「いのちの選択 今、考えたい脳死・臓器移植」
岩波ブックレットno.782
生命倫理会議
小松美彦
市野川容孝
田中智彦 編
この本を読んで、私が感じた脳死の問題は、「脳死は人の死か?」という世の中で騒がれている問題とともに、「脳死が人の死であると法律で定められた経緯」や「差別や人権問題」や「科学技術と法と倫理」などの問題が、多くの人々に知られていないのではないかということです。
2009年7月に改定された「臓器移植法」について、また「脳死・臓器移植」について、他人事でなく、どんな死であろうと、それを免れない私たちは、知っていなければならないことであり、考えなければならないことであると思います。
「いのちの選択 今、考えたい脳死・臓器移植」では、そもそも脳死・臓器移植とは何か?どのような状態か?、「臓器移植法」改定の経緯やこの改定によって今後起こりうるできごと、また、実際に家族を脳死により臓器移植した方の経験談などが掲載されています。
そもそも脳死とはどのような状態のことか?
脳死は、脳機能の不可逆的停止と定義されます。脳の働きが機能しなくなり元には戻らないものの、体のほかの部分はそのまま生きているとされる状態です。この状態は人工呼吸が普及されることで知られるようになり、当初この状態は「超昏睡」とか「不可逆的昏睡」とかと呼ばれており、必ずしも人の死として理解されていませんでした。
また、臓器移植とは、病気などでうまく働かなくなった臓器を他の個体の臓器と置き換え、臓器の働きを回復しようとすることです。
2009年の法改定では、「脳死=人の死」と定義されました。ようは、脳死と判定されれば、死人となるわけです。死んだ人への治療は(基本的に)なされません。当然保険も(基本的には)効かないわけです。たとえ、体が温かく、首や手足などに反射運動が起きようと、死人として扱われます。
このような例もあります。
2008年3月アメリカで、バイク事故で脳死判定された青年が、社会復帰後、自分に対する死亡宣告や臓器摘出の準備の模様を把握し、医師が何をしゃべっていたのかも、証言しました。そのときその青年は、自分が生きていることを伝えられず心は張り裂けんばかりであったことを話しています。(この青年は、移植手術が行われる直前に家族から拒否の申し出があったため、回復することができました)
脳死者には意識がないとされていましたが、このような例もあるのです。
そしてこのような例は、ほんの数例にとどまるのか、多数の脳死者が経験することなのかは分かりません。なぜなら、脳死と判定された時点で、人の死と見なされ、それ以降は回復のための治療がほとんどなされないためです。
さらに、長期脳死者の存在です。長期脳死者は、1週間以上に渡り生き続ける(た)方です。脳死・臓器移植を推進する人々は「脳死者はどんなに長くとも1週間以内で心停止を迎える」と言明してきましたが、日本にも1年9ヶ月生き続けた少女がいます。2歳のときに脳死と診断されましたが、歌を聞かせたり、兄弟がお見舞いに来たりすると心拍数があがったり、見た目も薄桃色の血色の良さであったり、まるでただ眠っているだけのようだったと編者は言っています。(この少女の記録は、2009年「長期脳死 娘、有里と生きた1年9ヶ月」中村暁美著 岩波書店から出版されています)
また、従来、医療は、医者と患者という1対1で行われるものでした。その場合医者は、治療する患者は一人しかいませんから当然のことながら、その一人の患者と向き合い、治療に専念するわけですが、脳死・臓器移植となると、医療は、同時に二人の患者を相手にすることになります。
これは、脳死患者(この言い方は今ではおかしい言い方ですね)を優先すべきか、臓器を待つ患者を優先すべきか、という患者(人間)に対してプライオリティを付けざるを得ない状況になります。
医療とは?という根本問題も生じてくるわけです。
そして現時点で、脳死者から臓器を提供するかどうかは、本人の、「臓器を提供しない」という意志か、家族の拒否がなければ、臓器は提供されるシステムになっています。
今までとは逆です。「提供するかしないか、どちらとも意志の表明をしていなかった=臓器提供する」なのです。臓器摘出手術をしたあとで、「提供しない」と表明した書面が出てきたら、どうするのでしょうか。。。。これは脳死判定から数時間以内に起こることなのです。
そしてこのシステムは非常に恐ろしい考えに繋がる可能性が出てくると思います。
たとえば、身寄りのない人が脳死と判定されると、本人が「提供しない」という意志を表明していなかったら、その人の臓器はそのまま提供されてしまいます。回復するかもしれない人の命を、今のシステムは、ベルトコンベア式に臓器提供へとまわし、その人を本当に死に至らしめるのです。
また、こういう考えも出てくることはないでしょうか?
移植するしないの表明をしなかった患者が脳死と判定された時点で、移植医が家族に移植を迫ります。そのときのことを想像してみてください。
「臓器を待っている患者さんがいるのです」と。「あなたのお子さんの臓器を提供することで、助かる命があるのです」と。家族は困惑します。目の前の、まだ血色の良い脳死判定された子供を目の前にして、医者からそう告げられるのです。「まだ生きているような気がする」と思いながらも、医者は脳死(=死んだ)と診断し、「臓器を提供すれば、臓器を待つほかの患者の命が救われる」と促される。おそらく移植医からこう言われたら、(当然脳死者の生前の態度や会話もあると思いますが)家族は、困惑しながらも「ほかに助かる命があるのなら…」と臓器提供に同意する可能性は多々あると思います。
何かに似ていると思いませんか?「英霊」に似ている。私はそう思いました。私は、臓器提供に犠牲はつきものではないと考えます。残された家族の悲しみは祭り上げられることで癒されるはずがないと思うのです。
すごく直接的なものいいで、かつ主観的にここまで書いてしまいましたが、これは明日にでも私たちの身に起こるかもしれないことです。
ですが、逆に、臓器を待つ患者さんがたくさんいることも確かです。
この本では、レシピエント(移植を受ける患者)についても、いくつかの視点から言及しています。
けっして臓器移植を否定してはいません。
ただ、医者の「臓器移植でしか助からない」という言葉について、確かなものなのかどうか、また「そもそも助かるとはどういうことなのか」、「移植手術後の生存率」「臓器移植を待つ(=脳死の人が出ることを待つ)ことが、レシピエントに与えるストレス」についても伝えてあります。
最後に、私が「脳死・臓器移植」の問題を通して私たち一人一人がきちんと向かい合わなければいけないと感じたことは、「科学技術と法律と倫理」の問題です。
これは、「脳死・臓器移植」の問題だけでなく、さまざまな問題にも通じることだと思います。
科学技術は、「できる/できない」という論理です。「できるけれどもしてよいか」という問いの答えは出ません。「原子爆弾は作れるか」の答えは出せても「作ってよいか」の答えは出せないのです。
法律は、「してよい/してはいけない」「合法/違法」の論理です。科学技術で答えられなかった答えを出すことはできます。してはいけないことについて法律で罰することができるのです。科学技術で原爆は作れるが、法律では作ってはいけない、作ったら罰せられる ということです。
しかし、人間が社会で生きていくのには科学技術も法律も、不十分であると考えられます。泣いている子供がいたら、声をかけてあげなさいという法律はないのです。法律さえ守っていれば、隣の人が苦しんでいようが罰せられることはありません。
ようは、法律として合法であっても、倫理として行ってよいかどうかということです。法律さえ守っていればそれでいいのか??
「脳死・臓器移植」の問題は、この倫理について十分話し合いがなされていないまま、行われています。
私たちは、自分自身や家族についてはもちろん、現在の「臓器移植法」やこれからのことを見つめる必要があるのではないかと思います。
こちらの本、600円+税です。とても分かりやすく書かれていますので、どうぞ。。。