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世界各地で様々な自動車レースが行われている。最高峰のFormula 1レースは、国際自動車連盟 (FIA) が主催する自動車レースの最高峰で、世界各地を転戦して年間でポイントを競っている。開催地にとっては大きなイベントである。

さて当たり前のことだが、自動車レースは自動車を運転して競うものであるから、自動車の進化と切り離せない関係がある。
第2次世界大戦後に、自動車競技における新しい規格が「Formula = フォーミュラ」と名付けられていくつかの階級に分けれれることなり、それをもとに1950年にフォーミュラ1が初開催されたのだが、その頃のマシンは以下のようなものだった。



さらに自動車レースと自動車の歴史をその起源まで遡ってみよう。
最初の自動車は蒸気自動車で、1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが製作したキュニョーの砲車であると言われている。馬の代わりに蒸気機関を使って大砲の牽引に使えるかどうか検討するために試作されたものだが、前輪荷重が重すぎて旋回が困難だったため、時速約3キロしか出なかったにもかかわらず、塀に衝突して自動車事故の第一号となったそうだ。



その後イギリスやフランスで蒸気自動車が普及するようになり、短い時間でスタートできるようになるなど改良もされた。しかしイギリスでは蒸気自動車は道路を傷め馬を驚かすと敵対視されており、住民の圧力によってこれを規制する「赤旗法」が1865年に成立し、蒸気自動車は速度を制限され、人や動物に予告するために赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。この影響でイギリスは蒸気自動車、そして続くガソリン自動車の開発でフランスやドイツに遅れることとなった。

1870年、ドイツ生まれのオーストリア人のジークフリート・マルクスによって初のガソリン自動車「第一マルクスカー」が発明された。



さらに1876年、ドイツのニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)をつくると、ゴットリープ・ダイムラーがこれを改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。1885年にダイムラーによる特許が出されている。
また1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車をつくった。ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明した。

このような自動車の歴史の中と並行して、自動車レースの起源をみてみよう。

自動車競技 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスのパリで行われたもので、ヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社の蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートンであった。だが集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。

記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアルである。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル」が、当時人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた。
最終的には21台でのレースが開催された。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベルト・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった。
速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったジョルジュ・ルメートル (以下の写真) と、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた。




尚、このレースは以下のように何も規制がされていない公道で行われたそうだ。



レースの結果は何とも茶番であり、蒸気自動車関係者からすればきわめて納得がいかないものである。とはいえ、その後はガソリン自動車が技術を高め、また1901年にアメリカのテキサスで油田が発見されるなどガソリンの供給が安定した。その一方で蒸気自動車や電気自動車は構造上の問題でガソリン自動車を越えることができず、20世紀初頭には急速に衰退していった。

自動車レースの点でもパリ - ルーアン・トライアルの終了後の夕食の席で誕生した (と言われる) フランス自動車クラブ (ACF) があらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなり、翌1895年にはパリ - ボルドーの往復レース (1,178キロメートル) が開催されるなど、多くの試みがなされた。
その中で最初の国際レースとして1900年にゴードン・ベネット・カップが誕生した。

ゴードン・ベネット・カップ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97_%28%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%29

ゴードン・ベネット・カップ (Gordon Bennett Cup) は、1900年から1905年にかけて6度開催された国別対抗自動車レースである。
自動車レース黎明期の1890年代後半、フランスのパリを基点とする都市間レース(パリレース)が人気を博し、新聞社が後援するイベントも行われていた。ゴードン・ベネット・カップはアメリカの新聞「ニューヨーク・ヘラルド」の社主であり、パリ在住の大富豪であったジェイムズ・ゴードン・ベネット・ジュニア (James Gordon Bennett Jr.) の発案により創設された。
ベネットは国ごとの自動車製造技術を比較する機会として、各国自動車クラブが参加する国別対抗戦という方式を思い立った。彼はフランス自動車協会 (ACF) に純銀製の優勝杯を寄贈し、統一ルールを作成するよう働きかけた。
また、観客が車両の所属先を判別しやすいよう、国別にボディカラーが決められた (フランス:青、ドイツ:白、アメリカ:赤、ベルギー:黄、イギリス:緑、イタリア:黒)。これがナショナル・レーシングカラーの起源となった。




当初は参加台数が少なくあまり注目度は高くなかったが、第3回大会でフランス以外の国が初めて優勝したことで、国際的なメジャーイベントとして脚光を浴びることになり、参加国も増え、国によっては代表を決める予選会が行われた。また第4回大会からは周回コースで行われる形で行われるようになった。
1905年の第6回大会に優勝したフランスは次回の開催義務があったが、フランス自動車連盟は各国3台までという出場台数制限に不満を抱き、その開催義務を放棄すると宣言して、1906年にル・マン近郊において初のグランプリレースとなるACFグランプリ (フランスグランプリ) を開催した。フランスグランプリは国際規模のグランプリレースとして最古の歴史を持ち、F1世界選手権でもイギリスGPとイタリアGPに次ぐ歴史を持っていたのだが、2008年を最後に実施されていないのは残念である。

このようにゴードン・ベネット・カップは発展的に消滅してしまったが、この大会を通じて自動車レースの形ができあがってきたと言えるだろう。
1894年のパリ~ルーアン・トライアルと比べるとわずか10年程度の間に自動車の技術、そして自動車レースは大きく進化した。人類はスピードを競うという本質を持っていることと、経験を重ねながら発展していくということを改めて実感することができる。



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