本人が生前提供の意志を示していたとはいえ、実際まだ温かい体に触れているときの家族の気持ちはどういうものなのか、病院はどういう気持ちで提供する側の家族に接しているのか、そういうところに目が行ってしまいます。

家族は、まだ温かい子供の体に触り、「脳死です」と判定されて、「ああそうですか」と納得できるものなのか。
むしろ、まだ生きている とか、もう少しなんとかならないか と、必死になるのではないかと思うのです。
それが家族であり親しい者や、あるいは、本人の感情だと思うのです。
たとえ、生前に提供の意志が示されていたとしても…


そしてひとつだけ思うのは、以下のような考えの元に脳死の方から臓器が提供されているのだとしたら、とても危険だということです。

その考えは、「提供することにより、脳死した人または家族が褒めたたえられる」ということです。
それは、たとえ脳死した人が生前に提供の意志を示していた場合でも、同じだと思います。
ましてや、病院などから、「あなたの臓器を待っている人がいます。これで誰かの命が救われます。これは良いことです」というようなことを言われることは、美化されることであり、本人の意志とはまったく無関係なことだと思うのです。

いつの間にか、当然のことのように脳死→臓器提供という図式が作られ、提供しないと無情だという風潮になりかねません。

脳死による臓器提供はあくまで、本人の選択によるものでなければいけなく、かつ、美化されてはいけないと思うのです。

美化されることをよりどころにしたり、本来の気持ち(もっと治療してほしかったなど)を心の奥に閉まって犠牲を受け入れたりすることは、殉国の精神と同じだと思います。
見過ごしてはいけないことだと思います。