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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




日本においてプロ野球が社会に定着して久しい。優勝セールなどをはじめとした経済効果も大きいし、私も含めてファンチームの応援が生活の一部になっている人も多いだろう。今日は日本プロ野球のはじまりについて調べてみようと思う。

現在のプロ野球のようなリーグができたのは、東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7チームが加盟して1936年に設立された日本職業野球連盟(現在の日本野球機構のルーツにあたる)であり、ここから定期的なリーグ戦やトーナメント戦が行われれようになった。

しかし、日本での最初のプロ野球チーム創設はさらに遡る。
日本で最初のプロ野球チームは1920年に設立された日本運動協会(通称・芝浦協会)、そして二番目のプロ野球チームが1921年に設立された天勝野球団(てんしょうやきゅうだん)である。この2つのチームは設立経緯や性質がとても対照的だ。

Wikipedia 日本運動協会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E4%BC%9A#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E9.81.8B.E5.8B.95.E5.8D.94.E4.BC.9A

日本の野球界は長く学生野球がそのメインであったが、1913年に「世界周遊野球チーム」が来日したことや、ベーブ・ルースの活躍の話題が日本にまで届いていたことなどがあり、日本にもプロ野球をという動きが高まるようになった。
一方、当時の学生野球、特に大学野球の選手はスターとしてもてはやされるようになっており、その人気に溺れて学業をおろそかにしたり不祥事を起こしたりする選手が増えていた。早稲田OBであった河野安通志は、学生野球の腐敗は問題だが、かといってを押さえつけるようなことをしては「角を矯めて牛を殺す」ことになると考え、学生たちの模範になるようなプロ球団を作ることで学生野球を浄化しようと提唱する。こうして、東京府芝浦に日本運動協会が設立された。
翌1921年、まずは本拠地となる芝浦球場を建設し、同時に新聞紙上に広告を出して選手の公募を行った。応募者の総数は200人以上だったが、職業野球というものが成立し得るのかどうかが疑問視されていた時代にあって、早稲田や慶應などといった大学のOB・現役選手の応募は1人もなかった。野球の技量だけでなく、学生野球選手達の模範足りうるような人格を持っているかということも重要視された採用面接を経て採用された選手は14歳から27歳までの14人。
こうして選手も集まり、1921年秋、芝浦球場に合宿所(兼クラブハウス)が完成したことをきっかけにチームは本格的に始動する。ただし、結成から約1年の間は、練習に徹し対外試合は一切行なわれなかった。この間、平行して英語、数学、簿記などの勉強も行なわれている。これは、「大学選手と対等な学力、社会常識がなければプロ野球を世間に認めさせることができない」という考えと、野球ができなくなった時に役に立つように、という考えから行なわれたものである。これについて、協会で捕手を務めていた片岡勝は後に「外出にはいちいち河野先生の許可が必要でした。プロ野球選手の合宿というより、きびしい学校の寄宿舎生活のようでした。日本のプロ野球のリーダーになるのだから、これくらいの苦労は当たり前だ、と思っていました」と語っている。
1922年6月21日、朝鮮・満州へ遠征し、初めて試合を行う。同じ土地で行なわれていた相撲の興行を圧倒するほどの人気があったという。この遠征は約1カ月間続き、総合成績は12勝5敗であった。




Wikipedia 河野安通志
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%AE%89%E9%80%9A%E5%BF%97



Wikipedia 天勝野球団・松旭斎天勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8B%9D%E9%87%8E%E7%90%83%E5%9B%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%97%AD%E6%96%8E%E5%A4%A9%E5%8B%9D

松旭斎天勝は女流奇術師で、日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、日本初の欧米風なマジックショーを披露した。「奇術といえば天勝」という代名詞にもなったほどの知名度を誇り、座員100名を越す『天勝一座』の座長となった。そのマネジャーを務めたのが野呂辰之助で、2人は結婚したのだが、奇術師の立場が強くなかったこの時代、一座と天勝を守るため野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている。
1921年2月、松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)の夫であり、「天勝一座」の支配人である野呂辰之助により天勝野球団が結成される。
選手は大学出身者が中心であった。球団の結成理由について、松旭斎天勝は後に『天勝一代記』の中で一座の広告塔が目的だったように書いているが、当時のスポーツ雑誌『野球界』の中で天勝野球団の鶴芳生(野呂の変名と見られている)は「広告本位のチームではありません。商売と野球の試合は別問題です。ボールに負けた故に見物に来ない人は、そんな狭い量見の人は来て頂かなくとも結構です」と記しており、天勝はともかく野呂は広告塔としてではないチームを志向していたとみられている。チームは一座の巡業に合わせて国内各地、更には中国、台湾と転戦した。
1923年には、主将の鈴木関太郎が『野球界』誌上で「プロフェッショナル球団」であることを宣言。同年、大毎野球団を破るなどの成果を上げた後に、一座の公演とともに満州、朝鮮に遠征。当時の強豪であった大連実業団、大連満州倶楽部を含む各チーム相手に21勝1敗の好成績を残す。




このように、日本運動協会はスポーツマンシップにのっとり、自らが野球界の模範となることを目指していたのに対し、天勝野球団は(実態は)奇術団一座の広告塔であった。また日本運動協会が芝浦球場を擁してフランチャイズ志向だったのに対し、天勝野球団が一座とともに各地を巡業していたのも対照的である。

そしてこの2チームは日本初のプロ野球チームどおしの対戦を行う。

日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球史~第一部・日本プロ野球の誕生~ 決戦!プロ対プロ
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/qc-provspro.htm

1923年6月21日、場所はソウルの竜山満鉄グラウンド。そう、日本で最初のプロ野球チームどおしの試合はソウルで行われたのだ。
この試合は「ソウルの野球ファンの話題をさらい、スタンドは満員だった」そうだが、6対5で天勝野球団が勝った。
そして3日後に行われた第2戦は「スタンドのみで五千余の人出、加ふるに外野柵をグルリと取巻く群集万に近くという盛況、滅多に顔を見せぬ一流紳士や名流も多く総督府技師、鉄道部事務官、殖産銀行頭取、鮮銀課長なども観戦した」そうだが、今度は3対1で日本運動協会が勝った。

当然のように決着の第3戦を望む声が主催の京城日々新聞社に寄せられたそうだが、天勝野球団は奇術団の日程が優先するために、第3戦はソウルでは行われなかった。そして約2ヵ月後の8月30日に日本運動協会と天勝野球団の大一番が芝浦球場で行われた。「相当の人気を集めて、ファンは両スタンドを埋めた」というこの試合は5対1で日本運動協会が勝ち、日本運動協会が勝ち越した。

しかしこの両チームの対決はこの試合が最後となった。第3戦の直後の9月1日に関東大震災が発生し、芝浦球場は震災自体には耐えたものの、救援物資置場として戒厳司令部に徴発されてしまった。その後も球場が返還されないところかグラウンド上に倉庫が新たに建てられるという状況で、日本運動協会は本拠地なしでは長く興行を続けていくことは不可能と判断し、1924年1月に解散を決定した。また天勝野球団も震災によって自然消滅的に解散してしまった。

その後日本運動協会は阪急電鉄の社長であった小林一三に引き取られ、本拠地を宝塚球場へ移転、宝塚運動協会として再結成された。日本で三番目のプロ野球チームだ。しかし世界金融恐慌の情勢下でチーム経営は厳しく、加えてライバルチームの大毎(大阪毎日新聞のセミプロチーム)の解散により人気カードを失ったことにより阪急首脳陣が見切りをつけ、1929年7月に宝塚運動協会は解散してしまった。ここから日本プロ野球の歴史は、1934年12月に大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が結成されるまで5年の空白期間を挟むことになる。

以上は相当内容を簡略化したが、とても詳しい記述が「日本プロ野球史探訪倶楽部 日本プロ野球史~第一部・日本プロ野球の誕生~」にある。実にすばらしい史料だ。
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kyusi.htm

この内容について、野球体育博物館では以下のような説明しかない。(原文)
プロ野球前史
日本初のプロ野球を目指して大正9年(1920)に日本運動協会(芝浦協会)が設立された。東京芝浦に野球場を建設し、全国から選手を集めてチームをつくり、大正11年から試合を開始した。その後、関西へ移り宝塚協会となったが、昭和4年(1929)に解散した。
そのほかにも、同じころに奇術の松旭斎天勝一座が、有名選手を集めてつくった天勝球団などがあったが、いずれも本格的なプロ野球の誕生には至らなかった。


日本野球機構は自らのルーツである日本職業野球連盟の設立以前についてはとても冷ややかなようだ。

さて、歴史的一戦の舞台となった芝浦球場は現在の東京都港区海岸3丁目の埠頭公園のあたりだそうだ。そしてこの公園内には少年野球場がある。



プレーしている少年がこのような歴史を知っているかはともかくとして、この少年野球場こそプロ野球の発祥の地と言えるだろう。しかしここには日本運動協会に関するものは何もない。(代わりに「南極探検隊記念碑」がある)
日本野球機構と港区にはせめて記念碑ぐらい建てて、日本運動協会や天勝野球団をプロ野球ファンに広く知らしめてほしい。


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