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日本建築学会賞は、一般社団法人日本建築学会が設けている国内で最も権威のある建築の賞で、建築・建設分野で功績をあげた個人・団体を称えるものである。
論文、作品、技術、業績の4部門からなるが、特に作品賞は通常年間1~3作品のみしか選ばれず (該当なしの年もある)、国内の建築家にとって最高峰の賞と言えるだろう。

今年(2015年)の作品賞は、武井誠氏と鍋島千恵氏による「上州富岡駅」、そして福島加津也氏と冨永祥子氏による「木の構築 工学院大学弓道場・ボクシング場」の2作品だ。その選考経過や講評も開示されている。素人目から見てもいずれもとても素敵だ。

一般社団法人 日本建築学会 2015年各賞受賞者 
https://www.aij.or.jp/2015/2015prize.html





さて、2015年の作品賞は第67回である。本賞は1949年から始まりこれまでに多くの作品が受賞してきた。

日本建築学会賞 作品賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E8%B3%9E#.E4.BD.9C.E5.93.81.E8.B3.9E

眺めていくと、高層ビル、モニュメント、公共建築物、学校、工場など多岐にわたることがわかる。1955年の世界平和記念聖堂 (村野藤吾氏) は重要文化財だし、1963年の神戸ポートタワー (伊藤紘一氏、仲威雄氏) は長きにわたって神戸市のランドマークだ。一方で一般の住宅も受賞作品となることが興味深い。

しかし悲しいことに建築物には耐用の寿命があり、経年とともに劣化することは避けられない。そして時代の変化によって役目を終えて解体されてしまうケースも多い。
記念すべき第1回の受賞作品である谷口吉郎氏 (1904-1979年) の慶應義塾大学校舎「4号館及び学生ホール」(藤村記念館とともに受賞) も現存しない。

慶應義塾大学 アート・センター 谷口吉郎とイサム・ノグチ 慶應義塾の近代建築とモダン・アート Ⅱ
http://www.art-c.keio.ac.jp/old-website/archive/noguchi/about/2.html

谷口の設計により1949年5月に竣工した4号館は、ホール一室と50名単位の教室13室からなる木造二階建ての建物で、キャンパスの北西部に建設された。東西にのびる横長の外壁に素焼き赤レンガの三角屋根を組み合わせたシンプルな形状の建物で、その壁面には縦長長方形の窓が整然と配置されている。この垂直方向を志向する長方形の窓のプロポーションは、谷口が三田山上の復興建築において一貫して用いたデザインであり、この時期の谷口建築の特徴を示す重要なモティーフといえる。

同時期谷口は、四号館の西側に新築された「学生ホール」の設計もあわせて依嘱された。学生ホールの建設された場所は現在の西校舎北側にあたる部分で、食堂や売店、学生の課外活動のための部屋などを備えた施設として1949年3月に建設が決定され、同年11月に竣工している。学生ホールも外装は赤い屋根にテラス付きの白亜の壁で、やはり谷口建築の特徴を示す縦長長方形の窓が整然と配置された建築プロポーションが踏襲されている。また内部空間も一階中央の吹き抜け部分と二階に設けられたギャラリーを食堂とし、その東西の壁には新制作協会の洋画家・猪熊弦一郎の壁画《デモクラシー》を飾るという、若々しく自由な構想であった。




慶應義塾 [慶應義塾豆百科] No.92 学生ホール
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/92.html

三田構内の北側低地(現在北新館所在地)、イタリア大使館の石垣にはりつく様に、ひっそりとたっていた建物を記憶する塾員諸兄姉も多かろう。この建物を昔「学生ホール」といった。今でこそ三田山上には新しい意匠の建物が群をなして建っているが、この学生ホールが山上西側に建築された1949年当時は、学生ホールは三田山上の最新建造物として注目を集め、「山食」を根城にした塾生の溜り場として活用されたものだった。
それはこの建物自体が、この年に建てられた大学校舎(当時は4号館とよばれていた)と共に、設計者谷口吉郎に対し、その年度の建築学会賞が授与された建物であり、内部を飾る壁画「デモクラシー」も、1950年11月に作者猪熊弦一郎に対し、毎日美術賞が授けられたものだったからである。
「学生ホール」の特色は、設計者谷口の幼稚舎校舎建設以来の一貫したモチーフである開放性が十分に配慮されており、採光通風と、どこからでも出入りできる開口部の広さが、この建物にも活かされていた。
この「学生ホール」も西校舎建設のため1961年に山食ごと構内北側の山の下に移築され、1991年北館建設のためその使命をおえて取り壊されたが、その前に壁画は作者自身の指揮を得て1988年秋にパレットクラブの現役学生やOBの協力による修復を経て、今日では西校舎地下にある学生食堂ホールに居を移して塾生たちを見守っている。




今写真で見ると古さを感じてしまう建物ではあるが、建築はその時代の技術の成果物であり、日本建築学会賞作品賞の歴史を眺めていくことで、建築技術の発展を知ることができる。

さて、1951年と1962年の三田キャンパスの配置図は以下のとおりである。(出所:http://www.keio.ac.jp/ja/news/2002/kr7a430000005x96-att/030308_2_genkyo.pdf )



上記の記事のとおり学生ホールは1949年から1961年の12年しか存在しなかったので、1962年の配置図では既に姿を消している。
当時は日本建築学会賞もまだ充分な地位を築いていなかったと思われるが、さすがに関係者もがっかりしたのではないだろうか。
確かに都心の限られたキャンパス内で、増加する学生や高度化する教育をまかなうための施設を拡充する必要がある中では致し方ないところだ。
しかし三田キャンパスないの国の重要文化財でもある図書館旧館と三田演説館は、シンボルとしていつまでも受け継いでほしいものだ。



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