この連邦準備制度は1913年に成立して100年の歴史がある。それ以前にアメリカでは1776年の建国後に中央銀行の試みがあった。それが第一合衆国銀行(The First Bank of the United Sates)と、第二合衆国銀行(Second Bank of the United Sates)である。この2つの銀行の流れを簡単に追ってみたい。
ジャクソン大統領は、「疑いもなく、この偉大で強力な機関がその資金力で公的役職者の選挙に積極的に影響を及ぼそうとしてきた」ことが分かったと言って銀行に調査を入れた。合衆国銀行の公認は1836年に切れることになっていたが、ジャクソン大統領はもっと早く第二アメリカ合衆国銀行を「殺す」ことを望んだ。ジャクソン大統領はこの銀行が政治的腐敗とアメリカの自由に対する脅威を助長するものと見なし、”the bank is trying to kill me, but I will kill it” というスピーチをしている。
第二合衆国銀行のニコラス・ビドル総裁は、公認期限の切れる4年前、1832年に公認延長を求めることにした。しかし、ジャクソン大統領はその法案に拒否権を発動した。
また、第二合衆国銀行は連邦政府が規則的に預託した税収入によって繁盛していたが、ジャクソン大統領は1833年にその財務長官に対し、州銀行に連邦税収入を預託するよう指示することで、第二アメリカ合衆国銀行の生命線を痛撃した。
この結果第二合衆国銀行にはほとんど現金が残らず、1836年に公認期限が切れたときにフィラデルフィアの普通の銀行に変わった。5年後の1841年に(元)第二合衆国銀行は破産した。