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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




以前このブログでプトレマイオス図をはじめとする古代の世界地図について調べた。今度は日本の古代地図について調べてみた。

日本で最も古い地図は751年に作成された「東大寺領近江国水沼村墾田図」だ。これは現存する地図として日本最古であるばかりでなく、地籍図として世界で最も古いものだといわれている、



近江国水沼村というのは現在では滋賀県犬上郡多賀町で、敏満寺西遺跡として残っているあたりが地図の対象と言われているが、さすがにこの地図では詳細はわからない。

日本地図の登場は平安時代になる。
「行基図」と呼ばれるもので、平安京のある山城国を中心として、諸国を俵あるいは卵状(主として楕円もしくは円)に表して、これを連ねることで日本列島の大まかな輪郭を形成したものだ。正確な測量に基づいたものではないので、日本列島の形や国の形も非常に大ざっぱだが、それぞれの国の位置関係がわかるだけでなく、一目で日本のどの辺りにあるのかがわかる大変貴重な情報であり、長きにわたって作成されたという点で、とても有効なものだ。



この名前のもととなった行基は奈良時代の僧である。



行基
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA

北河内古代人物誌 僧行基
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/gyouki.htm

行基(668年-749年)は、日本の奈良時代の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など社会事業を各地で行った。朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

十五才で出家して薬師寺に入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、さらに竜門寺の義渕に法相(ほっそう)を学んだ。瑜伽論・唯識論は一読して即座にその奥義を理解したと云われており、もともと非常に俊才であったようだ。
やがて、各地を巡り歩いて民間布教に務めた。人々は彼を慕って、彼に付き従う者の数がややもすれば千人にも達することがあり、彼がやって来ると聞くと、彼の説教を聴こうと人々が群れ集まってきて、村のに中には人が誰もいなくなる程であったと云う。
彼は、そうした弟子たちを自ら率いて、交通の難所には橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築いていった。そのことを聞いた人たちも皆やって来て協力した。また、平城京造営のために諸国からかり出された使役の民の、路傍に餓死する者の多いのを見て、彼らを救うために布施屋を9ヶ所等も作った。
彼のこうした社会事業は、国家仏教の形をとっていた当時においては、僧尼令に違反するものであったので、五度にわたって中止を命ぜられ、弾圧もされるが、彼は国是の禁を犯しても民衆救済のため屈することなく続けていった。後には公認され、それのみならず、東大寺の建立に協力したことによって、聖武天皇には深く敬重され、天平十七年には、我が国で最初の大僧正の位を授けられ、更に四百人の出家を彼に弟子として与えられた。人々は彼を行基菩薩と呼んだ。


近鉄奈良駅前に銅像があるので、地元の方は馴染み深いだろう。
そして、この行基が最初の日本地図を作成したとされているのだが、これはとても疑わしい。

行基の地図作成伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA%E5%9B%B3#.E8.A1.8C.E5.9F.BA.E3.81.AE.E5.9C.B0.E5.9B.B3.E4.BD.9C.E6.88.90.E4.BC.9D.E8.AA.AC

現存する「行基図」には行基作と記されているものが多いが、六国史や仏教史書には行基の記事には地図作成の事実にはふれられていない。また、最古の「行基図」とされるものは、延暦24年(805年)に下鴨神社に納められたものであるとされているが、現存しているものは江戸時代の書写にすぎず、内容も明らかに延暦年間当時の状況の反映でない(延暦期にはなかった加賀国が記載されている)。
そもそも行基が生きていた時代の「行基図」が実際に存在するならば、都は大和国平城京に存在したのであるから、大和国を中心とした地図であったはずであるが、こうした地図は実際のところ見つかってはいない。このため、本当に行基が地図を作ったのかを疑問視して、「後世の人々が作者を行基に仮託したのが伝説化したものではないか」とする見方もある。
ただし、大化の改新直後の大化2年(646年)に諸国に対して国の境界についての文書あるいは地図を献上するように命令が出され、律令政治下においては民部省に国境把握の義務があり、また、図書寮には地図保管の義務があったため、当然政府内で地図が作られていたはずである。また、行基とその教団は諸国を廻って布教活動や各種社会事業を行っており、のちの東大寺大仏建立にも関与していることから、当然こうした活動を円滑化するための地図を何らかの形で所持、あるいは作成していたことは十分考えられるのである。
したがって、「行基図」が実際に行基によって作られたものであるかは定かではないものの、行基とその教団が地図と全く無関係だったと考える積極的な理由もない。


この真偽はともかくとして、行基図は歴史とともに進化を遂げる。戦国時代の弘治3年(1557年)に描かれたとされる「南瞻部洲大日本国正統図(なんせんぶしゅうだいにっぽんこくしょうとうず)」は、日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。



江戸時代に入ると、印刷技術の発達により大量印刷された行基図が登場する。また社会の安定に伴う交通の発達によって、より実際の日本地図に近い地形が描かれるようになっていった。

一方で、1645年(正保元年)に幕府は諸大名に対して地図の作成を命じた。これが「正保(しょうほう)国絵図」(または正保日本図)である。これは1651年に新番頭北条氏長が諸国の国図を元に全国地図を作成して幕府に献上したと言われているが、これは通説で、実際はもう少し後のようだ。
この地図の作成にあたって6寸1里(21600分の1)という全国共通の縮尺が導入されるなど、測量技術や交通手段の進化により、より緻密な日本地図が作成・刊行されるようになった。北海道以外は縮尺も概ね正確である。



そして、このような江戸幕府による地図事業の傍らで、行基図は実用・出版の場からは姿を消していった。

古代や中世において、全く想像でしかない世界地図と、中心となる都を基点にして描く一国の地図とでは全くアプローチが違うことは当然だ。とはいえ、世界は幾何学的な構造であるというキリスト教の世界観によって世界地図の進化が1000年以上にわたって停滞したことを考えると、日本地図の進化というのは実用的に着実に進化したと言うことができるだろう。
やはり人類は身近なところから必要に応じて物事を発展させるものなのだ。



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