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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




以前このブログで陸上100m競走を取り上げて、その記録の変遷を調べたが、同様に花形競技である競泳100m (長水路=50m) も取り上げてみたい。
競泳は、水着の進化はともかくとして、生身の人間が身体と技術を磨いて水中での速さを競うものであり、そのタイムは時代を超えて比較可能である。すなわちタイムの短縮は人類の進化とも言えよう。

2014年現在の競泳100m世界記録は、ブラジルのセザール・シエロフィリョが2009年の世界水泳選手権 (ローマ) で記録した46秒91である。
そして国際水泳連盟 (International Swimming Federation) の競泳100m世界記録の変遷は以下のリンク先のとおりとなっている。

World record progression 100 metres freestyle
http://en.wikipedia.org/wiki/World_record_progression_100_metres_freestyle

いずれの記録もその時代における極限レベルの競技の結果であるが、100年前の1914年時点の世界記録は 1分01秒6 であり、何と100年間で14秒以上も短縮されている。これはすごすぎる。競泳に関係するトレーニングや技術の進化はすさまじいものがある。

さて、歴代の世界記録保持者を見ていくと、陸上100mのボブ・ヘイズ同様に競泳のみでなく他分野でも功績を残した人物がいる。1912年から22年まで世界記録を保持 (その間2回記録更新) していたデューク・カハナモク (Duke Paoa Kahinu Mokoe Hulikohola Kahanamoku) と、1922年に初めて1分の壁を破り、1934年まで (その間1回記録更新) 破られなかったジョニー・ワイズミュラー (Johnny Weissmuller) である。

デューク・カハナモク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%A2%E3%82%AF

1890年8月24日、オアフ島に生まれる。純粋な先住ハワイ人である。ワイキキで育った彼は幼少時よりアウトリガー・カヌーや水泳に親しみ、長じては誰もが認める「ウォーターマン」となる。母親は彼を「決して水を怖れず、可能な限り遠くにまで行ってごらんなさい」と言い聞かせて育てたと伝えられる。
1911年、デュークはアマチュアの水泳競技会において、自由形100ヤードで当時の世界記録を4. 6秒も縮める驚異的な記録を叩き出し、注目を浴びる。同時に彼は220ヤードの世界記録も破り、50ヤードでは世界タイ記録を出した。しかも会場はホノルル港の海水である。
1912年、デュークは圧倒的な実力でオリンピック代表の座を手に入れる。この予選会では200メートル自由形で世界記録を更新し、挑んだ1912年 ストックホルム五輪では100メートル自由形であっさり優勝。リレーでも準優勝に貢献した。
1920年のアントワープ五輪でも100メートル自由形優勝、リレー優勝。
競技生活を引退した後は水泳とサーフィンの振興に力を注ぐとともに、ハリウッド映画にも数多く出演している。

デュークは水泳選手として以上に、サーファーとしても巨大な影響を後世に与えた人物である。彼の功績はまず、サーフィンというスポーツそのものが再評価されるきっかけとなったこと、そしてサーフィンをアメリカ社会に流行させたこと、さらに「デューク・カハナモク・インヴィテーショナル」大会のアイコンとしてサーフィンがプロ・スポーツとなるきっかけを与えたことの三つが大きい。言わば近代サーフィンの父がデュークなのである。

デュークはハワイの海洋文化の偉大さを、水泳競技における圧倒的な実力と、サーフィンという素晴らしいスポーツの魅力を通じて世界に知らしめた人物であった。




僅かではあるが、オリンピックのサイトには、貴重な1920年のアムステルダムオリンピックの映像がある。

Olympic.org Athletes Duke Paoa KAHANAMOKU
http://www.olympic.org/duke-paoa-kahanamoku

このようにハワイの英雄であるデューク・カハナモクは、生誕100年の1990年にワイキキビーチを背にして立つ等身大 (サーフボードを含めると5m) の銅像がた立てられた。
また、デュークは映画出演を通じて、それまでローカルな存在であったハワイアンファッションをアメリカ全土で注目されるほどのアイテムにまで押し上げた立役者でもあり、「デューク・カハナモク」の名を冠したアロハシャツ等のブランドも創設された。日本でもオンラインショップが展開されている。このサイトの中にもデューク・カハナモクの生い立ちや業績に対する詳しい記述がある。

Duke Kahanamoku (デューク・カハナモク)
http://www.dukekahanamoku.jp/

そのデューク・カハナモクの次の世界記録保持者でがジョニー・ワイズミュラーだ。

ジョニー・ワイズミュラー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC

1904年6月2日、現在のルーマニアのティミショアラの近くでドイツ系の家庭に生まれる。彼が7ヶ月の時に家族でアメリカに移住、ペンシルベニア州やシカゴで育つ。病弱だったため、医者に勧められて水泳を初め、12歳の時にYMCAの水泳チームに参加するようになる。
1922年、デューク・カハナモクが持っていた100m自由形の世界記録を更新。1924年のオリンピックでは100m自由形、400m自由形、自由形リレーの3つで金メダルを、水球で銅メダルを獲得。1928年のアムステルダムオリンピックでは100m自由形、自由形リレーの2つで金メダルを獲得。

1929年、ワイズミュラーは下着メーカーのBVDと契約を結び、モデルとなった。合衆国中を回って水泳ショー、水着のチラシ配り、サイン会、トークショーなどを行った。同年初めて映画『アメリカ娘に栄光あれ』に出演し、イチジクの葉を着けてアドニスを演じた。
メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと7年契約を結んでから俳優としてのキャリアが本格的に始まった。1932年の『類猿人ターザン』でターザン役を演じ、世界にセンセーションを巻き起こした。ターザンの原作者エドガー・ライス・バローズも喜んだという。
ワイズミュラーはモーリン・オサリヴァンをジェーン役として6本のターザン映画に出演した。3作ではジョニー・シェフィールドが子役として共演した。1942年にはRKOに移籍し、さらに6本のターザン映画に出演した。12本のターザン映画でワイズミュラーは200万ドルを稼いだと推定され、ターザン役では最も有名な俳優となった。







ジョニー・ワイズミュラーは活動期間が長いターザンの俳優というイメージが強いが、バックグラウンドは競泳選手であり、世界記録そしてオリンピック金メダリストである。肉体美や、叫び声の声量は競泳のアスリートならではのものだ。しかし映画は映像が残っているのに対して、昔のスポーツ映像はなかなかみつけられないので印象が薄くなってしまうのはちょっと悲しい。

さて、デューク・カハナモクとジョニー・ワイズミュラーは1924年のパリ・オリンピックで直接対決している。そして金メダルがジョニー・ワイズミュラー (59秒0)、銀メダルがデューク・カハナモク (1分01秒4) とともに世界記録ではないが、軍配はジョニー・ワイズミュラーに上がった。ジョニー・ワイズミュラーがこの時20歳、デューク・カハナモクが34歳だったことを考えると、これは当然の結果とも言える。尚、銅メダルのサミュエル・カハナモク (21歳)はデュークの弟であり、このハワイのスイマー兄弟の高い能力を改めて知ることができる。



これらの写真や映像からわかるとおり、現在とは身に着けているもの(この場合は水着)も全く異なるし、技術的にも現在の目で見るとまだまだである。しかしあらゆるスポーツの記録は積み重ねで連続しているものであり、ジョニー・ワイズミュラーが100mで1分を切ったからこそ、現在の世界記録がある。人類の進歩はまだまだ続く。



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