こういう作業は、多分ときどき必要なんだと思う。
『見直してみること』
このブログの最初に「
はじまり。。。」という題名で、
私が今から目指すことについて、書いてみた。
書いたのは9月の頭だけど、もっともっとずっと前、
1年以上、いやもっと前からなんとなく思ったり、考えたりしていたことなのです。
たまたまペット問題を知ったのが、ここ数ヶ月というだけで。。。
だから今日は見直してみようと思う。
また長いブログになるな、、、、
「どうして命を大切にしないといけないのか。。」
そもそも、こういう意識を広げたいと思った理由は、
おばあちゃんだった。。
90年ほど、元気でしっかりもので、
彼女自身もそれなりに満足していた人生が、
最後の数年の認知症や身体の不自由さによって、
いやだいやだと思う日々を送ってほしくなかったから。
90年ほど、まあ満足だったのに、最後のたったの数年のために、
ああ自分の人生って辛いなあって思ってほしくなかったから。
(もちろん、おばあちゃんの90年の人生は壮絶なものもあったことを、
私は知っているけれど、でも、90年生きてきたことをおばあちゃんは
誇りにしていたし、多少体に不自由があっても、自分でなんでもやろうとした)
なのに、認知症が始まってから、さらには、大腿骨を骨折してからは、
心にいつも不安や不満を抱えているようだったし、
一人で留守番するときは、台所には立ち入り禁止になったし(火が危ないという理由)、
もちろん一人で出かけるなんてことはもってのほか、
また転んで怪我をするといけないからと、庭に出るのも、
なるべく私たちは規制した。
だけど、おばあちゃんは、そんなことできるから大丈夫って聞かなかった(笑
そんなおばあちゃんを見ていて、これだけ長く生きてきて、
本当なら、そんなおばあちゃんを尊敬の目で見なければいけないのに、
私たちはなかなかそれが出来なかった。
認知症により頑固さが表面化していたし、私たちもそれに付き合うのが
少々うんざりしていたから。。。
でもその反面、私は、なるべくおばあちゃんの好きにさせたかった。
大腿骨骨折後は足を組んじゃダメだ(脱臼の恐れがあるから)って言ってるのに、
認知症だからすぐに忘れて、足を組んだり(元元足を組むのかクセ)しているのを見て、
もういいじゃん、脱臼してまた痛い思いしたとしても、
きっとおばあちゃんはそのときは痛がっても、またリハビリがんばって乗り越えるよ。
足を組みたければ組めばいいさ。だってもう今の人生にはそれほど時間が
残っていないんだから。。
限られた時間の中で、足を組むことくらい、許してあげようよ。。
とか、
いいじゃん、庭に出て、咲いてる花摘んで、仏さまに飾って。。。
一人のときにこっそり庭に出て、また玄関で転んじゃって大怪我したって、
おばあちゃんの人生じゃん。
我慢して庭に出ないでいるよりも、自分の力で庭に出て花がきれいだって思いながら、
大怪我するほうが、今のおばあちゃんにとっては幸せだよって。
とか。。。。
でも、また逆に、そういうことを全部いいよいいよって言っていたら、
きっと家の中は、認知症のおばあちゃんのために、乱れていく。
最悪、留守中にお湯を沸かして忘れて、火事になるかもしれない。
(実際、そういうことは何度かあった。危なかった。。。)
だから、私たちは、そういうお年寄りの行動を規制しようとすることがある。
それって正しいのか間違っているのか、分からない。
今でも分からない。
けど、問題はそこじゃなかったってことは、今なら分かる。
(それは下のほうに書いてあります)
火事になる可能性のあるものを見過ごせない。
怪我する可能性のあることを見過ごせない。
寝たきりは極力避けさせてあげたい。
でも、いくら話ししても、すぐに忘れちゃったり、自分はまだできると思いこんでいる。
こっちが思いやりのつもりで話ししても、そうとは受け取ってくれないこともある、
認知症はそういう面もあるのだ。
でも私はやっぱり、おばあちゃんの人生の最後の数年を大切にしたいと思った。
だって、どう考えたって、90年は壮絶とはいえ、華々しく楽しかったといえるのに、
最後の3~4年の思い通りにいかないつまらない時間のために、
私の人生はつまらなかったなとは思ってほしくなかったから。。
90歳を過ぎてできることは少なくなっちゃたけど、
でも、家族とおしゃべりができるし、庭に出ると花はきれいだし、
自分の部屋で編み物できるし、みんなのためにお茶を入れられるし、
まあいいんじゃないかなって思ってほしかった。
そして、90年を見返すと、ああ素晴らしい人生だった、自慢できるわって
思ってほしかった。
そんな思いをもって、この世から去ってほしかった。
結局どう思ってあの世に逝ったのかは分からないけど、
亡くなる前の日、一日病院に付き添ったときの、おばあちゃんは、
若いドクター相手に、退院したら若い男の人見つけて結婚するのよ なんて、
おばあちゃんらしいジョーダンを言ったりしていたから、
まあ、きっと最期の最期は、イヤな思いはしないで逝ったんじゃないかなとは思う。
聞いてないから分からないけど。。。
こういうことがきっかけだったのです。
見渡すと、超高齢化社会を迎えている日本は、まだまだこういうお年寄りの
気持ちを理解することができていないように思えた。
また、お年寄りを支える家族のことも理解できていないように思えた。
これだけ医療が発達してしまったら、どんどん寿命が長くなって、
不自由な頭や体で何年も生きなければいけない。
そして、そういうお年寄りを家族が支えなければいけない。
施設なんて、入れる人と入れない人(経済的に)がくっきり分かれるだろう。
そもそも施設に入ること自体が良いのか悪いのかすら、分からない。
経済面での弱者のことも考えた。
身寄りもないし、お金もない。どうしたらいいの?って。。
経済的な弱者は、お金がないから、もしかしたらテレビや新聞も見れないかも。
そうすると、経済的な格差と同時に、情報格差も生まれる。
情報の格差なんて、今の時代、猛スピードで情報が変わっていくわけだから、
ちょっと乗り遅れただけで、けっこう先に進んじゃう。。
私自身が、どっちに入るかってことも考えた。
多分弱者。
いいんです。私は。。
本当に。。
私は子供もいないし、妹たちは結婚して子供もいるし、
だんなさんは仲の良いお兄さんもいるし。
きっとそのころには、両親たちも亡くなっているだろうし。。。
でもこれからの未来を考えたら、これじゃあいかん。
日本は崩壊するだろうなと思った。
こういうことも考えた。
色んなことが便利になると、人手が必要なくなる。
今まで人がやっていたことが全部コンピュータがやってくれれば、
当然そっちに流れていくわけで。。。
便利になるのは悪いことではないかもしれない。
だけど、そこで発生するのは、失業者の増加。
どんどん人間が切り捨てられていく。
するとますます経済格差、情報格差が生まれる。
それに、人手を介さず、淡々と機械が作り上げられたものは、
すごく画一化されていて、同じものが出来上がり、
それを買う人も、画一化され、同じような脳ミソを持った人間が大量に作り出される。
それはもう、教育の現場でも行われつつある。
なんでしたっけ?ネットに繋がっている黒板みたいな。。
小学校などで取り入れようとしている、あのあれ。。。
あんなものを全国の小学校や中学校に取り入れたら、極端な話、
教師だって必要なくなる。
もう日本人画一化計画見え見えだと思う。
その人達を扇動するのはとても簡単。
格差が生まれて、弱者になるたくさんの人々は、画一化された社会の中で、
右を向けと言われればそれが全てだと思って、右を向くしかなく、
左を向けと言われればそれが全てだと思って、左を向くしかなく、
どこそこへ戦争に行ってこい、そうすれば報奨金を与えるぞと言われれば、行くしかなく。。。
それは本当に怖いことだと思う。
すでにきっとそうなっているだろうから。。
そうなると、もう一人ひとりなんてどうでもよくなる社会になってしまう。
命がどうの なんて考える世の中じゃなくなる。
ほんの一握りの権力者やお金持ちの私欲のために、たくさんの人間の自由が奪われ、
でも奪われても気付かず、それが当たり前だと思ってしまう人間にさせられてしまう。
そんなのたまったもんじゃない。
それに、私は生きている。命もあるし、感情もある。
まだ今はこういう時代が訪れるかもしれないと危惧できているけれど、
もしかしたら、10年後は、それすら分からなくさせられているかもしれない。
それはイヤだ。
それを回避するためには、どうしたらいいかって考えた。
最初はおばあちゃんのことから。。。
介護や老いの問題は、最後を迎える命をどれだけ輝かせることができるかってことだと思う。
生きててよかった。ありがとうって、たくさんの人が言ってくれたら、
本当に介護する側も幸せだと思う。
それをするにはどうしたらいい?
少しの犠牲(時間や力)をたくさんの人が分かち合えばいいんじゃない?
すごくシンプルで簡単なこと。
だけど、お金もかかる。
じゃあ、お金も持っている人が分かち合えばいいんじゃない?
今日新しい服を2着買うのを、1着にするだけでも随分違うと思う。
それをするだけで、どこかで誰かの命が輝けるんだもの。。
すごくシンプル。
それをするには何が必要かって、、、
思いやり。だと思う。
もし自分がその身だったら。。。って考えることと、
そう考えたときに自分にできる何かを、損得なしに行動できること。
自分をすごく犠牲にする必要はない。
だって、すごく犠牲にするほどやらなくても、充分人間はたくさんいるし、
あるところにはお金はあるし、、、
すごくシンプル。
すごくシンプルだと思うんだけどな。。。
でもなかなか出来ない。
なんでだろう。
多分、身近な問題じゃないから。。。
人任せなところがまだあるから。。。
知らないから。。
じゃあ、身近で、人任せに思われないで、
なるべく人が知っているようなことって人に知らせられることって何だろうって思っていたら、
ペットの問題を知った。
ああ、これ、色んな問題に通じていると思った。
いつも痛くて辛くて悲しい思いをするのは、色んな弱者なのです。
ペットも弱者。
介護が必要な人も弱者。
介護が必要な人を支えている家族も弱者。
貧困で苦しんでいる人も弱者。
情報を知りえない環境にいる人も弱者。
戦争や紛争に巻き込まれる人も弱者。
ペット以外の動物も弱者。
伐採される木々も弱者。
子供も弱者。
ある場合、女性も弱者です。
もちろん、男性の場合もあります。
みんな弱者になり得るし、全部は当てはまらないかもしれないけど、
一つでも当てはまっている人は多いと思う。
ペットの命を大切に扱えるのであれば、もう次のステップに行くのは
比較的簡単だと思う。
なぜなら、みんな弱者になり得るから。
もう自分のこととして受け止められるから。
だから、私はペットの問題を広げつつ、
私の最初の問題(介護や老い)から膨らませて、
さまざまな格差の問題、差別、自然破壊、動物(家畜)問題、戦争・紛争などなどにも、
みんなが目を向けられればいいと。。。
これじゃあこの日記の最初に掲げた問題、
「なんで命は大切なの?」の答えにはなっていない。
でも、これだけたくさんのこと(本当はもっともっとたくさんのこと)を
命は課せられているんです。
一人ひとりの命に課せられた課題はたくさんあるのです。
その命が大切に扱われないと、これらの問題は解決されない。
私はそう思います。
そしてもう一つ。
人間は、弱者になり得る存在なのだから、人間同士の戦いはもう止めたい。
人間が作ってしまった、こんな複雑なシステムの中で生きるしかないけれど、
人間なんだから、このシステムを変えていく努力を人間とともにしていきたいと思う。
キレイごとといわれようと、本当にそう思っています。
きっと世の中にはこういう風に考えている人が、たくさんいると思います。
だから、キレイごとはいつか必ず現実になると思っています。
自分のためのメモのような今日の日記。
整理のための日記。。。
こういうこと、振り返ってみることって大切ですよね。。