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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




以前このブログで、日本で最初のプロ野球チームである日本運動協会 (1920年設立) と天勝野球団 (1921年設立) について調べた。(日本運動協会と天勝野球団)
今度は更に長い歴史を持つアメリカ・メジャーリーグの歴史を遡って見ていきたい。

メジャーリーグは現在ナショナル・リーグ15球団とアメリカン・リーグ15球団で構成されている。しかし、メジャーリーグは日本プロ野球のように2リーグに分裂したわけではない。
アメリカン・リーグの方が新しく、1901年に発足した。1885年~1900年に存在していたたウェスタン・リーグが解体され、その5チームと新球団3チームの以下8チームでスタートしている。
1. (新)ボルチモア・オリオールズ(現ニューヨーク・ヤンキース)
2. (新)ボストン・アメリカンズ(現ボストン・レッドソックス)
3. シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・ホワイトソックス)
4. クリーブランド・ブルーバーズ(現クリーブランド・インディアンス)
5. デトロイト・タイガース (現存)
6. (新)フィラデルフィア・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)
7. ミルウォーキー・ブルワーズ(現ボルチモア・オリオールズ)
8. ワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)
ちなみに現在のニューヨーク・ヤンキースの前身・ボルチモア・オリオールズだが、現在のボルチモア・オリオールズとは関係ない。

ナショナル・リーグは1876年に発足した。前身となるナショナル・アソシエーションからの6チームと新球団2チームの以下8チームでスタートした。
1. アスレチック・オブ・フィラデルフィア(フィラデルフィア・アスレチックス)
2. ボストン・レッドキャップス(現アトランタ・ブレーブス)
3. シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)
4. (新)シンシナティ・レッドストッキングス
5. ハートフォード・ダークブルース
6. (新)ルイビル・グレイズ
7. ミューチュアル・オブ・ニューヨーク(ニューヨーク・ミューチュアルズ)
8. セントルイス・ブラウンストッキングス

このようにナショナル・リーグは、アメリカン・リーグの前身であるウェスタン・リーグよりもさらに以前からあった。
そしてナショナル・リーグにも前身のリーグがある、1871年から1875年まで運営されていたナショナル・アソシエーション (全米プロ野球選手協会、National Association of Professional Base Ball Players) である。

全米プロ野球選手協会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%B1%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E9%81%B8%E6%89%8B%E5%8D%94%E4%BC%9A

アメリカ各地で野球が普及していった1860年代後半、当時アマチュアの野球クラブの組合団体であった全米野球選手協会が、1869年に報酬をもらってプレーするプロの野球選手のカテゴリーを創設する。同年アメリカで最初のプロ野球チーム「シンシナティ・レッドストッキングス」が結成されアメリカ各地を巡業した。その後シンシナティの成功を見習う形で各地にプロの野球チームが出来始めていたが、リーグ創設前のプロ球団は対戦相手を探しながら各地を巡業する運営で、収入源が安定しないという欠点があった。1871年にジェームズ・カーンズを会長として、ニューヨークのカフェで「全米プロ野球選手協会」(以下ナショナル・アソシエーション)が組織され、加盟チーム同士のリーグ戦を運営するようになる。巡業チームはこれにより対戦相手を探す苦労から解放された。

ナショナル・アソシエーションの特徴は、参加資格が緩く、10ドルを支払えば加盟できるというオープンリーグだった点である。各チームにとっての加盟のためのハードルは低かったが、運営基盤が弱かったり倫理的に問題のあるチームが参加するといったデメリットも生んでいた。実際にリーグで賭博や八百長が横行したことは、リーグ運営自体が短命で終わった一つの要因でもある。また、現在のような戦力均衡策などはまだ取られていなかったようで、その結果強いチームと弱いチームとの実力差が極端になってしまっていたことが集客上のデメリットになっていた。リーグ運営が5年で破綻した後、1876年に新たに作られたナショナル・リーグは、これらナショナル・アソシエーションの欠点を補完する形で運営されていくことになる。

ちなみに1869年に最初に誕生したプロ野球チームであるシンシナティ・レッドストッキングス (チームの創設は1866年) は1869年~1870年に84連勝を記録するなど強さを誇ったが、財政が悪化し1871年には選手とプロ契約をしないこととなり、選手たちは離散してナショナル・アソシエーションに参加するチームに雇われた。
この最初のプロ野球チームシンシナティ・レッドストッキングスと、1876年にナショナル・リーグが発足した時に誕生したシンシナティ・レッドストッキングス (シンシナティ・レッズ) とは関係がない。またこのシンシナティ・レッズは1880年に消滅した、その後の1881年に再びシンシナティ・レッドストッキングス (現在のシンシナティ・レッズ) が設立されている。

ナショナル・アソシエーションには1871年から1875年の5年で25球団が加盟した。このうちの半数は活動期間が1年未満であり、各年に10チーム前後がリーグ戦を戦っていた。 その記録以下で参照することができる。

Baseball Reference
http://www.baseball-reference.com/leagues/NA/

初年度 (1871年) の優勝はフィラデルフィア・アスレチックスだ。 
このチームは1860年代に実力のあるアマチュアチームで、1871年にプロの球団としてナショナル・アソシエーションに加盟した。2年目以降もリーグの強豪として活躍し、ナショナル・アソシエーションが解散した後、1876年からナショナル・リーグに加盟した。しかしチームは成績が低迷し、また財政が苦しくなって遠征費が出せなくなり、シーズン終盤のゲームを消化することを拒否しナショナル・リーグから除名されチームは消滅してしまった。
その後も「フィラデルフィア・アスレチックス」という名前のチームは多く誕生している。 現在のオークランド・アスレチックスの前身である1901年に誕生した「フィラデルフィア・アスレチックス」は関係がない。



2年目から5年目 (1872~1875年) に4連覇を果たしたのはボストン・レッドストッキングスだ。 
1871年に創設されてナショナル・アソシエーションに加盟し、初年度は3位に終わったが、翌1872年から1875年まで4連覇を果たした。1876年からナショナル・リーグに加盟し、初年度は4位だったが、1877~1878年にリーグ連覇を果たしている。 
その後チームは何度も名前を変えて、1912年にボストン・ブレーブス (その後一時期ボストン・ビーズと改称) となり、1953年にミルウォーキーに移転、1966年にアトランタに移転して、現在のアトランタ・ブレーブスとなっている。



また、1871年に創設されたシカゴ・ホワイトストッキングスも、現在のシカゴ・カブスとして現存しており、さらに創設以来本拠地を移転していない。
シカゴ・ホワイトストッキングスは1871年からナショナル・アソシエーションに参加したが、同年に起こったシカゴ大火によって球場や備品が全て焼け落ち、チームは1872年と1873年の丸2年間に渡って活動ができなかった。
1876年にナショナル・リーグが創設されると同リーグに加盟し、初代チャンピオンに輝いた。

そして、このナショナル・アソシエーションの最大のスターはボストン・レッドストッキングスのアルバート・スポルディングだ。

アルバート・スポルディング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

レギュラー投手だったスポルディングは1871年から1875年の5年間で205勝もの勝ち星を挙げ、打つ方でも打率3割を超える成績(1872年の48試合で84安打して.354など)を残していた。当時レッドストッキングスのほぼ全ての試合で投げていたスポルディングは、1874年は71試合で52勝16敗、1875年も年間約80試合のうちの72試合に登板し、55勝5敗(54勝説もある)で2年連続で50勝というとてつもない投手成績を残した。
選手として活躍する一方で、スポルディングはスポーツ用品のビジネスを手がけていた。彼の会社"A.G.Spalding & Brothers"は、野球の普及とスポーツ用品の宣伝を兼ね、1874年にイギリスとアイルランドへの野球普及のためのツアーを行っている。また一方で野球の公式ルールガイド(ボールの質の均一化を図る目的で、スポルディング社製のボールのみを使用するルールが書かれていたという)など、野球に関する出版物の発行などもしていた。

1876年にナショナル・リーグが創設されると、スポルディングはシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)の監督兼任選手として迎えられる。この年の投手成績は47勝12敗、防御率1.75で、ナショナル・リーグ最初の最多勝利投手にもなっている。1872年から1876年までの年間平均勝ち星は46以上と選手として最盛期を見せていた。しかし、それまでずっと肩を酷使してきた反動からか、翌1877年は故障で4試合に登板しただけで、主に内野手として試合に出ていた。1878年、スポルディングはスポーツ用品メーカーの仕事に専念するために28歳の若さで野球選手を引退する。わずか7年で252勝65敗であり、勝率は.795という歴代最高の記録である。 打撃でも通算打率.313を記録した。

スポーツ用品のビジネスでも成功したスポルディングは、1882年から1891年の間、選手として所属していたシカゴ・ホワイトストッキングスの理事長職をつとめる。シカゴはスポルディングの経営の元、10年間で5度のリーグ制覇をする強豪チームになっており、スポルディング自身も野球のイメージの改善のため、ギャンブルや野次の排除などに奔走した。
1939年、発展貢献者としてアメリカ野球殿堂(Baseball Hall of fame)入りを果たした。



時代やシステムが違うので、現在のメジャーリーグとの比較は無意味だが、ナショナル・アソシエーションの5年間とナショナル・リーグの初年度の6年連続最多勝というのはものすごい。 チームの試合のほとんどに先発してほとんど完投し、しかも打撃も秀でており、さらに監督も兼任してリーグ優勝、ビジネスも手掛けている。二刀流どころではない。 

ナショナル・アソシエーションを含めて、初期のメジャーリーグは同じ名前や似た名前の球団がたびたび誕生してとてもわかりにくいが、それだけプロリーグ運営にあたって度重なる試行があったということだろう。 そしてその中でプレーにおける傑出した存在があったことがよくわかる。 やはりメジャーリーグは歴史が長い。



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