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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




全日空(ANA)が11月1日に世界で初めてボーイング787を就航する。

http://www.ana.co.jp/promotion/b787/

ボーイング787は、新型エンジンの搭載に加え、炭素繊維複合材の活用による軽量化で燃料消費量を約2割削減し、そのほかの新技術も合わせ乗り心地や快適性が優れているとのことだ。
同機は次世代中型ワイドボディ旅客機という位置づけだが、中型機としては航続距離が長く、今までは大型機でないと行けなかった距離もボーイング787では直行が可能になり、需要のあまり多くない航空路線の開設が可能になるとされている。
一方ライバルのエアバスもボーイング787に対抗する型ワイドボディ旅客機としてエアバスA350 (再計画されて エアバスA350 XWB となっている) を計画中であり、エミレーツ航空70機など2011年4月で既に356機の受注があるという。

現在現在旧西側諸国で大型旅客機を製造しているのは、ボーイング、エアバスの2大メーカーだけとなっており、両社が抜きつ抜かれつの熾烈な競争を繰り広げている。
エアバスは、ボーイングを筆頭としたアメリカ企業の世界的な旅客機の独占に対して危機感を抱いた欧州連合によって、1970年12月にフランスのアエロスパシアルと西ドイツDASAが共同出資し設立された会社であり、1970年代からボーイングへの対抗機を開発・製造してきた。そして1999年に初めてエアバスが販売受注数でボーイングを上回ったが、その後ボーイングの体勢立直しにより2005年に再度ボーイングが逆転し、またエアバスが首位に返り咲くという激しい競争となっている。



ボーイングとエアバス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%B9

さて、私は一時期アエロフロート航空をよく利用していた。現在ではアエロフロートもエアバス (A320、A319など) やボーイング (767-300ER) が主力となっているが、当時はイリューシン社やツポレフ社といったソ連・ロシア製の旅客機がまだ多かった。その両社について調べてみよう。

S・V・イリユーシン記念航空複合体
http://ja.wikipedia.org/wiki/S%E3%83%BBV%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%88%AA%E7%A9%BA%E8%A4%87%E5%90%88%E4%BD%93

ロシア連邦の航空機メーカーで、セルゲイ・イリユーシン(1894年 - 1977年)によって1933年に設立された。
イリューシン設計局は、開設当初は意欲的にさまざまな機種の製作に取り組み、その範囲は戦闘機、爆撃機、輸送機に及んだ。各種研究機はソ連の航空機技術の発展に大きく寄与した。戦後は専ら旅客機タイプの航空機の設計を行い、Il(Ил)-14やIl(Ил)-18、Il(Ил)-62などはアエロフロートの代表的旅客機であった。
イリューシンは、現在でもロシア空軍に輸送機などを、アエロフロート航空などの旧共産圏の国々を中心とした航空会社へ旅客機を供給している。


個人的にはアエロフロートというとIl(Ил)-62のイメージが強く、エンジン4基をまとめて後部に装備するこの独特な形態と、Аэрофлотの文字、青ライン、旧ソ連国旗が絶妙なバランスを保っているように思える。



ツポレフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%95

ロシアの航空機メーカーで、アンドレーイ・ニコラーエヴィチ・トゥーポレフ(1888年–1972年)によって1922年に創設された。
第二次世界大戦前は、同設計局はI-4などの戦闘機やTB-3などの爆撃機を開発・生産していたほか、各種実験機や記録機を開発した。終戦後はTu-16やTu-95といった主力爆撃機を生産する他、需要の拡大した旅客機を多数製造し、東側諸国を代表する旅客機メーカーの一つとなった。
1960年代からは、アンドレーイ・トゥーポレフの息子、アレクセーイ・トゥーポレフ(1925年-2001年)も主導権を握るようになる。彼は、世界初の超音速旅客機Tu-144や、有名な旅客機Tu-154、中距離戦略爆撃機Tu-22Mの開発などに関与した。これらすべての開発により、ソ連は、戦略的軍用・民用とも西側諸国と同等の飛行ができるようになった。
その後冷戦終焉に伴い、ツポレフの研究は亜音速の民用航空機に集中し、主に経済運用と代替燃料について行われている。


実はツポレフは日本ととてもなじみ深い航空機メーカーである。

Tu-114 (航空機)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Tu-114_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29

1961年に運用開始したTu-114は、4基の二重反転プロペラを持ち、これによりジェット機に匹敵する速度を生み出していた。時まだ燃料消費効率の良いターボファンエンジンは開発されておらず、既存のターボジェットエンジンを使用したのでは爆撃の目的地まで途中給油をせずに直行することが不可能だったからであり、この航続距離の長さというプロペラの利点がTu-114でも採用された。事実この時代の西側を含めたどのジェット機と比べてもこのTu-114を上回る航続距離を持つジェット機はなく、また最も多く乗客を運ぶことのできる旅客機であった。
しかしTu-114は当時の飛行機としては大きすぎ、誘導路が通れなかったり、滑走路の端をうまく回れなかったりした。またエンジンの騒音もジェット機に匹敵するほどあった上、二重反転プロペラのために独特な振動もあった。
また大きな二重反転プロペラのクリアランスを稼ぐために機体の脚を長くした結果、機体の脚が長すぎ専用のタラップを用意しなければならなかったりと、運用には苦労する点も多かった。

日本航空は1960年代のモスクワ線就航時にアエロフロートと共同運航を行ったが、その際の機体もTu-114であり、機体に「Japan Air Lines」という文字と日本航空のシンボルマークでもある「鶴丸」がかかれたものもあった。
日本航空とアエロフロートとの共同運航が行われる際に、当初日本側はTu-114のように巨大な旅客機が羽田空港へ着陸するのは不可能だと訴えた。これに対しソ連側はツポレフ設計局に調査をさせ、着陸に問題がないことを確認した。しかし当時の日本のメディアの反応はこのような巨大なプロペラ機でモスクワ~東京間の無着陸飛行をすることに対し懐疑的であり、モスクワ~東京間の無着陸飛行はソ連のプロパガンダで羽田空港への着陸などは技術的に不可能だと考え、そのように報道した。しかしその予想に反してモスクワ~東京間の初無着陸飛行は1967年4月18日に行われ、無事成功した。アエロフロート機材によるものとはいえ、シベリア大陸横断便の運航は西側諸国初であった(それまでは国防上の機密保持を理由に国際線には開放されていなかった)。長い脚ゆえに日本航空が保有するDC-8用のタラップカーでは当機のドアまで高さが届かず、タラップカーに梯子を付け足して乗降をおこなわせなければならなかった。この日ソ共同運航はこの後1970年まで続けられた。


その鶴丸&Japan Air LinesロゴのTu-114とは以下のようなものだ。またタラップの付け足しがわかる写真もあるので見てみよう。





http://blogs.yahoo.co.jp/texfukui/42427618.html
http://ksa.axisz.jp/a3605Haneda-1965c.htm

何とも時代を感じる画像だ。
一方で未来に目を転じると、ツポレフは超音速旅客機Tu-244(4発エンジン)やTu-444(双発エンジン)の構想があるそうだ。




高速性よりも経済性が求められる時代に超音速旅客機のニーズがあるとは思えないのだが、世界初の超音速旅客機(Tu-144、1968年)を開発したツポレフならできないことはないだろう。

現在の大型旅客機はボーイングとエアバスの寡占ではあるが、かつて技術開発を争ったイリューシンとツポレフの今後の動向にも注目しよう。


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