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中央銀行は、国家の金融機構の中核となる機関である。中央銀行は、その国で利用される通貨・紙幣を発行する機関であり、市中銀行を相手に資金を貸し出す業務を行う。また、国債を売買し、国への資金提供も行う。
中央銀行は「発券銀行」・「政府の銀行」であると共に、最後の貸し手として「銀行の銀行」としての役割を果たす。また中央銀行は、物価の安定に対して責任を負っている。

日本における中央銀行は日本銀行であり、多くの国が単一の中央銀行を持つが、アメリカは事情が異なる。
アメリカには単一組織としての中央銀行は存在せず、連邦準備制度(FRS)が中央銀行制度として存在している。FRSは連邦公開市場委員会(FOMC)、連邦準備制度理事会(通称FedまたはFRB、こちらのBはBoard)、及び12の連邦準備銀行(FRB、こちらのBはBank)で構成される。ちょっとややこしい。

連邦準備制度理事会の長は「議長」(Chairman)だが、世界経済に対する影響力は絶大であり、FRB議長は「アメリカ合衆国において大統領に次ぐ権力者」と言われている。
尚、連邦準備銀行は株式会社の形態が、アメリカ政府は連邦準備銀行の株式を所有しておらず、各連邦準備銀行によって管轄される個別金融機関 (JPモルガン・チェース銀行やシティ・バンクなど) が出資義務を負っており、株式を所有している。すなわち、アメリカの中央銀行は民間銀行が所有していることになる。

この連邦準備制度は1913年に成立して100年の歴史がある。それ以前にアメリカでは1776年の建国後に中央銀行の試みがあった。それが第一合衆国銀行(The First Bank of the United Sates)と、第二合衆国銀行(Second Bank of the United Sates)である。この2つの銀行の流れを簡単に追ってみたい。

1776年の建国後、18世紀の最後の10年間にアメリカ合衆国には3つの銀行があったが、50以上の異なる通貨が流通していた。イギリス、スペイン、フランス、ポルトガルの貨幣や紙幣が、州、都市、辺境の店舗および大都市の事業家によって発行されていた。これら通貨の価値は恐ろしく不安定であり、それによって政治的には無関心な通貨投機家が不確実さで儲ける天国になっていた。

その中で1791年に、最初のアメリカ合衆国銀行「第一合衆国銀行」は初代アメリカ合衆国財務長官のアレクサンダー・ハミルトンの支持によって提案された。
しかし、連邦議会の上院、下院とも南部代議員の大半はハミルトンの提案の中で正式な政府造幣局の設立とアメリカ合衆国銀行公認という考えに反対した。彼等は、中央造幣局は銀行が商業の栄える北部の事業利益に専ら貢献し、農業中心の南部の利益にはならないと考えた。
最終的な判断は、初代大統領であるジョージ・ワシントンに委ねられた。ワシントン大統領は躊躇したが、最終的に1791年4月25日に「銀行法」に署名し、第一合衆国銀行が設立された。



第一合衆国銀行の公認期間は20年間であり、第4代大統領ジェームズ・マディスンのもと連邦議会によって公認延長が審議されたが拒否され、1811年に失効した。



第一合衆国銀行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E9%8A%80%E8%A1%8C

その後1817年に第二合衆国銀行がアメリカ合衆国議会によって公認された。第一合衆国銀行の公認延長を拒否した多くの議員が公認した理由は、1812-14年の米英戦争の間にアメリカが厳しいインフレを経験し、軍事行動の財政的手当が難しくなり、その結果、アメリカ合衆国の信用度や借入金の状況が建国以来最低のレベルになっていたことによる。

米英戦争の後、アメリカ合衆国はその負債にも拘わらず、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争での荒廃のために経済の膨張も経験した。特に、ヨーロッパ農業生産部門に対する損失のために、合衆国の農業生産は拡大した。銀行はその貸付によって経済膨張を助成し、土地に対する投機を促した。この貸付でほとんど誰もが金を借り土地に投資することができ、時には地価が2倍あるいは3倍に跳ね上がった。このような好況により、銀行に起こりつつあった不正や創出された経済バブルに気付く者はほとんどいなかった。
1818年夏、第二合衆国銀行の経営者は銀行が過剰に拡大しすぎたことを認識し、金融引き締めと貸付金の回収政策を打ち出した。この貸付金の回収によって同時に土地売買が減少し、ヨーロッパの回復に資していた産業の好況も減速させた。その結果が1819年の恐慌となった。

その後、1829年に就任した第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、第二合衆国銀行の不正と腐敗故に、これを完全に嫌うようになった。



ジャクソン大統領は、「疑いもなく、この偉大で強力な機関がその資金力で公的役職者の選挙に積極的に影響を及ぼそうとしてきた」ことが分かったと言って銀行に調査を入れた。合衆国銀行の公認は1836年に切れることになっていたが、ジャクソン大統領はもっと早く第二アメリカ合衆国銀行を「殺す」ことを望んだ。ジャクソン大統領はこの銀行が政治的腐敗とアメリカの自由に対する脅威を助長するものと見なし、”the bank is trying to kill me, but I will kill it” というスピーチをしている。
第二合衆国銀行のニコラス・ビドル総裁は、公認期限の切れる4年前、1832年に公認延長を求めることにした。しかし、ジャクソン大統領はその法案に拒否権を発動した。
また、第二合衆国銀行は連邦政府が規則的に預託した税収入によって繁盛していたが、ジャクソン大統領は1833年にその財務長官に対し、州銀行に連邦税収入を預託するよう指示することで、第二アメリカ合衆国銀行の生命線を痛撃した。
この結果第二合衆国銀行にはほとんど現金が残らず、1836年に公認期限が切れたときにフィラデルフィアの普通の銀行に変わった。5年後の1841年に(元)第二合衆国銀行は破産した。



第二合衆国銀行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E9%8A%80%E8%A1%8C

第二合衆国銀行の公認が切れた翌年の1837年から1840年代までアメリカは恐慌に陥った。
そのひとつの要因は第二合衆国銀行が継続されなかったことにある。1832年に第二合衆国銀行の公認延長が拒否された後、同行がその後の業務を引き締めたことで、西部と南部の州公認の銀行は、安全でない準備金比率を維持しながら貸出基準を緩和し、不安定になった。1836年に正貨流通令は発令され、西部の土地は金貨と銀貨のみで購入できることになったが、これは逆効果で大きなインフレーションを招いた。この恐慌は、何らかの中央銀行が機能していれば、和らげられたと言われている。

また、これも"たられば"であるが、ラトガース大学のマイケル・ボルド経済学教授によると、第二合衆国銀行は第一級の中央銀行に発展しており、仮にジャクソン大統領に解体されなければ、効率的な決済制度を維持し続け、また第二合衆国銀行が他の先進国同様の中央銀行と同様の発展を遂げていれば、20世紀の歴史は変わっていただろう、さらには第二次世界大戦もなかったと推測している。

himaginaryの日記 米国はもっとまともな中央銀行を持てたか?
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20120606/could_the_united_states_have_had_a_better_central_bank

第二合衆国銀行は、Bordoによれば、その最後の総裁のニコラス・ビドルの下で、ビドルとジャクソンの銀行戦争が勃発する十年前には、第一級の中央銀行に発展していたという。ビドルは金融理論の真髄を理解しており、多くの点で同時代のイングランド銀行の先を行っていたとの由。
仮に第二合衆国銀行が存続していたならば、カナダのような全国的な支店銀行制を採用していただろう、とBordoは言う。また、第二合衆国銀行はイングランド銀行のような最後の貸し手としての役割を習得していたため、米国がカナダと同じ道を歩まずにやはりフリーバンキング制度の道に進んだとしても、恐慌を押さえ込み、支店網を通じて全国的な統一通貨を創造し続け、効率的な決済制度を維持し続けただろう、と彼は推測する。
そのように第二合衆国銀行が他の先進国の中央銀行と同様の発展を遂げていたならば、20世紀の歴史は変わっていただろう、とBordoは言う。即ち、真正手形仮説に毒されておらず、フリードマン=シュワルツが指弾した欠陥とも無縁だった中央銀行は大恐慌の発生を抑止していただろう。その結果、第二次世界大戦も無く、ケインズ経済学も無く、1970年代の大インフレも無かったかもしれない、との由。


このように、アメリカは第一合衆国銀行、第二合衆国銀行という試みがあったものの実質的に機能せず、19世紀半ばの工業化を中央銀行不在で進め、その間個々の銀行などが国債や金準備を使って紙幣を発行していた。最も先進的な資本主義国でありながら、中央銀行については極めて特殊であると言えよう。とはいえそれが歴史であり、その流れで現在のアメリカがあり世界があるのだ。



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